「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -397ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

復活祭の一週間

 

 

マタイ25:6-10
夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。


「簡素に行わせなさい」2008年10月、L・トム・ペリー、十二使徒定員会
主はすばらしい計画をお与えになり,御自身のみもとに帰るための道を示されました。しかし,この世の旅路を終えるには霊の燃料が必要です。到着した花婿を迎えるための油を十分に蓄えていた5人の思慮深いおとめを見習いましょうマタイ25:6-10参照)。霊の油を十分に蓄えておくには何が必要でしょうか。神の永遠の計画を知り,計画の中での自分の役割を知らなければなりません。自分の思いよりも主の御み心こころを優先しながら義にかなった生活を送ることで,わたしたちは約束された祝福を手にするのです。

ウィリアム・R・ブラッドフォード長老はこの壇上から次のように教えました。「正義はきわめて単純なものです。わたしたちは人生で直面するあらゆる状況において,正しい道か間違った道のうちいずれの道に進むかを選択しなければなりません。正しい道を選んで行動するならば,わたしたちは天の力をもたらす正義の原則により守られます。しかし,間違った道を選び,その選択に従って行動するなら,そのような天の約束や力は失われ,わたしたちは一人取り残され,最終的には失敗するのです。」「正義」(英文))

……

日々のストレスからの解放を願うとき,生活を簡素にする方法を熱心に求めることができますように。偉大な幸福の計画の中で主が示された,霊感あふれる勧告と指示に従えますように。聖霊を伴侶とするふさわしさを身に付け,この世の旅路を進むに当たって御霊の導きを受けられますように。天の御父のみもとに戻って生活するという,この試しの世における究極の目的を達成するために自分自身を備えられますように。イエス・キリストの御名により祈ります,アーメン

 

 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ21:12-13
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。


「聖なる場所に堅く立ちなさい」2013年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
安心してください。わたしたちより前の預言者も皆,それぞれの時代で堅く立ったのです。

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これらの神の僕と聖徒が堅く立つことができたのは,救い主とともに立っていたからです。救い主がいかに堅く立っておられたかを考えてください。

イエスは若いころ,父親の仕事を忠実に行い,神殿で博学な人々に福音を説かれました。(ルカ2:46-49参照) その務めを通して救い主は神権の業を果たされました。人を教え,癒し,仕え,祝福し,高められたのです。時に応じて大胆に悪に向かって立ち,神殿をも清められました。(マタイ21:12-13参照) また,言葉や威厳ある沈黙によって,真実を擁護して立つこともなさいました。祭司長たちがカヤパの前で主を告発したときには,賢明かつ勇敢に,偽りの証言に答えることを拒み,黙っておられたのです。(マタイ26:57,59-63参照)

ゲツセマネの園で,わたしたちの救い主であり贖い主であられる御方は,贖いの苦い杯を飲まずに身を引くことはなさいませんでした。(教義と聖約19:16-19参照) 最後まで堪え忍ばれたのです。そして遂に,「すべてが終った」(ヨハネ19:30) と言えるようになるまで,御父の御心を行うために十字架上で再度苦しまれました。堅く立ち,完全な従順を示された救い主に対して,御父はこう言われました。「わたし​の​​愛する​子​を​見​なさい。​わたし​の​心​に​かなう​者​で​ある。わたし​は​彼​に​よって,わたし​の​名​に​栄光​を​加えた。」(3ニーファイ11:7)

様々な年代にある,愛する神権者である兄弟の皆さん,わたしたちの救い主イエス・キリストとともに堅く立って神の御名をあがめましょう。救い主が生きておられ,その御業に携わるために,わたしたちは「聖なる召しを受けている」(アルマ13:32テモテ1:9も参照 ) ことを,特別に証します。「それゆえ,……あなたがた​は​​聖​なる​場所​に​立ち,動かされない​よう​に​しなさい。」(教義と聖約87:8) わたしたちは神の教義の上に従順に堅く立ち,聖なる場所に立っています。なぜなら,社会的,政治的な信条は移り変わろうとも,神の教義は神聖で,変わることがないからです。わたしは使徒パウロのように宣言します。「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく,強くあってほしい。」(1コリント16:13) これが,皆さんに対するわたしの心からの祈りです。イエス・キリストの聖なる御名によって,アーメン

 

 

 

復活祭の一週間

 

 

マタイ21:6-11
弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。


「キリストの弟子として歩む道」2009年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
今日はキリスト教の世界では,伝統的に「シュロの聖日」と呼ばれる日です。イエス・キリストは地上での生涯の最後の週に,エルサレムの町へお入りになりました。約2,000年前の日曜日のことです。(マタイ21:6-11参照) ゼカリヤの昔の預言が成就され(ゼカリヤ9:9参照),イエスがロバに乗られると,多くの人々が主にあいさつし,シュロの葉や,花が咲いた枝,そして自分の上着さえも主が進まれる道の上に敷きました。主が近づかれると,人々はこう叫びました。「主の御名によってきたる王に,祝福あれ。」(ルカ19:38)「ダビデの子に,ホサナ。」(マタイ21:9)

恐らく弟子たちは,これが転機,すなわちユダヤの世界がついにイエスを長い間待ち望んだメシヤであると認めた瞬間だと考えたでしょう。しかし救い主は,その称賛と喝采かっさいの多くは長く続かないことを御存じでした。間もなく,オリブ山に登り,ゲツセマネの園でただ独り,世の罪を背負うことになると知っておられたのです。

「シュロの聖日」から復活祭の朝までのこの週に,わたしたちが光と命と愛の源であるイエス・キリストに思いをはせることは,実にふさわしいことです。エルサレムの群衆は主を,政治的な弾圧から解放してくれる偉大な王であられると見なしたことでしょう。しかし,実際には,主はそれ以上のものをわたしたちに与えてくださいました。値段のつけられない高価な真珠であり,知識の大いなる鍵である主の福音を与えてくださったのです。それを理解し,実践するなら,幸福と平和と充実感に満ちた人生の扉を開いてくれます。

福音はキリストについてのよきおとずれです。神の御子が地上に来て,完全な生活を送り,わたしたちの罪を贖い,死に打ち勝たれたという啓示です。また,それは救いの道,希望と喜びの道,神は御自身の子供たちのために贖いと幸福の計画を用意しておられるという安心を与えてくれる道なのです。

福音は弟子として歩む道です。わたしたちはその道を歩むとき,危機や悲しみ,不安のときにあっても,確信と喜びを持つことができます。