「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -398ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

※2023年4月2-3日総大会

 

 

ヨハネ6:49,51,66

「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが,死んでしまった。」…「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。」…「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった。」

 

 

「主は,飢えている者を良いもので飽かせなさいます」(英文)1997年10月、ジエフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
救い主はガリラヤで人々を教え導いておられたとき,わずか5つのパンと2匹の魚で5000人に食事を与えたという話を聞いて自分たちもただで食事にあずかりたいと期待してやって来た人々をたしなめられたことがあります。確かに食べ物も大切でしたが,主が彼らに与えようと努めておられた真の食べ物に比べれば,それほどのものではなかったのです。

「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが,死んでしまった。」そして主は彼らにこう言われました。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。」

しかし,それは彼らが求めていた食べ物ではありませんでした。記録にはこう書かれています。「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった。」(ヨハネ6:49,51,66)


……

 

過去にどのような道を歩んだかあるいは歩まなかったかにかかわらず, わたしは今日皆さんに「道であり, 真理であり, 命」(ヨハネ14:6) をお伝えしたいと思います。わたしたちは, 命のパンを心から求めていたキリストの最初の弟子たちの体験を一緒に追体験するよう, 皆さんにお勧めします。彼らはキリストから離れずに, みもとへ来て, そこにとどまり, キリスト以外に安全と救いを求める先はないことを理解しました。(ヨハネ6:68)

 

……

 

わたしたちのこの世の旅の本質と,人生で最も重要な疑問に対する答えは, 結局, 救い主の地上における業のごく初期に見られる二つのとても簡潔な要素に集約されるようです。1番目の要素は地上に住む「あなたがたは何を求めているのか。何が欲しいのか」(ヨハネ1:38参照) というわたしたち一人一人に対する問いかけです。そして2番目の要素は,わたしたちがどう答えるかに関係なく, わたしたちの答えに対する主の反応です。わたしたちがどのような人間で, どのように答えるかに関係なく,主はいつも「従ってきなさい」という答えをなさいます。愛を込めて「わたしについてきなさい」(ヨハネ1:39参照) とおっしゃるのです。どこへ行くにしても, まず来て,わたしのすることを御覧なさい。わたしがどこで, どのように時間を使うかを御覧なさい。わたしに学びなさい。わたしとともに歩き, 語り, そして信じなさい。わたしの祈りに耳を傾けなさい。そうすれば, あなた自身の祈りに対する答えを見いだすことでしょう。神があなたがたの魂に休みを与えてくださるでしょう。わたしに従ってきなさい。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

※2023年4月2-3日総大会

 

 

ヨハネ6:5-6
イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。


「5つのパンと2匹の魚」(英文)1994年4月、ジエームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
きょう私は, 5つのパンと2匹の魚に相当する才能を救い主に捧げて、おおぜいの人々を養おうとしている人々についてお話ししたいと思います。

「イエスは目をあげ,大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て,ピリポに言われた,『どこからパンを買ってきて,この人々に食べさせようか。』

これはピリポをためそうとして言われたのであって,ご自分ではしようとすることを,よくご承知であった。」ヨハネ6: 5 -6)

ピリポはすぐに,群衆に食べさせるだけのパンを買うお金はないと答えました。するとペテロの兄弟アンデレがこう言いました。「ここに,大麦のパン五つと,さかな二ひきとを持っている子供がいます。」(9節

「それから,イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り,天を仰いでそれを祝福し,パンをさき,弟子たちにわたして配らせ,また,二ひきの魚もみんなにお分けになった。

みんなの者は食べて満腹した。

そこで,パンくずや魚の残りを集めると,十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。」マルコ6:41-44)

……

私たちは,パンと魚を持っていた新約聖書のあの子供と同じように,自分が天父の霊の子供であり,イエスが世の贖い主,救い主,キリストであることを知り,心に留めていなければなりません。

……

多くの無名の人が, 5つのパンと2匹の魚に等しい賜を用いて,全力を尽くして召しを遂行し,注目や称賛を受けずに,文字どおり数千人の人を養っています。……全力を尽くして働き,常に学んで,主やワード部の人に仕えたいという謙遜な願いを持っています。

主と交わる人はだれでも,陶器師の手にある粘土のようです。名声や富よりも大切なのは,神が望まれる人になることです。この地上に来る前,私たちは人生で自分にしかできない善いことを行なうために備えられました。主はエレミヤにこう告げられました。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに,あなたを知り,あなたがまだ生れないさきに,あなたを聖別し,あなたを立てて万国の預言者とした。」エレミヤ1: 5)  神が多くのオ能を持つ人のためにみ業を用意されるなら,わずかな才能しかない人にも大切なみ業が用意されていると思います。

5つのパンと2匹の魚しか持たない人の中心となる特質は何でしょうか。どうしたら,主のみ手の中で,仕え,助け,祝福し,数百,数千の人々の生活に恵みをもたらせるでしょうか。私は生涯にわたって人々の問題を扱ってきて,利己心と高漫な心を克服する能力が大切だと感じています。このふたつは,神のみたまを完全に受け,神のみ前に謙遜に歩むのを妨げるものです。利己心は,夫婦が互いに赦しを求め合うときの障害となり,より深い愛の全き喜びを妨げます。利己心はしばしば,親子が互いに理解し合うのをじゃまします。うぬぽれや尊大な心を大きくし,現実を見えなくします。また高慢があると,罪や弱点を告白して主のみもとへ行き,悔い改めることができなくなります。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ5:39
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。


「聖文―救いを得させる神の力」2006年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
「地から叫ぶ者の声」とともに,主の預言者は今日,地上のわたしたちに,聖文を研究するようにと呼びかけています。聖文にすがり,聖文によって歩み,聖文によって生き,聖文を喜びとし,聖文を味わってください。ほんの少しだけかじるのではだめです。聖文は,救い主イエス・キリストのみもとへ導き,「救いを得させる神の力」(教義と聖約68:4) なのです。

もし今日,救い主がわたしたちの間におられたら,かつて地上におられたときと同じように聖文から教えてくださるでしょう。ナザレの会堂で,「預言者イザヤの書が手渡されたので,……イエスは,『この聖句は,あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。」(ルカ4:17,21) 後に,パリサイ人とサドカイ人が難しい質問をしたとき,「イエスは答えて言われ〔まし〕た,『あなたがたは聖書も神の力も知らないから,思い違いをしている。』」(マタイ22:29) また,主が復活された後,エマオへ行く途中,「〔弟子たち〕は互たがいに言った,『道々お話しになったとき,また聖書を説き明あかしてくださったとき,お互の心が内に燃えたではないか』」と。(ルカ24:32) 当時も今もなお,主の弟子たちの耳には主の御言葉がはっきりと聞こえます。「聖文を調べなさい。この聖書は,わたしについてあかしをするものである。」(欽定訳ヨハネ5:39から和訳) これは聖霊による証です。なぜなら,「聖霊の力によって,あなたがたはすべてのことの真理を知る」(モロナイ10:5) からです。