「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -393ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ16:23
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。


「種まきのたとえ」2015年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
わたしたちの生活の中で,福音の影響力を弱める最も巧妙ないばらとは,イエスが「生活の心づかいや富や快楽」と呼ばれたようにルカ8:14,この世のことに心を向けることです。これは例を挙げれば切りがありません。少し紹介するだけで十分でしょう。

あるとき,イエスは使徒の頭であったペテロを叱り,こう言われました。「〔あなたは〕わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている。」マタイ16:23教義と聖約3:6‐758:39も参照)人のことを思うとは,行動,優先順位,考えにおいて,神に関わる事柄よりもこの世のことに関心を払うという意味です。

(1)何かに依存するようになると,「生活の……快楽」に身を委ねることになります。(2)そうすると,神からの貴重な賜物である選択の自由を損ねることになります。また,(3)つまらない気晴らしに身を委ねるなら,永遠にわたって大切な事柄から離れてしまいます。そして,救いは保障されているという意識があると,永遠の行く末に必要なふさわしさを身につけるために欠くことのできない人格的な成長を損なってしまいます。

将来に対する不安に縛られてしまうと,信仰をもって前進し,神と神の約束に信頼を置くことが妨げられるので,「この世の……思い煩い」に打ち負かされてしまいます。……

……

 

この世のことで思い煩うなら,生活から神の御言葉を締め出すことになると救い主は警告しておられます。神の戒めと神の教会の指導者に優先順位を置き,わたしたちの思いをそこに定めることは確かにチャレンジです。

救い主が挙げられた例は,このたとえが土のたとえだということを考えさせてくれます。土が適切かどうかは,福音の種がまかれた人の心で決まります。霊的な教えに対する感受性の程度によって,かたくなになって備えのできていない心もあれば,長く使わないために石ころだらけになっている心もあり,この世のものに執着している心もあります。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ16:13,15

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。…そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。


「この岩の上に」(英文)1981年4月、プルース• R ・マッコンキ一、十二使徒定貝会
そして,救いを得ようとする人であればだれもが正しく答えなければならない質問が次に来ます。「それでは,あなたがたはわたしをだれと言うか。」マタイ16: 15)  あなた方主イエス・キリストの使徒たちよ,あなた方いと高き聖徒たちよ,救いを求める忠実な人々よ,あなた方はどうお考えになるか。救いはキリストにあるのか。それとも他に求める必要があるのか。一人一人自分で答えてもらいたいのです。

この時,まずシモン・ペテロが,次いで他のすべての人たちがこう言いました。「あなたこそ,生ける神の子キリストです。」マタイ16: 16)  あなたこそ約束のメシヤ,神の肉における独り子,神はあなたの父なのです, と。

何と驚くべき,畏れ多いことなのでしょう。パウロはこう述べています。「確かに偉大なのは,この信心の奥義である,『キリストは肉において現れ,霊において義とせられ,御使たちに見られ,諸国民の間に伝えられ,世界の中で信じられ,栄光のうちに天に上げられた。』」(1テモテ3: 16)

こうして神である父の「人の子」である彼は,間もなく変貌を遂げるその山のふもとで,友人たちの厳粛な証を受け入れるのです。

イエスはペテロにこう言いました。「バルヨナ・シモン,あなたはさいわいである。」マタイ16: 17)  イエスは何と細やかに,しかも何と適切に自分と他のすべての人とを区別していることでしょう。彼は神の子,ペテロはヨナの子。そしてイエスの父は不死不滅の聖なる人であるのに対し,ペテロの父は死すべき人間なのです。

しかし,なぜペテロがかくも祝福されているのでしょう。それは彼が,聖霊の力によってイエスが主であることを知っているからです。聖きみたまがペテロの体内の霊に語り,この使徒の長に,ガリラヤのナザレのイエスか神の御子であることを告げたのです。

「バルヨナ・シモン,あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは,血肉ではなく,天にいますわたしの父である。」マタイ16: 17)

こうして再びイエスは自分とペテロの父が異なることに言及し,次のように語って祝福の言葉と教義の説明を続けます。「そして,わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」マタイ16: 18)

これと異なった考えがはたして可能でしょうか。主が建てる王国である教会の土台となるものはほかにありません。神につける事柄はみたまの力によってしか知ることはできませんし,だれも聖霊によらないで,イエスが主であることを知ることはできないのです。

啓示。混じりけのない完全な,主から直接下される啓示。これが岩です。

イエスがキリストであるとの啓示。天の神から地上の人間に下される平明でしかも驚くべき言葉,私たちの主が神の御子であることを言明する言葉。これが岩です。

主の証。「預言の霊」である主の証。黙示19 : 10) これが岩です。

以上のすべてに加えてまだあります。キリストが岩です。キリストは歳月に苔むした岩であり,イスラエルの巖確かな土台です。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ16:13,16,19
イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。…シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。…わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。


「神殿は主の宮居」(英文)1985年10月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長会
この聖き宮居において, 夫婦は, 主がいにしえの使徒に与えられたと同じ権能により結び固められます。「ピリポ,カイザリヤの地方に行かれたとき」イエスは使徒たちと語られました。その会話の中でペテロが感動的な宣言をしました。「あなたこそ, 生ける神の子キリストです。」(マタイ16:13,16) すると救い主は,啓示の権能について語られ, この権能により知識がもたらされること, また啓示の原則の上に主の教会を立てることを話されました。そしてさらに, ご自分が選びたもうた兄弟たちに向かって, こう言われました。「わたしは,あなたに天国のかぎを授けよう。そして, あなたが地上でつなぐことは, 天でもつながれ, あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」(マタイ16:19)

厳粛な神殿結婚は, 彼らに与えられたと同じ聖なる神権の権能により執り行なわれ、夫婦はこの世だけではなく, 来世にまでも及ぶ結び固めを受けます。

愛する人との死別は, 常に悲しいものです。ほとんどの結婚式で述べられるのは, 「死がふ左りを分かつ」ときで夫婦の関係が終わるということです。もしそれが事実であって, そこから逃れる方法がないのであれば, 実に悲しいことです。

しかし, そんなはずはありません。私たちすべての者を愛したもう天父が, 人類にとって最も神聖な絆を断ち切り, 互いに愛し, 敬い, 尊び合っていた夫婦を別れ別れにさせるはずはありません。しかし, そこには取り決めと承諾がなければなりません。また, 互いに従順でなければなりません。道ははっきりしています。この聖なる神殿において, 聖なる神権によってのみ夫婦は結び固められるのです。