「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -392ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ18:1-4
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 


「あなたは御父にとって大切な存在です」2011年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
愛する兄弟姉妹の皆さん,宇宙の広大さに比べたら,確かに人は取るに足りないかもしれません。時には,自分がつまらない,人に気づかれない,孤独で,忘れられた存在だと感じることさえあるでしょう。でもいつも覚えていてください。あなたは御父にとって大切な存在であることを。それを疑うことがあるなら,次の4つの神聖な原則について考えてください。

第1に,神は謙遜で柔和な人を愛しておられます。そのような人は「天国でいちばん偉い」からです。(マタイ18:41-3節も参照)

第2に,「〔主の〕完全な福音が弱い者や純朴な者によって世界の果てまで……宣のべられる」よう主は彼らにその業をゆだねておられます。(教義と聖約1:23) 「出て来て,力ある強い者たちを打ち破る」ために,(教義と聖約1:19) また「強い者」を辱めるために,「世の弱い者」をお選びになったのです。(1コリント1:27)

第3に,住む場所,質素な環境,地味な職業,限られた能力,平凡な容姿,教会の小さな召しなどにかかわらず,天の御父の目には皆さんの姿がはっきりと映っています。御父は皆さんを愛しておられ,皆さんの謙虚な心,愛と親切心から出た行動を御存じです。それは皆,皆さんの忠誠心と信仰の永久に変わらぬ証なのです。

最後ですが第4に,今見たり経験したりしていることは永遠に続くわけではないということを理解してください。孤独感,悲しみや苦痛,失望が永遠に続くことはありません。神に心を向ける人を神は忘れたり見捨てたりは決してなさらないとわたしたちは約束されています。(ヘブル13:5参照) その約束に希望と信仰を持ってください。天の御父を愛し,言葉と行いにおいて主の弟子になるよう努めてください。

皆さんが踏みとどまり,主を信じ,忠実に戒めを守り続けるなら,いつの日か,使徒パウロに告げられた次の約束が果たされるのを確かに自分自身で経験するでしょう。「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた。」(1コリント2:9)

兄弟姉妹の皆さん,宇宙で最も力ある御方が皆さんの霊の父なのです。御父は皆さんを御存じで,完全な愛で皆さんを愛しておられます。

神は皆さんを,小さな地球の上で短い間だけ生きる,死すべき者と考えてはおられません。御自分の子供と見なしておられるのです。なるべき者になれる能力を備えた存在であり,そのように創造された存在であると思っておられます。皆さんが御自分にとって大切な存在であることを知ってほしいと望んでおられます。

わたしたちが信じ,信頼し,生活を整え,それによって,わたしたちの真の永遠の価値と可能性を理解することができますように。天の御父が用意してくださっている貴重な祝福にふさわしくなれますように。御子イエス・キリストの御名によって祈ります,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。


「わたしがあなたがたを癒いやすことができるように,…悔い改めなさい」(英文)2009年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

今日,耳を傾けている皆さんの中には,重大な罪に立ち向かうために「心の中〔の〕大きな変化」(アルマ5:12) が必要な人がいるかもしれません。神権指導者の助けが必要になることもあるでしょう。ですが,多くの人の場合,悔い改めは,必要とされる変化を起こせるよう主の助けを求めながら,静かに,自分の中で,毎日行っていくものです。

ほとんどの人にとって,悔い改めは一度きりの出来事ではありません。それは旅のように続きます。悔い改めは簡単ではありません。変わるというのは大変なことなのです。逆風に立ち向かい,流れに逆らって泳ぐことが必要です。イエスは言われました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)  悔い改めとは,不正直,高慢,怒り,不純な思いといったことに背を向け,それらとは違う,親切,無私の心,忍耐,霊性といったことに目を向けることです。それは向き直って,「再び神に立ち返る」ということなのです。

特に何について熱心に悔い改めるべきかを知るには,どうすればよいでしょうか。愛する人や友人から変わるべき点を指摘されると,内面にある,生まれながらの自分が頭をもたげ,このように言い返してしまうことがあります。「わたしが変わるべきだと言うんだね。それなら,あなたの欠点について言ってあげようか。」これよりも良い方法は,へりくだって主に願うことです。「父よ,わたしがどうするのがよいとお思いですか」と祈るなら答えが得られます。自分の何を変えたらよいのかを感じるようになります。主は,わたしたちの思い,そして心に告げてくださるのです。(教義と聖約8:2)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。


「十字架につけられて」2022年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
最後に,かつてゴードン・B・ヒンクレー大管長が教えたように,「教会員の生活こそがわたしたちの信仰の象徴とならなければならない」ことが思い起こされます。(ゴードン・B・ヒンクレー「キリストの象徴」「『聖徒の道』1976年12月号) これらのこと,特に後者の理由を考え合わせると,十字架に言及するあらゆる聖句の中で最も重要だと思われるものを思い出します。それはペンダントやジュエリー,尖塔や標識とは何の関係もありません。むしろ,イエスがその弟子一人一人に与えられた召しを果たすうえでクリスチャンが身につけておくべき強い誠実さと固い道徳心に関係しています。どの国でもどの時代でも,主はわたしたち皆に向けてこうおっしゃっています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)

ここで言っているのは,身に付けるのではなく,身に負う十字架のことです。イエス・キリストに従うために人は,自分またはだれかの重荷を負い,犠牲が必要な所,苦しみが避けられない所に行かなければならないときがあります。真のクリスチャンは,自分が納得できるときだけ主に従うということはできません。そうです。わたしたちはどこにいても主に従います。必要であれば,涙と苦しみを味わい,ときに独りきりになるとしても,主に従います。