マタイ16:24
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
「十字架につけられて」2022年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
最後に,かつてゴードン・B・ヒンクレー大管長が教えたように,「教会員の生活こそがわたしたちの信仰の象徴とならなければならない」ことが思い起こされます。(ゴードン・B・ヒンクレー「キリストの象徴」「『聖徒の道』1976年12月号) これらのこと,特に後者の理由を考え合わせると,十字架に言及するあらゆる聖句の中で最も重要だと思われるものを思い出します。それはペンダントやジュエリー,尖塔や標識とは何の関係もありません。むしろ,イエスがその弟子一人一人に与えられた召しを果たすうえでクリスチャンが身につけておくべき強い誠実さと固い道徳心に関係しています。どの国でもどの時代でも,主はわたしたち皆に向けてこうおっしゃっています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)
ここで言っているのは,身に付けるのではなく,身に負う十字架のことです。イエス・キリストに従うために人は,自分またはだれかの重荷を負い,犠牲が必要な所,苦しみが避けられない所に行かなければならないときがあります。真のクリスチャンは,自分が納得できるときだけ主に従うということはできません。そうです。わたしたちはどこにいても主に従います。必要であれば,涙と苦しみを味わい,ときに独りきりになるとしても,主に従います。
