イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。…そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
「この岩の上に」(英文)1981年4月、プルース• R ・マッコンキ一、十二使徒定貝会
そして,救いを得ようとする人であればだれもが正しく答えなければならない質問が次に来ます。「それでは,あなたがたはわたしをだれと言うか。」(マタイ16: 15) あなた方主イエス・キリストの使徒たちよ,あなた方いと高き聖徒たちよ,救いを求める忠実な人々よ,あなた方はどうお考えになるか。救いはキリストにあるのか。それとも他に求める必要があるのか。一人一人自分で答えてもらいたいのです。
この時,まずシモン・ペテロが,次いで他のすべての人たちがこう言いました。「あなたこそ,生ける神の子キリストです。」(マタイ16: 16) あなたこそ約束のメシヤ,神の肉における独り子,神はあなたの父なのです, と。
何と驚くべき,畏れ多いことなのでしょう。パウロはこう述べています。「確かに偉大なのは,この信心の奥義である,『キリストは肉において現れ,霊において義とせられ,御使たちに見られ,諸国民の間に伝えられ,世界の中で信じられ,栄光のうちに天に上げられた。』」(1テモテ3: 16)
こうして神である父の「人の子」である彼は,間もなく変貌を遂げるその山のふもとで,友人たちの厳粛な証を受け入れるのです。
イエスはペテロにこう言いました。「バルヨナ・シモン,あなたはさいわいである。」(マタイ16: 17) イエスは何と細やかに,しかも何と適切に自分と他のすべての人とを区別していることでしょう。彼は神の子,ペテロはヨナの子。そしてイエスの父は不死不滅の聖なる人であるのに対し,ペテロの父は死すべき人間なのです。
しかし,なぜペテロがかくも祝福されているのでしょう。それは彼が,聖霊の力によってイエスが主であることを知っているからです。聖きみたまがペテロの体内の霊に語り,この使徒の長に,ガリラヤのナザレのイエスか神の御子であることを告げたのです。
「バルヨナ・シモン,あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは,血肉ではなく,天にいますわたしの父である。」(マタイ16: 17)
こうして再びイエスは自分とペテロの父が異なることに言及し,次のように語って祝福の言葉と教義の説明を続けます。「そして,わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16: 18)
これと異なった考えがはたして可能でしょうか。主が建てる王国である教会の土台となるものはほかにありません。神につける事柄はみたまの力によってしか知ることはできませんし,だれも聖霊によらないで,イエスが主であることを知ることはできないのです。
啓示。混じりけのない完全な,主から直接下される啓示。これが岩です。
イエスがキリストであるとの啓示。天の神から地上の人間に下される平明でしかも驚くべき言葉,私たちの主が神の御子であることを言明する言葉。これが岩です。
主の証。「預言の霊」である主の証。(黙示19 : 10) これが岩です。
以上のすべてに加えてまだあります。キリストが岩です。キリストは歳月に苔むした岩であり,イスラエルの巖確かな土台です。
