「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -380ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ23:3
だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。


「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」2009年10月、デビッド・A・ベドナー長老、十二使徒定員会
一回一回の家族の祈り,一回一回の家族の聖文学習,一回一回の家庭の夕べが,心のキャンバスに描かれた1本の線なのです。心を打ち記憶に残る出来事などないように思えるかもしれませんが,黄色や,金色や,茶色の絵の具で描いた一本一本が補い合って印象的な傑作を生み出すように,一見取るに足りないことを一貫して行うことで,意義深い霊的な実が得られるのです。「それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである。」教義と聖約64:33一貫性とは,個人の生活の中に大いなる業の基を据え,家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わるために重要な原則なのです。

家庭で一貫性を持つことが大切な理由がもう一つあります。救い主は度々偽善者を厳しく叱責されました。イエスは律法学者やパリサイ人について弟子たちに「彼らのすることには,ならうな。彼らは言うだけで,実行しないから」と警告されましたマタイ23:3。この力強い警告は,「愛を表現し,行動で示す」「証を述べ,証に生きる」「一貫性を持つ」ということを考えると,いっそう強く心に響きます。

偽善は生活の中で容易に認識できるものであると同時に,家庭をひどく損なうものでもあります。また,偽善に気づくという点では子供が最も敏感であることが多いものです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ22:42
「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。


「イエスの教え」2011年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
イエスは次のような課題をお与えになりました。「あなたがたはキリストをどう思うか。」マタイ22:42使徒パウロはコリント人に次のような課題を与えています。「あなたがたは,はたして信仰があるかどうか,自分を反省……するがよい。」2コリント13:5わたしたちは皆,自分でこれらの課題に答える必要があります。突き詰めるとわたしたちは何に忠実なのでしょうか。わたしたちはニール・A・マックスウェル長老が印象深い表現で語ったようなクリスチャン,すなわち,シオンに家を移しながらも,バビロンの別荘を手放そうとしないクリスチャンとなってはいないでしょうか。(ニール・A・マックスウェル,A Wonderful Flood of Light(1990年)47参照)

中立の地というようなものはありません。わたしたちはイエス・キリストの弟子です。わたしたちは主の教会の会員であり,常に主の福音に従う者です。休暇を取ってバビロンに足を踏み入れたり,バビロンの民のように振る舞ったりするわけにはいかないのです。わたしたちは主の御名を敬い,主の戒めを守り,「この世のものを求めないで,まず,神の王国を築き,神の義を打ち立てることを求め〔る〕」べきなのですジョセフ・スミス訳マタイ6:38

イエス・キリストは,確かに神の独り子,神の愛子です。主は確かにわたしたちの創造主であり,世の光であり,罪と死からわたしたちを救ってくださる救い主です。これが地上における最も大切な知識であり,わたしが自分で知ったように皆さんも自分でそのことを知ることができます。御父と御子について証し真理へと導く聖霊が,これらの真理をわたしに明らかにしてくださいました。皆さんにも明らかにしてくださいます。そのためには,望みを持ち,従順でなければなりません。願いについて,イエスはこう教えられました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」マタイ7:7従順について主はこう説かれました。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教えが神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」ヨハネ7:17これらのことが真実であることを,イエス・キリストの御名により証します。アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ22:40
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。


「あなたがたの行うことを神聖にしなさい」2002年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
わたしたちは時々自分の特異性を弁護することすらあります。その目障りな部分をあたかも自分の個性だと考えるのです。主の弟子になるということは、預言者ジョセフ・スミスが証しているように、ある意味で「体をぶつけるスポーツ」にたとえられます。

「わたしは大きな粗い石に似ています。……わたしが唯一磨かれるときといえば、それは、何かほかのものと接触することによって、すなわち、 ……加速された力でぶつかることによって、削り取られるときです。このようにして、わたしは、全能者の矢筒の中で、滑らかな研ぎ澄まされた矢となるのです。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith、ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕、304)

ひざがかがんでも心がかがむまでには時問がかかるので、神にすべてをささげようとしないために人類の最も優秀な頭脳が神の業に参加できないでいます。「思ってもみないこと」を学んだモーセのように柔和になる方がはるかにいいのです(モーセ1:10)。しかし悲しいことに兄弟姉妹、選択の自由や個性が微妙に交錯する中で、なかなか一歩を踏み出せないことが多いのです。心を主に従わせることは勝利にほかならないのです。なぜなら、そうすることによってより広くより高い神の道へと導かれるからです(イザヤ55:9参照)

皮肉にも、良いことであるにもかかわらず、あまりにも一生懸命になるために神への献身がないがしろにされることがあります。例えば、スポーツや身体強化に夢中になっている人がわたしたちの中にいます。自然を敬っているにもかかわらず、自然をお造りになった神を無視している人がいます。良い音楽にのめり込んでいる人、同様に価値ある職業を無上のものとしている人もいます。そのような状況の中でしばしば顧みられないのが「もっと重要な」ことです(マタイ23:231コリント2:16も参照)。実行可能な最も良いことへとわたしたちを導いてくださるのは、至高者御一方だけなのです。

イエスは強調を込めて、二つの大いなる戒めにほかのすべてのものがかかっていると宣言されました。逆ではありません(マタイ22:40参照)。重要さで劣る他のものを懸命に追求するあまり、第一の戒めがないがしろにされてはなりません。重要さで劣るものを礼拝することはないからです。

義にかなった働きの刈り取りを楽しむ前に、まずは神の手を認めようではありませんか。そうでないと次のような合理化が頭をもたげます。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た。」(申命8:17)また、(ギデオンの思慮深い小さな軍隊を除く)古代イスラエルの民が「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と大言壮語したように、自ら「誇〔って〕」しまうのです(士師7:2)。自分自身の「手」を自慢すると、すべてのことの中に神の御手みてを認めることが2倍難しくなります(アルマ14:11;教義と聖約59:21参照)