マタイ22:40 あなたがたの行うことを神聖にしなさい | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ22:40
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。


「あなたがたの行うことを神聖にしなさい」2002年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
わたしたちは時々自分の特異性を弁護することすらあります。その目障りな部分をあたかも自分の個性だと考えるのです。主の弟子になるということは、預言者ジョセフ・スミスが証しているように、ある意味で「体をぶつけるスポーツ」にたとえられます。

「わたしは大きな粗い石に似ています。……わたしが唯一磨かれるときといえば、それは、何かほかのものと接触することによって、すなわち、 ……加速された力でぶつかることによって、削り取られるときです。このようにして、わたしは、全能者の矢筒の中で、滑らかな研ぎ澄まされた矢となるのです。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith、ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕、304)

ひざがかがんでも心がかがむまでには時問がかかるので、神にすべてをささげようとしないために人類の最も優秀な頭脳が神の業に参加できないでいます。「思ってもみないこと」を学んだモーセのように柔和になる方がはるかにいいのです(モーセ1:10)。しかし悲しいことに兄弟姉妹、選択の自由や個性が微妙に交錯する中で、なかなか一歩を踏み出せないことが多いのです。心を主に従わせることは勝利にほかならないのです。なぜなら、そうすることによってより広くより高い神の道へと導かれるからです(イザヤ55:9参照)

皮肉にも、良いことであるにもかかわらず、あまりにも一生懸命になるために神への献身がないがしろにされることがあります。例えば、スポーツや身体強化に夢中になっている人がわたしたちの中にいます。自然を敬っているにもかかわらず、自然をお造りになった神を無視している人がいます。良い音楽にのめり込んでいる人、同様に価値ある職業を無上のものとしている人もいます。そのような状況の中でしばしば顧みられないのが「もっと重要な」ことです(マタイ23:231コリント2:16も参照)。実行可能な最も良いことへとわたしたちを導いてくださるのは、至高者御一方だけなのです。

イエスは強調を込めて、二つの大いなる戒めにほかのすべてのものがかかっていると宣言されました。逆ではありません(マタイ22:40参照)。重要さで劣る他のものを懸命に追求するあまり、第一の戒めがないがしろにされてはなりません。重要さで劣るものを礼拝することはないからです。

義にかなった働きの刈り取りを楽しむ前に、まずは神の手を認めようではありませんか。そうでないと次のような合理化が頭をもたげます。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た。」(申命8:17)また、(ギデオンの思慮深い小さな軍隊を除く)古代イスラエルの民が「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と大言壮語したように、自ら「誇〔って〕」しまうのです(士師7:2)。自分自身の「手」を自慢すると、すべてのことの中に神の御手みてを認めることが2倍難しくなります(アルマ14:11;教義と聖約59:21参照)