「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -273ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ2:1-2

「さて、ヤコブよ、わたしはあなたに告げる。あなたは、わたしが荒れ野で艱難に遭っていたときに最初に生まれた子である。見よ、あなたは、幼いとき、あなたの兄たちが乱暴なためにひどい苦難を味わい、つらい思いをした。しかしながら、荒れ野で最初に生まれたわたしの子ヤコブよ、あなたは神の偉大さを知っている。神はあなたの苦難を聖別して、あなたの益としてくださる。

 

 

「離婚」2007年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会

結婚生活に伴う問題で教会員に助言している経験豊かで賢明なあるビショップの意見について考えてみましょう。離婚した人たちについて,彼はこう述べています。

 

「一般的に,どの夫婦や個人も,離婚は良いことではないと分かっていました。しかしながら,皆が『自分たちの場合は別です』と主張しました。

 

たいてい,彼らは配偶者の欠点にばかり焦点を当て,自分自身の言動には少しも責任を取ろうとしません。夫婦間の会話は途絶えています。

 

一般的に,彼らは過去を見詰めています。道端に置かれた,過去の言動が詰まったごみ箱から離れようとせず,前進しようとしません。

 

重大な罪が関係している場合もありますが,それ以上によくあるのは,『愛が冷え切っている』場合です。彼らは,『彼はわたしの必要をもう満たしてくれない』とか,『彼女は変わってしまった』と言います。

 

だれもが子供たちへの影響を心配しますが,結論はいつもこうです。『わたしたちが一緒に暮らしてけんかをするのは,子供たちにとってもっと悪いことです。』」

 

これとは対照的に,このビショップの助言に従ってともに暮らす夫婦は,自分たちの夫婦関係がいっそう強くなっていることが分かってきます。そのような前途は,戒めを守り,教会に出席し,聖文を読み,祈ることに,絶えず前向きに取り組み,自分の欠点を直そうとする互いの決意から切り開かれます。彼らは「配偶者と自分にとって贖いがいかに重要で力を持つかをよく理解しています。辛抱強く,努力を重ねます。」ビショップの報告によれば,彼が助言を与えた夫婦は,自分たちの結婚生活を守るために,これらのことを行い,悔い改め,努力していくうちに,「癒しが100パーセント達成されました。」

 

……

 

結果がどうあろうと,また皆さんの経験がどんなに困難であろうと,皆さんが主を愛し,主の戒めを守り,最善を尽くしているならば,永遠の家族関係という祝福を失うことはないという約束が皆さんにはあります。若いヤコブが家族の行為で「ひどい苦難を味わい,つらい思いをした」とき,父リーハイはヤコブにこう言って確信させました。「あなたは神の偉大さを知っている。神はあなたの苦難を聖別して,あなたの益としてくださる。」(2ニーファイ2:1-2)同じように使徒パウロもわたしたちにこう保証しています。「神は,神を愛する者たち……と共に働いて,万事を益となるようにして下さる……。」(ローマ8:28

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ1:15

しかし見よ、主はわたしを地獄から贖ってくださった。わたしは主の栄光を見た。そして、主の愛の御腕に永遠に抱かれている。

 

 

「わたしがあなたがたを癒いやすことができるように,……悔い改めなさい」(英文)2009年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

 

この経験から数か月間,わたしは,御自身のみもとに来て,霊的な意味で御腕に抱かれるようにという主の呼びかけについて考えてきました。主は言われました。「見よ,わたしの憐みの腕はあなたがたに向けて伸べられている。わたしは来る者をだれでも受け入れよう。わたしのもとに来る者は幸いである。」(3 Nephi 9:14

 

聖文において主の御腕は,広げ(モルモン 6:17),伸べられ(アルマ 19:36),伸ばし(列王下 17:36; 詩篇 136:12),抱かれる(2 ニーファイ 1:15) と書き表されているほか,強い(教義と聖約 123:6),聖なる(3 ニーファイ 20:35),憐れみの御腕(アルマ 5:33),腕に……保護する(アルマ 34:16),愛の腕(教義と聖約 6:20),「終日,……伸べている」(2 ニーファイ 28:32) といった言葉でも表現されています。わたしたちは一人一人,霊的な意味で主の御腕に抱かれるという感覚をある程度知っています。主の赦し,主の愛,主の慰めを感じたことがあるのです。主はこう言われました。「わたしがあなたがたを慰める者である。」(2 ニーファイ 8:12

 

わたしたちがみもとに来て御腕に抱かれるようにという主の望みは,悔い改めへの招きという形で表されることが多くあります。「見よ,主はすべての人を招き,憐れみの御腕を伸べて,『悔い改めよ。そうすれば,わたしはあなたがたを受け入れよう』と言われる。」(アルマ 5:33

 

人は罪を犯すと神に背を向けますが,悔い改めるとき,向き直って神に立ち返るのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ1:15

しかし見よ、主はわたしを地獄から贖ってくださった。わたしは主の栄光を見た。そして、主の愛の御腕に永遠に抱かれている。

 

 

「本心に立ち返る:聖餐,神殿,奉仕による犠牲」2012年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

愛する兄弟姉妹,わたしたちが放蕩息子と呼ぶ,救い主が語られた青年は,家に帰って来ました。父は息子を忘れていませんでした。息子を待っていました。そして「〔息子が〕まだ遠く離れていたのに,父は彼をみとめ,哀れに思って走り寄り,……接吻した」(ルカ15:20)のです。息子の帰還を祝って,父は最上の着物と指輪を用意させ,肥えた子牛で祝宴を開きました。(ルカ15:22-24参照)これはわたしたちが天の御父のみもとへ帰る道のりを忠実に堪え忍ぶならば,あらゆる祝福にあずかれることを思い出させてくれます。

 

わたしは御父と御子の愛を心に抱いて皆さんに強く求めます。わたしたち一人一人が自分の霊的な望みに従い,本心に立ち返ることができますように。鏡に向かって自分にこう問いかけてください。「わたしはどれほど聖約に添って生活しているだろうか。」こう答えることができれば,正しい道を歩んでいます。「わたしは毎週ふさわしい状態で聖餐を受け,神殿推薦状を持つにふさわしく,神殿に参入し,人々に奉仕し祝福をもたらすために犠牲を払っています。」

 

神はわたしたちの罪を贖うため「そのひとり子を賜わったほどに」(ヨハネ3:16)一人一人を愛しておられることを特別に証します。神はわたしたちが遠く離れていても,わたしたちを知っていて,待っておられます。自分の望みに基づいて行動し本心に立ち返るとき,わたしたちは「主の愛の御腕に永遠に抱かれ」(2ニーファイ1:15),天の家に迎え入れられます。救い主イエス・キリストの聖なる御名により証します。アーメン