しかし見よ、主はわたしを地獄から贖ってくださった。わたしは主の栄光を見た。そして、主の愛の御腕に永遠に抱かれている。
「わたしがあなたがたを癒いやすことができるように,……悔い改めなさい」(英文)2009年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
この経験から数か月間,わたしは,御自身のみもとに来て,霊的な意味で御腕に抱かれるようにという主の呼びかけについて考えてきました。主は言われました。「見よ,わたしの憐みの腕はあなたがたに向けて伸べられている。わたしは来る者をだれでも受け入れよう。わたしのもとに来る者は幸いである。」(3 Nephi 9:14)
聖文において主の御腕は,広げ(モルモン 6:17),伸べられ(アルマ 19:36),伸ばし(列王下 17:36; 詩篇 136:12),抱かれる(2 ニーファイ 1:15) と書き表されているほか,強い(教義と聖約 123:6),聖なる(3 ニーファイ 20:35),憐れみの御腕(アルマ 5:33),腕に……保護する(アルマ 34:16),愛の腕(教義と聖約 6:20),「終日,……伸べている」(2 ニーファイ 28:32) といった言葉でも表現されています。わたしたちは一人一人,霊的な意味で主の御腕に抱かれるという感覚をある程度知っています。主の赦し,主の愛,主の慰めを感じたことがあるのです。主はこう言われました。「わたしがあなたがたを慰める者である。」(2 ニーファイ 8:12)
わたしたちがみもとに来て御腕に抱かれるようにという主の望みは,悔い改めへの招きという形で表されることが多くあります。「見よ,主はすべての人を招き,憐れみの御腕を伸べて,『悔い改めよ。そうすれば,わたしはあなたがたを受け入れよう』と言われる。」(アルマ 5:33)
人は罪を犯すと神に背を向けますが,悔い改めるとき,向き直って神に立ち返るのです。