「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -272ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ2:8

したがって、これらのことを地に住む者に知らせて、聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ、だれも神の御前に住める者がいないことに気づかせるのは、何と大切なことであろうか。聖なるメシヤは、肉において御自分の命を一度捨て、そして、死者の復活をもたらすために御霊の力によって再びそれを得て、最初によみがえる者となられる。

 

 

「そこで彼らは恐れを静め」2015年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会

禁断の実を食べた後,神の声を聞いたアダムとエバはエデンの園で身を隠しました。神はアダムに呼びかけてお尋ねになりました。「『あなたはどこにいるのか。』〔アダムは答えました。〕『あなたの〔声〕を聞き,……恐れ……たのです。』」(創世3:9-10)注目するべきことに,堕落の影響として最初に起こったことの一つは,アダムとエバが恐れを経験したことです。この強力な感情は,わたしたちの現世での経験の重要な要素なのです。

 

モルモン書には,主を知る知識がもたらす力によって(2ペテロ1:2-8アルマ23:5-6参照),ひどい逆境に直面したときでさえも恐れが消え去り,平安が与えられることを明らかにしている例があります。

 

ヘラムの地で,アルマの民はレーマン人の軍隊がやって来たためにおびえました。

 

「しかし,アルマは出て行って民の中に立ち,怖がらないように,また主なる自分たちの神を覚えていれば主は助けてくださると彼らに説いた。‎

 

そこで彼らは恐れを静め……た。」(モーサヤ23:27-28

 

アルマが民の恐れを静めたのではないことに注目してください。そうではなく,アルマは信者たちに,主を覚え,主だけが与えることのおできになる助けを思い起こすように勧めたのです(2ニーファイ2:8参照)。そして救い主の見守りを知ることで,民は自分自身の恐れを静めることができました。

 

主を知る正しい知識と主を信じる信仰は,恐れを静める力を与えてくれます。イエス・キリストこそ永続する平安の唯一の源であられるからです。主は次のように言っておられます。「わたしに学び,わたしの言葉を聴きなさい。わたしの御霊の柔和な道を歩みなさい。そうすれば,あなたはわたしによって平安を得るであろう。」(教義と聖約19:23)‎

 

 

 

Fear not it is I. 2018 By Gorge Cocco Santangelo

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ2:7

見よ、メシヤは律法の目的を達するため、打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために、罪に対する犠牲として御自身をささげられる。このような人々のためにしか、律法の目的は達せられないのである。

 

 

「宿屋に居場所を」2021年4月、ゲレット・W・ゴング、十二使徒定員会

 

現世で,わたしたちは時折主を待ち望むことがあります。将来いたいと思う場所に,まだいないかもしれません。ある敬虔な姉妹はこう述べています。「祝福を求めて忠実に主を待ち望むのは,聖い生き方です。それを哀れんだり,見下したり,裁いたりせずに,畏敬の念をもって接するべきです。」 わたしたちは待ち望む間も,別の人生が始まるのを待たずに,今を生きるのです。

 

イザヤは約束しています。「主を待ち望む者は新たなる力を得,わしのように翼をはって,のぼることができる。走っても疲れることなく,歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31

 

良いサマリヤ人は戻って来ると約束しておられます。主がなさるように互いに気遣い合うときに奇跡が起こります。打ち砕かれた心と悔いる霊を持つようになると,(2ニーファイ2:73ニーファイ9:20教義と聖約59:8参照)イエス・キリストの御声に気づき,主の思いやりの御腕に包み込まれて安全でいられます。(アルマ34:16参照)神聖な儀式は,内面の思いと外面の行動を聖めるために,聖約による帰属意識と「神性の力」をもたらします。(教義と聖約84:20)そして,主の愛にあふれた優しさと寛容によって,主の教会がわたしたちの宿屋となります。

 

わたしたちが主の宿屋に部屋を設けて,すべての人を迎え入れるとき,良いサマリヤ人は,ほこりっぽいこの世の道でわたしたちを癒してくださいます。御父と御子イエス・キリストは,「この世において平和を,また来るべき世において永遠の命を受ける」と(教義と聖約59:23),すなわち「わたしがいる所に,あなたがたもいる」と,完全な愛をもって約束しておられます。(教義と聖約132:23)これらのことを感謝し,イエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン

 

 

 

Go and do likewise (the Good Samaritan) by Jorge Cocco Santangelo

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2ニーファイ2:5

人は善悪をわきまえることを十分に教えられている。また、人には律法が与えられている。しかし、この律法によって義とされる者はだれもいない。すなわち、この律法によって人は絶たれるのである。まことに、現世にかかわる律法によって人は絶たれ、また霊にかかわる律法によっても人は良いものから絶たれて、とこしえに惨めな状態になる。

 

 

「平安と喜びに至る道」2000年10月、リチャード・G・スコット、十二使徒定員会

御父と御子はなぜ悔い改めを命じられたのでしょうか。わたしたちを愛しておられるからです。すべての人が、永遠の律法を破ることを御存じでした。それが小さくても大きくても、律法が破られると、この世で喜びを得るという約束と、天の御父のもとへ帰るという特権を保つために、正義の要求を満たさなければなりません。もし満たせなければ、裁きの日に正義の要求により、わたしたちは神の御前から追放されて、悪魔の支配下に置かれます。(2ニーファイ9:8-10; 2:5参照)

 

そのような罪の宣告を避けられるようにしてくれたのが、救い主と贖いの業です。それはイエス・キリストを信じ、戒めを従順に守り、そして最後まで堪え忍ぶことによって可能になります。

 

皆さんは、さらに大きな平安と喜びを味わえるように、生活の中で悔い改めの贖いの力を十分に活用しているでしょうか。心の動揺や落胆が頻繁にあれば、悔い改めが必要なしるしです。また、生活の中に霊的な導きが欠けているのは、律法を破った結果かもしれません。しかし必要であれば、完全な悔い改めによって皆さんの生活は本来の姿に戻ります。罪によって生じる複雑な霊的な苦痛をすべて取り除きます。しかし、ここにおいて、重大な罪によって物理的に生じた結果の中には、治療できないものがあります。賢くあって、主が定められた義の範囲内でいつも生活してください。