「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -142ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モロナイ2:1-2

キリストが御自分の選ばれた十二人の弟子たちに手を置かれたとき、彼らに言われた御言葉は次のとおりである。

キリストは彼らの名を呼んで言われた。「わたしの名によって熱烈に祈って父に請い願いなさい。あなたがたはこのように行った後に、あなたがたが手を置く者に聖霊を授ける力を持つであろう。わたしの名によって聖霊を授けなさい。わたしの使徒たちはこのように行うからである。」

 

「福音を教えること――最も大切な召し」2008年10月、ウィリアム・D・オズワルド、中央日曜学校会長会

ジョセフ・スミスは天使モロナイが初めて訪れたとき,最初は「恐れたが,その恐れはすぐに去った」と述べています。この恐れを払いのけるために,モロナイは何をしたのでしょうか。ジョセフは,モロナイが「わたしの名を呼ん〔だ〕」ジョセフ・スミス―歴史1:32-3349節も参照)と言っています。生徒を愛し,名前で呼ぶ教師は,天の規範に従っているのです。マタイ3:173ニーファイ11:7モロナイ2:1-2ジョセフ・スミス―歴史1:17参照)

 

最近,トーマス・S・モンソン大管長との集会に出席したとき,大管長がわたしたち一人一人の名前を呼んであいさつしたのに気がつきました。モンソン大管長は少年のころの日曜学校の教師だったルーシー・ガーシュ姉妹について話してくれました。彼女はクラスの子供たち一人一人の名前を知っていたということです。モンソン大管長は彼女についてこのように言いました。「彼女は日曜日に教会を休んだ子や,いつも来ていない子を絶えず訪問しました。皆,自分のことを気にかけてもらっていると感じていました。わたしたちのだれ一人として,彼女と彼女のレッスンを,決して忘れたことはありません。」(トーマス・S・モンソン「偉大な教師の模範」『リアホナ』2007年6月号,77参照)

 

 

 

Loveth the Lord His Sheep, Oil on canvas, 2021 by Jorge Cocco Santangelo

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モロナイ1:3

わたしモロナイはキリストを否定しないので、命の安全を得られる場所を求めてさまよっている。

 

「明るい夜明けだ」2004年4月、ゴードン・B・ヒンクレー大管長

イザヤは声を大にして語りました。「あなたがたの不義があなたがたと,あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために,お聞きにならないのだ。

 

あなたがたの手は血で汚れ,あなたがたの指は不義で汚れ,あなたがたのくちびるは偽りを語り,あなたがたの舌は悪をささや〔く。〕」イザヤ59:2-3

 

旧約聖書に登場するほかの預言者も同様のことを語りました。彼らのメッセージの主眼は,悪に対する非難でした。また,その当時の危険は旧世界に限ったことではありません。モルモン書の中には,西半球でヤレド人の軍隊が死ぬまで戦ったと記されています。またニーファイ人とレーマン人の間にも戦いが起こり,おびただしい数の人が死に,モロナイは独り命の安全を得られる場所を求めてさまよい歩かざるを得ませんでしたモロナイ1:3参照)。モロナイの偉大で最後の嘆願は,現代に住む人々にあてられたものであり,義にかなったことを行うようにとの呼びかけです。

 

「さらに,わたしはあなたがたに,キリストのもとに来て,あらゆる善い賜物を得るように,また悪い賜物や清くないものに触れないように勧めたい。」モロナイ10:30

 

 

 

Moroni Hiding the plates by Jorge Cocco Santangelo

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モロナイ1:1-3

さて、わたしモロナイはヤレドの民の話を短くまとめ終えた後、もうこれ以上は書き記さないと思ったが、わたしはまだ命を失っていない。わたしはレーマン人に殺されないために、わたしのことを彼らに知られないようにしている。

見よ、レーマン人同士の戦争が今非常に激しい。また、彼らは憎しみのために、キリストを否定しないニーファイ人をすべて殺している。

わたしモロナイはキリストを否定しないので、命の安全を得られる場所を求めてさまよっている。

 

「キリストはよみがえられた—キリストを信じる信仰は山を動かす」2021年4月、ラッセル・M・ネルソン大管長

信じない人は,信仰とは弱い人のためのものだと言うかもしれません。しかしこの主張では,信仰の持つ力が考慮されていません。もし救い主の使徒たちが主を疑っていたのなら,主の死後に,自らの命を危険にさらしてまで主の教義を教え続けたでしょうか。※ もしジョセフ・スミスとハイラム・スミスに,主の教会の回復が真実であるという確かな証がなかったとしたら,彼らはそれを擁護して殉教者としての死を受けたでしょうか。2,000人近くに及ぶ聖徒たちが,開拓者の道の上で命を落としました。もし彼らにイエス・キリストの福音が回復されたと信じる信仰がなかったとしたら,そうするに至ったでしょうか。信仰とはまさに,できそうもないことを可能にする力なのです。

 

※アビナダイは真実だと知っていたことを否定しなかったために,火あぶりの刑により死にました。もし彼に信仰の力がなかったとしたら,そのように死んだでしょうか(モーサヤ17:7-20参照)。その力なしに,エテルは,岩の洞穴に身を隠したでしょうか(エテル13:13-14参照)。モロナイは,何年もの孤独に耐えられたでしょうか(モロナイ1:1-3参照)。彼らは自分が信じていることに反対さえすれば,はるかに快適な生活ができたことでしょう。

 

 

 

Moroni and the last pages by Jorge Cocco Santangelo