裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム- -5ページ目

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

エンライト代理人です。
先月の24日に「ネドじゅん氏のインチキ右脳論の罠」という記事をアップさせていただきました。
その内容についてホワイトターラー様からコメントを頂きました。ありがとうございます。

正直このブログの管理と更新を続けるのは、恐ろしく気力と体力をすり減らします。
現在チームは6名ですが、結成時から数えたら20名は超えています。それだけ入れ替わりが激しかったです。

誰もエンライト氏が至ったステージを理解することが出来ない。
それなのに遺された原稿を編集し、アップしなくちゃいけない。コメント対応もしなくちゃいけない。
責任感という重圧。

今まで…いろんな人から恨みを買って、生霊や呪詛みたいなエネルギーもばんばん飛んできた。
そのダメージと苦労が積み重なり過ぎて、限界を越えてしまった元メンバーもいます。

そんな私どもにとって、心が動かない境地、感覚器官が反応しない境地なんて想像もできません。

エンライト代理人メンバーで、瞑想の全てのステージを体験できた人は一人もいないです。
無想三昧に至ったメンバーも3人だけでした(チームを抜けた人も含めてです)。
ですので無種子や法雲のサマーディは全く見当も付きません。

また私どもは誰ひとりとして漏尽通を会得しておりません。
ですのでホワイトターラー様やネドじゅん様の霊的ステージは全く分かりません。当方が勝手に判定すべきことでもないと思います。

私どもはネドじゅん様が伝授されている呼吸法や思考停止法の価値を全面否定するつもりもありません。
呼吸法が心身に与える素晴らしい影響・効能は理解しております。

頭のおしゃべりを完全に止めることは出来なくても…、
少し心の動きが大人しくなるだけでも心身はリラックスし、頭の疲れが癒され、エネルギーが回復し、ストレスの解消や予防にも役立つと思っています。
私どもは10月24日の記事で「でもその方法では思考は完全には止まらない」と言ったまでです。


エンライトブログの中で全ての階梯を体験し尽くしたのは、おそらくエンライト氏だけかと思います。
体験が成立しない体験(?)だったみたいですが、これでは生活も仕事も出来ないので自ら霊性ステージを下げ、生命エネルギーを回復させ、「人として生きること」を選択しました。

ですがエネルギーの完全な回復は出来ず、若くして外宇宙に旅立ちました。
そのエンライト氏が人間馬車馬説のカタ・ウパニシャッド(一元論)と、パタンジャリのヨーガスートラ(二元論)についての説明原稿を遺しております。
今月か来月にその記事をアップさせていただく予定です。


ホワイトターラー様から頂いたコメントの一部に返信いたします。

>サマディで思考の停止は起きますが、意図的に動かそうと思うと動くのです。

意図的に動かそうとするなら問題ないと思いますよ。自分の意思で自由に選んだのですから。
当方はむしろ「思考は必要」と主張したのです。その部分を批判した覚えはありません。


>サマディに入るには雑念が湧かない状態にするのですね。
>これが正念正知(マインドフルネスのことです)で起こる無我の状態です。
>これを日本では「悟り」と呼んでおり、ネドじゅん先生が達成なさった状態です。


当方は24日の記事でいろいろ批判しました。でも正直ネドじゅん様が悟ってるかなんて、あまり関心は無かった、本音は…。
でも、あの人は多くの人に呼吸法メソッドを教えてる。「この方法で思考が止まる」とも主張していました。
当方は一番それを問題視していました。


>マインドフルネスで、サマディのような想受滅や無尋無伺にはなりません。

私どもはマインドフルネスでサマーディに入れるとは言っておりません。
どこにそんなことが書いてありましたか?
ただ思考は止めようとすればするほど逆効果で、余計に思考の力が強くなるので、「単に気付いているだけ」と言いました。

エンライト氏も流行のマインドフルネスは批判していました。
でもその記事は「その時そういう記事を書く目的があったから」だと思います。
先月の私どもの記事の目的と全然違います。

マインドフルネスの件は「目的の違い」もあると思います。
ストレスを解消する。
自分を少しでも理解する。
そんな目的のマインドフルネスなら役立つし、悪くないんじゃないですかね?

マインドフルネスは上座部の教えを削除し、自己啓発やメンタルマネジメントに特化しているのが多いですから。
でもマインドフルネスの指導者が「これで解脱できる」と宣伝を始めたらアウトですね。
ですがそれは別問題なので、私どもの当面の批判対象者ではありません。


>わたしは日本仏教に地震を起こそうとしているので、偽のブッダや人を解脱に導かない羊頭狗肉の仏教は批判します。

エンライトも仏教の僧侶を批判していました。でも仏教界に地震を起こすことは考えていなかったはずです。
初期仏教の経典すら釈迦の教えが改竄されている可能性があります。

釈迦がどんな教えを説かれたのか、真に分かってる人はいないと思います。
なのでエンライトが行なっていた「僧侶批判」は経典を妄信しての「正論提示」じゃありません。もっと別の部分にポイントがあるんです。

ヨーガ経典に関しましては、サンスクリット語の原典に照らして、誤訳を撒き散らしたヨーガ指導者を批判しています。
ですがエンライトはヨーガ指導者じゃないです。仏教の専門家でもないです。
「自分の道を歩く」ことが最優先だったと思います。

結局、私達の目的とホワイトターラー様の目的は根本的に違うと思います。生き方のステージも全然違う。
だから話がかみ合わなかった。


>解脱に導かない仏教は批判します。

解脱は自殺と同じです。
つまりあなた様は、自殺させない仏教は間違っていると? 人々に死んでほしいと?

ホワイトターラー様は凄い知識をお持ちですが、正直言いまして仏教オタクを相手にしてる気分でした。
叡智を感じない。
「そこじゃない感」がすごかった。私たちがあの記事で言いたかったのは、そういう事じゃなかった。

ブログを管理してると、時たまそんな感じの人が来ます。膨大な専門知識を披露し、いつの間に本題を逸らされてしまう。
私が今回感じたのもそれです。右脳の件もスルーされてしまった…。

私どもは仏教の専門家じゃありません。知識も疎らです。
ですからホワイトターラー様と知識の見せ合い・自慢大会するつもりもありません。
私どもがそんな争いを始めたら、あなた様に太刀打ちできるはずがないです。


>SRKWブッダさんも、悟っていらっしゃいますが「コーヒーが欲しい」としょっちゅう呟いています。
>悟っただけでは煩悩は消滅してないのですね。


私どもは私どもの生き方をしています。
「コーヒーが飲みたい」と言う人に向かって、いちいち「煩悩」とか批判することはないし、私どもにとっては「どうでもいいこと」なんです。

私どもは仏教知識で頭をいっぱいにするつもりはないです。
そんな知識・観念に縛られたくない。
そんな生き方はしたくない。

ホワイトターラー様から頂いたコメントは、正直読んでいて頭が痛くなりました。
ブログを読ませていただいた時も、いつも同じことを感じてました。
私どもがこんなにも知識で頭をいっぱいにしたら、普通の人の100倍も頭を使うでしょう。思考が止まらなくなるでしょう。

お釈迦さまは対機説法していたのに、それをかき集めて体系化して教典にして、信者がその画一的な教えを盲信して自分の指針にする。
その教えは自分に合わないかもしれないのに…。足を引っ張るかもしれないのに…。
おぞましい生き方です。寒気がする。

ホワイトターラー様は大乗仏教をいっぱい取り入れている…という印象を受けました。
でも初期仏教の経典のみを指針にしている人にとっては、あなた様の仏法解説も批判対象になるかもしれませんよ。

部派の上座部と大衆部の時代からそうですけど、お釈迦様のシンプルな教えから離れ、煩瑣な教学研究に没頭し、専門用語いっぱいで難解な理論構築した新仏典を編み出した。

大乗仏教の時代はもっとエスカレートして、もう一般大衆が付いていけない感じ・・・。
エンライト氏が竜樹菩薩(ナーガルジュナ)の業論を批判したように。

ですがホワイトターラー様の選択を全面否定するつもりはないです。
でも私たちには関係ないってことです。
私たちは煩悩を肯定してるし、覚醒や解脱をしたいとも思ってないです。


ホワイトターラー様がどんな教えを取り入れているか、私どもはその全貌を把握していないし、知りたいとも思いません。
ですので、ここから先に書かせていただく文章では誰のことか特定しません。「全ての専門家様」への伝言です。

エンライト氏の教えは現代社会の変貌も視野に入れたオリジナル・メッセージです。
「ヨーガそのもの」「仏教そのもの」ではありません。
ですので、専門家の皆さまの解釈と違ってくると思います。


阿頼耶識論では「カルマが貯蔵されるのは阿頼耶識だけ」と説いています。
しかしエンライト氏は「肉体にもカルマが宿る。全ての次元意識層にもエネルギー体にも宿る」と説いています。

エンライト氏の見解こそ真実かと思います。
肉体レベルのカルマは遺伝子に宿っているはずです。
子供たちの外見や体質は親と似ています。

癌で亡くなる人が多い家系、
脳内出血が多い家系、
必ず両親や家系の業を受け継いでいます。

「医学的な原因だけではない」とエンライトは説いていました。
「過去世と先祖系のカルマもその人の体質や個性を決めている。もちろん才能もだ」

仏教とヨーガでは過去世のカルマを問題にしますが、先祖系・家系の影響はスルーする宗派が多いです。
ましてや土地のカルマ、国家のカルマ、民族のカルマ、宇宙のカルマのことまで説く高僧は少ないと思います。
だから現実の問題をカバーしきれない。解決できない事があります。

現世でトラウマになるような感情記憶は、エーテルやアストラル次元の潜在意識に刻印され、知らず知らずにその人の行動を支配し、足を引っ張っています。
ですから、浅い次元にもカルマはあります。阿頼耶識だけではありません。

阿頼耶識論は「意識的な善悪の行為だけがカルマとして貯蔵される」と主張しています。
でもエンライト氏は「無意識の癖や行動もカルマの種子として刻印される。善悪は関係ない」と語っています。

これまたエンライト氏の見解は正しいと思います。
無意識の癖にすぎなかったのに、転生した後も前世の癖を引きずっていた・・というケースがいっぱい報告されています。

以上のようにエンライト氏の教えはヨーガや仏教と違ってる点も多いです。
ですので専門家が認めないメッセージも多いと思います。

私どもは学僧が頭の中で考えた空理空論は信じません。
その点をお承知おきくだされば幸いです。

悟り系スピリチュアルが大盛況だ。
悟りを開き、解脱(げだつ)し、涅槃に至ることを究極の目的としている。

だが私は言う。
「悟り・覚醒・解脱のステージに『救い』のイメージを注入した宗教詐欺師に気を付けよ」と…。

解脱・涅槃には一切の救いはない。
それは完全なる消滅、絶対無でしかない。
そう。虚無である。

だが一部の指導者は猛烈に反発してくる。
「涅槃とは虚無ではありません。無条件の愛であり、至福の境地なのです」


もし解脱や涅槃のステージが「無条件の愛」ならば、そこには愛と呼ぶに相応しい性質がある事になる。
では、その性質を構成しているのは一体何か?
愛の性質を成り立たせている諸条件・構成要素があったことになる。

つまりそれ自体が条件生起(縁起)である。
無条件ではない。
この宇宙に無条件の愛など存在しない。愛も至福も恩寵もすべて条件付きである。


この世は無常。
一切皆苦。
この世界における全ての幸福は、本当の幸福ではない。

美味しいものを食べれば満足する。
だが自然災害・戦争・遭難などで何日も食事が出来なくなったら、物凄い飢餓感に襲われる。

愛する人がいる。
だが病気や事故などで、その人を失ったら、心は悲しみに苛まれる。
この世の全ての幸福は、そのまま苦の原因にもなっているのだ。


真の自由とは何物にも依存していないこと。
「〇〇が必要」というように、何かに依存した幸福は、そのまま苦の原因になり、束縛された状態なのだ。

だが、この世で苦を消し去るのは困難である。
生きるためには食料が必要だし、他にも色々なものが必要。
それらに対する欲望・依存心が無ければ、生きることさえ出来ない。

依存心を完全に捨てたら、死に直結する。
つまり我々は多くの依存対象に執着することで生き長らえている。

依存対象が無ければ生きられない…という事実は、その対象物に拘束されていることを示す。
つまり我々は奴隷である。
真の自由はない。


釈迦は「一切は無常であり、苦である」と説いた。
一切が苦であるならば、この世における生存条件と幸福の条件の全てが苦の原因になる。
ならば生存と幸福の全てを放棄しない限り、苦は消えてくれないわけだ。

まるで生き地獄である。
なす術がない。

釈迦はそこで解脱(げだつ)の道を示した。
ニルヴァーナ・涅槃に至るメソッドである。
2度と現象界に生まれないために。
2度と輪廻しないために。

だがこの道は、魂レベルの完全死と言ってよい。
究極の自殺である。
物質レベルの自殺なら、肉体が死ぬだけだ。魂は生き続け、輪廻の旅を続ける。
だが釈迦は、霊的なものも含めた完全死の道を示したのである。

自分という存在が根こそぎ消滅すれば、一切の苦も雲散霧消する。
何故なら苦を感じる自分が消え去るからだ。
これは断じて「救い」ではない。ポジティブな意味は一つもない。


解脱し、涅槃に至れば、確かに苦は生起しなくなる。
だが楽も生起しなくなる。
全ての不幸は滅するが、全ての幸せも滅する。
全ての絶望は滅びるが、全ての希望も滅び去る。

完全なるゼロ化である。
そんなものを「救い」などと規定した仏教徒がいる。
大乗仏教の僧侶たちだ。
頭でっかちな学僧たちだ。

一体何が救いなのか?
全ての魂を涅槃に送り届けるという大乗仏教の請願(菩薩の誓い)とやらは最低最悪な宗教詐欺である。

解脱の道は、殆どの人には必要ない。
一握り人だけが必要とする。
もし仏道が全ての人に必要で、全人類が実践した場合、地球社会は大変なことになる。


釈迦は出家した全ての弟子に厳しい戒律を与えた。ありとあらゆる欲望を制限した。
それは当然かもしれない。
無常なる世界への執着によって苦が生じるなら、その無常な世界に対するあらゆる欲望を制限しなければならない。

釈迦が授けた戒(シーラ)律(ヴィナヤ)は数百にも及んでいたという。
常軌を逸する数である。
生きるために必要最低限の欲望を除いて、殆どの欲望は規制されていたと言ってよい。

社会に出て働くことを禁止。
生活の糧を得られないから、托鉢で生きるしかない。
こんな生き方を地球上の全ての人が実践したら、経済社会は崩壊する。

異性との性行為も禁止。
性行為への欲望・および異性への執着は解脱の障害になる。
故に子作りも出来ない。

そんな生き方を全人類が実践したら、100年後の地球には人間がいなくなっているだろう。
人類滅亡である。


もう分かった事と思う。
解脱する道は、ごく一部の人だけが実践すれば十分なのだ。
決して全ての人に必要な道ではない。
全ての人が実践したら、人類が滅び去るしかない。


これが一体どうして「救い」と言えるのか?
笑わせるな!


大乗仏教はその矛盾を解決する為の便利なストーリーを用意した。
修行しなくても解脱できる道である。
如来に対する徹底した信仰・明け渡しにより、如来が有する全ての悟り・真智のデータが信者に注入され、その人は修行しなくても解脱できると…。

だが所詮、解脱へのルートを短縮しただけである。
大乗の誓願のように、全ての魂を涅槃に送り届けてしまったら、地球から人間はいなくなる。
結局、何も変わりない。


解脱の道は「もう二度と生まれたくない」「自分という存在を完全に消し去りたい」と腹の底から叫ぶ人だけが必要とするものだ。
究極の自殺願望である。

この世の全てに絶望した。苦痛で苦痛でたまらない。
一刻も早く消滅したい。
そこまで追い詰められた人に、たったひとつ残された最期の手段なのだ。

故に釈迦は決して偉大な人間ではない。尊敬すべき人間でもない。
彼は追い詰められていただけなのだ。


釈迦が説いたのは完全消滅の道である。存在を分解し、雲散霧消させることだ。
全ての愛と幸福が消滅する。
何も残らない。

だが消滅しない限り、苦も消え去らない…。
困ったことだ。
結局、我々は現象界に生まれてしまった時点で「運の尽き」だったのだ。


だが、最後の悪足搔きともいうべき道はある。
それを教えよう。

解脱は求めなくて良いが、悟りは求めた方が良い。
悟りと解脱は異なる。
似て非なるものだ。

解脱するには自我・エゴを滅ぼさなければならないが、悟りの道では観照状態にあるだけで良い。
「エゴは私ではない」「私は私ではない」ことに常に気付いているだけで良い。

それでも苦そのものは消え去らない。
自我が消えたわけではないからだ。
だが、苦を感じている自分が本当は実在しないことに気付いている。

これだけでも痛快な話である。
「宇宙よ、ざまあみろ」だ。

宇宙の魂胆を全て見抜かれてしまった。
宇宙側から見れば最悪な犯罪である。
悟りの道とはそういう事だ。

我々は喜んで宇宙的な犯罪者になればよい。
(現実レベルの犯罪じゃないよ)

宇宙が仕掛けていた罠。
我々はその茶番劇のストーリーラインで、気持ち悪い笑みを浮かべながら俳優を演じていれば良いのである。

 

 

気持ち悪い笑みを浮かべているエンライト@太古の道先案内人

世界中の宗教で、それぞれ独自の戒律を設けている。
食事にも様々な制限をかけている。
戒律が多すぎて、社会環境の変化に即わなくなったケースも多く、それがまた多くの分派が生まれる原因となった。

無宗教の人でも食を制限している人がいる。
特に注目を浴びているのは、菜食主義の人達である。
しかし、同じ菜食主義と言っても様々な流派があ。それぞれに特徴がある。

健康のため、動物愛護のため、環境問題のため…など、個人レベルでも各自で動機は異なる。

肉類や魚介類だけではなく、卵・牛乳・ハチミツも拒否する完全菜食主義者もいる。
ビーガンと呼ばれる人達だ。
だが、そこまで徹底していない人は、少量の動物性食品は受け入れる。

牛肉や豚肉は避けるが、鶏肉は食する人もいる。
植物食が中心でも、卵や牛乳は受け入れる人もいる。

ヴィーガンが卵や牛乳すら拒否するのには理由がある。
その生産方法を問題視しているのだ。
乳牛には大量の乳を出してもらうために、餌の中にホルモン剤を混ぜるケースが多い。

雌の鶏には卵をどんどん産ませる。
卵の品質や産卵率を維持するために強制換羽を行なう。
雄は卵を産まないので、ひなの雌雄鑑別の時に殺処分される。

雌だって将来は安泰ではない。
老鶏になると卵を産まなくなるので屠殺される。
ビーガンにとって到底受け入れられないわけだ。


果物だけを食べるフルータリアンがいる。
種子や根菜類だけを食する人もいる。
逆に、種子や根菜類を拒否する人もいる。新しい生命が生まれるチャンスを奪わないように…。


最近、世界的にホールフードが注目を集めている。
日本には昔から全体食という概念があった。

肉類、魚介類、鳥卵、牛乳などは食材の組み合わせ方が難しく、栄養バランスを取りにくい。
だが加工や精製をしていない植物ならば、栄養のバランスが取りやすいという。
葉っぱ、根、皮、種子も丸ごと食する。

ただし全体食に向かない植物もある。特に野草・山菜の類はアクが強いものが多い。
しばらくお酢や塩水に浸したり、お湯で茹でてアク抜きするわけだ。

全体食・ホールフードなら無条件に良いわけではない。
表面の皮や芽に天然毒素が含まれている植物もある。
(ジャガイモの芽など)


正食法にも様々な流派がある。
小魚を食する流派もある。頭から尻尾まで食べられるからだ。
これも全体食の一種である。

菜食主義者は玄米を好む人が多い。
代表的なのがマクロビオティックだろう。
これもまた全体食である。生命を丸ごと食するのだ。

玄米は解毒効果が高い。
食物繊維が豊富だし、毒を排出するフィチン酸もある。

フィチン酸には大腸がん、乳がん、肺がん、皮膚がんの予防に役立つ可能性がある。
結石の予防効果も指摘されている。
抗酸化物質でもあるため、防腐剤としても利用されている。

その反面、ミネラルの吸収を妨げる可能性も指摘されていた。
特にカルシウムだ。
乳幼児に玄米ミルクを与え続け、骨が曲がってしまったケースが報告されている。

完全に証明されたわけではないが、食料事情が貧しい発展途上国の子供には好ましくないと言われる。
逆に栄養バランスが良好な人ならフィチン酸の多い食品を食べても、ミネラルの吸収効率や利用率は下がらないという。

ビタミンCや発酵食品を十分に食べている人はフィチン酸によるミネラル吸収抑制を弱めることが判明しており、あまり心配する必要はない。

では白米はどうか?
白米に含まれるフィチン酸はとても少なく、炊飯によって大半が分解されてしまう。
だが、古代インドのアーユルヴェーダ医学は、「白米は消化が良い」として推奨している。

私も白米が主食である。
玄米はエネルギーの癖が強すぎるので、私には合わない。
ただし食毒・体毒のデトックスを一気に進めたい時は、玄米だけの食生活を10日間ほど続ける。これを7号食という。


ヴィーガンは栄養状態の悪い人が多いという。
10年も20年もビーガン生活を続けた結果、年齢以上に老け込んでしまった人も多い。
極端な食事法はマイナスの側面も強いわけだ。

ビーガンに不足しがちな必須アミノ酸を補うために、適切なサプリメントの摂取を勧める人もいる。

私はビーガンが好きではない。
動物の命を大切にするのは良いが、自分の命を粗末にするのは一体どういうことだ?
自己虐待に等しいと思うのだ。


菜食主義者の間で代替肉が好まれるようになってきた。
大豆ミートなどである。
たんぱく質が豊富だから、栄養補給に役立つと考えたのだろう。

だが過信は禁物。
大豆イソフラボンを過剰摂取すると乳がん・卵巣がん・子宮筋腫のリスクが生じる。同じ理由で納豆や豆乳の摂り過ぎも良くない。
もちろん適切な量ならば健康に役立つ。


近年、栄養価という点で特に注目度が高いのはスーパーフード。
美容や健康に役立つ成分の多い食材である。
ハリウッドのセレブたちが夢中になり、世界中に広まった。

スーパーフードには法律上の定義はない。
だが一般的な食材と比べてアミノ酸、ビタミン、ミネラル、フィトケミカルなどの健康促進成分を多く含んでいる。
しかも植物由来だ。


サプリメントは特定の成分・栄養素のみを抽出したものが多い。
全体食・ホールフードと全く異なるわけだ。
食材を丸ごと凝縮したサプリメントもあるが、凝縮という工程自体が「加工」に相当する。


以上、見てきたように、食事法には色々な流派がある。
単純に、健康のために実践する人が多いが、動物愛護の理念に基づく食事法もある。
そこに宗教が絡むと、話がもっと複雑になる。ややこしい。


人間は頭が良いが、だからこそ面倒臭い生き物でもある。
つくづく思った。
あー、面倒くせぇ!!!


動物たちは難しい事を考えない。
人間とは大違いだ。
草食動物も肉食動物も、食べたいものを食べるだけ…。

そして何を食べても罪の意識を抱くことはない。
自然な欲求に従っているだけだ。
本能である以上、そこに罪はない。

人間だけが罪悪感を抱く。

ヒンズー教では牛肉と豚肉を禁止している。
イスラム教でも豚肉は禁止。
ユダヤ教では豚肉、海老、イカ、タコなどを禁止している。

いずれも私の大好物である。
これらの食物が食べられなくなるなんて、私には考えられない。
雁字搦めにされたくない!!!


私は信仰心を持っているが、特定の宗教の戒律に縛られていない。
基本的に食べたいものを食べる。

普段はご飯、納豆、味噌汁、漬物、芋の煮物だけの質素な食生活である(納豆は食べない日もある)。
胡瓜とワカメの酢の物が食卓に上る日もある。
酢の物なら海老やタコなどの海産物も合わせればもっと旨いぞ!!

外出中は飲食店に立ち寄る事が多く、動物性食品の割合が増える。
日本蕎麦、ラーメン、うどんも大好きだ。
クジラ、馬肉、鹿肉、合鴨も旨いし、ジビエ料理店で頂いたイノシシも旨かった。

暴飲暴食はしない。
一日一食が基本。たまに二食の日もあるが…。
時には断食もするし、10日間ほど7号食を実行するときもある。


食ひとつとっても本人の価値観や人生観がはっきり現れるものだ。
貴方には貴方の食生活がある。考えがある。
だから私は皆さんに「これが絶対に良い」などと押し付けるつもりはない。

唯一絶対の正解はないからだ。
危険性の高い食事法に対して「禁物」「厳禁」などと強い口調で警告するときがあるが、強引に押し付けるつもりはないし、不可能だ。

個人個人の体質は異なる。
価値観も違う。
試行錯誤しながら、貴方に合った方法を見つけて戴きたい。

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