インド独立の父であるマハトマ・ガンジーは菜食主義者であった。
古代インドの聖典バガヴァッド・ギーター、更に新約聖書、ヨーガ経典の非暴力の影響を強く受けた。
サンスクリット語の用語でアヒンサーという。
少年時代は肉食していたが、やがて菜食主義者になったのだ。
ただしビーガンとは異なる。
ヤギ乳やハチミツは食していたからだ。
ガンジーは親族にも菜食主義や厳しい禁欲を強制した。
ところがある時期、娘さんが重病になってしまった。
主治医の診断では栄養失調が原因とのこと。
主治医は卵を娘さんに食べさせることを勧めたが、ガンジーは拒否した。
思案に暮れた医師は無精卵を食べさせることを提案した。
無精卵には生命の核がない。殺生しないで済む。
納得したガンジーは早速鶏の無精卵を娘さんに食べさせた。
栄養状態が改善され、やがて健康体を取り戻した。
ヒンズー教徒には菜食主義者が多い。カーストが上位になればなるほど菜食者の比率が増える。
敬虔な信者は魚介類や卵も食べない。
仏教徒と同じように五葷も避ける。大蒜、ニラ、らっきょう、玉ねぎ、アサツキなどネギ科ネギ属の植物である。
厳格じゃない人は肉類も食べるが、それでも鶏肉・羊肉・ヤギ肉に限定される。
牛肉と豚肉は食べない。
牛はヒンズー教において神聖な動物であり、豚は不浄な動物とされているからだ。
イスラム教徒も豚肉を拒否する。
ヒンズー教と同じく、豚は不浄とされているからだ。
牛肉、鶏肉、羊肉は食べるが、イスラム法の規定に従った屠殺方法であることが条件である。
厳格な信者ではない場合は、イスラム法に従っていない屠殺方法でも食べる人がいる。
卵や乳製品も食べる。魚介類もOKだが、ウロコのない魚は拒否する人もいる。
イスラム教の世俗派は戒律の守り方が厳格ではないが、豚肉だけは拒否する人が多い。
ユダヤ教では牛・鶏・鹿・羊・山羊が食肉用として許されている。
豚肉、うさぎ、岩狸、ラクダは食べない。聖書の申命記とレビ記にて、不浄な動物とされているからだ。
旧約聖書では清浄な動物と不浄な動物を厳格に分けているのだ。
ユダヤ教は他にも禁止食が多い。
猛禽類、ダチョウ、白鳥、馬、犬、昆虫、爬虫類、血の入った有精卵も禁止。
牛肉は食べるが、乳製品と同時に摂ることは禁止されている。
魚介類ではウロコやヒレのない魚は禁止。
その意味で甲殻類、貝類、軟体類も禁止される。
鰻、ドジョウ、海老、タコ、イカ、蟹、貝類は食べないわけだ。
ユダヤ商人は快楽主義者だから高級レストランでのディナーを楽しみにするが、これだけ禁止食品が多いとどうなのか…。
ただしユダヤ教には多くの教派がある。
聖典タルムードの権威を認めない教派も多く、それぞれ食の戒律が異なる。
改革派に属する人は、食の自由を認めている。アメリカのユダヤ教徒に多い。
世俗派は戒律を全く気にしない。安息日も守らない。禁止食がないから豚肉も甲殻類も食べる。
仏教の登場以来、「生き物を殺してはならない」という教えが広まった。
現代のビーガンも動物愛護の精神を訴えている。
だが歴史を振り返れば、本当のポイントは全く別のところにあったことが分かる。
ヒンズー教が肉食を嫌ったのは、動物愛護の精神ではない。
単に「肉食は穢れである」という考えだったのだ。
ヒンズー教だけではない。
旧約聖書に基づく3大宗教も、一部の動物に対して極めて冷酷である。
「〇〇は不浄な動物だから、食べてはならん」という教義なのだ。
豚さんはキレイ好きな動物だよ
仏教もいろいろな宗派がある。
テラワーダ仏教(上座部)は肉食を禁止しない。
だが動物を積極的に殺して僧侶に献上することは禁止されている。
肉食を徹底的に禁じたのは大乗仏教である。
特に禅宗はいろいろな食物を禁止している。
その影響下で精進料理が発達した。
日蓮宗や浄土真宗には食の制限がない。
飲酒も妻帯も自由である。
ただし日蓮宗と言えども祈禱修法師を目指す人は某寺院の加行所で100日間の修行に打ち込まなければならない。睡眠時間はわずか2時間半。
提供される食事は「極薄のお粥」と「具なし味噌汁」だけ…。
(稀に煮豆や梅干しが付く日もある)
肉食は容認しても、豚肉だけは禁じる宗教がいくつかある。
これは当時の衛生環境も関係していたのではないか?
豚肉には細菌や寄生虫の問題がある。
大昔だって獣肉は生のままではなく、火で加熱して食べていたはずだ。
しかし加熱状態に偏りがあり、火が十分に通っていない箇所があれば、食中毒が発生するだろう。
その種の問題が多発したので、禁止したのかもしれない。
もうひとつの理由は、その宗教を信じる者のアイデンティティに属するものである。
自我同一性、存在証明のことだ。
昔も今も宗教間の戦争が絶えなかった。
それ故、対立宗教とは異なる教義を打ち立てることにより、差別化を図り、独自性を作ろうとしたのかと。
信者たちもその戒律を厳守することにより、伝統宗教を受け継いでいる自分自身の存在証明を得たかったのかもしれない。
しかし、独自性と言っても、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教えには類似点が多い。
いずれも旧約聖書がルーツである。
兄弟宗教・姉妹宗教と言えるのだ。対立の歴史が繰り返されてきたけどね…。
類似点が多いとはいえ、全く正反対の教えも多かった。
旧約聖書は
「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。目には目を。歯には歯を」
という激烈な報復思想を説いている。
だが、単純な復讐思想とも違う。
あくまで同害報復だから、「同等の仕返しまでしか認めない」「それ以上の復讐は禁じる」という意味もあった。
だがキリストは違った。
いかなる報復も認めなかった。
「私は貴方たちに言う。悪人に手向かってはならない。誰かが貴方の右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」
報復思想に対し、愛と赦しの教義を掲げたわけだ。
キリストは安息日も守らなかった。
旧約聖書の教えをたびたび破ったのである。
故に当時のユダヤ教の権力者から目を付けられ、迫害され、最後は十字架に磔にされた。
いずれにしても、数多くの戒律が必ずしも純粋な宗教的真理を示す目的だったとは限らず、他宗教との差別化や対抗手段という側面も持ち合せていたことは想像に難くない。
ヨーガ経典では多くの香辛料が禁止されている。
これも健康上の理由とは思えない。
インド社会では香辛料が大量に消費されている。すさまじい量である。昔も今もだ。
ヨーガ経典の編纂者は、香辛料の消費量を「インド社会の象徴」と見なし、それを禁止する事によって「社会からの超脱」を図ろうとしたのだと…。
これはヨーガだけの話ではない。
出家修行を悟りの道とする宗教では、その当時の社会環境・風習をとらえ、それとは全く異なる生き方を説き、独自性を図ることが多かった。
世俗人と同じ生き方をしていたら決して悟れないと。
以上のことを考えれば、我々のような一般人は、宗教の戒律など無視して良い事になる。
禁止食のことなど気にする必要はない。
むしろ現代科学・栄養学の研究成果を参考にし、最新の知見を取り入れることが有益だと考える。
ただし管理栄養士の話も、人それぞれ違っていたりする。
科学的にもまだ仮説レベルのものが多く、複数の説が乱立している状態だ。
それらの説や知見を完全無視するのは危険だが、過信・盲信するのもまた危険である。
まだまだ何が正解なのか分からない事が沢山ある。
だから最終的には、私達ひとりひとりの価値観と照合し、そのとき最善と思われる選択をするのがベストだと思っている。
…それにしても豚さんが不憫でならない。3大宗教からボロクソに叩かれてる。可哀想で泣きたくなる…。
気分を紛らわせるためにトンカツでも食うか…。
トンカツ(平田牧場)