今回の記事はヨーガの実践面も含まれているが、殆どの人は実践する必要がない。
記事の内容を覚える必要もない。
ただ、同じヨーガでも教派が異なるだけで基本原理すら大幅に変わってしまうことに気付いて戴くだけで充分だ。
古代インドでカタ・ウパニシャッドという教典が編まれた。
聖典バガヴァッド・ギーターと同じく、ヴェーダンタ哲学学派に属する。
カタ・ウパニシャッドは説く。
「ヨーガ行法によって真我を認識せよ」
全ての生命には自我があり、その自我こそ宇宙の根源生命と同一である…と。
すなわち一元論に立つ。
その究極の統合に至るプロセスを次のように説明している。
「5官がマナス(意・認識)と共に停止し、ブッディ(知性・英智)が動かなくなった時、それを至高の道と呼び、心に関わる器官が固定された状態を人々はヨーガと見なす」
ヨーガという用語はは「馬を馬車に繋げる。結び付ける」という意味の動詞ユージから生まれた。
カタ・ウパニシャッドは人間の5官を「馬」に喩えている。
ちなみに肉体は馬車である。
馬を放置したら勝手に走り出してしまう。心と5感の動きによってコントロール不能になる。
暴れるかもしれない。
だから御者(ブッディ)は手綱を操り、馬の動きを制御する必要がある。
5感(5官)が働くとき、それ単体で刺激に反応したのではない。
良い香り・痛い・美味しい…などの感覚には必ずその信号が通る伝達道路(神経回路)がある。
その感覚を制御する為には手綱(マナス)が必要。
宇宙真我の指示を受けた御者(知性・英智)はマナス(手綱)を操作することにした。
馬車(肉体)を走らせている馬(5官)を制御するためだ。
御者はその道具である手綱を操る。
だがそれが最終地点ではない。
ヨーガでは段階を追って修行を進める。
究極の三昧(サマーディ)が訪れれば、心の構成要素であるマナス、ブッディ、アハンカーラも止滅し、真我独存位になる。
そのプロセスはヨーガ各派によって異なる。
ラージャヨーガでは8段階(八支則)を設け、直列的に整理し、体系化している。
だが密教ヨーガ(タントラヨーガ)は極めて複雑で並列的である。
ラージャヨーガの代表的な経典とされるヨーガスートラでは三昧(サマーディ)をもって解脱が訪れると説き、成就者と見なす。
その三昧にも数種類あり、有想三昧や有種子三昧などがスートラの7段階の次に訪れる瞑想ステージである。
つまりダーラナー(強固で持続的な集中)→ ディヤーナ(静慮)と進んだ瞑想プロセスの延長線上に有想や有種子などの三昧がある。
だが、それとは別に無想三昧、無種子三昧、法雲三昧などもある。
これらは独立している。
故に有想・有種子三昧からの繋がりで到達できる三昧ではない。無想、無種子、法雲はヨーガの八支則に収まり切らないのだ。
ちなみに凝念、静慮、三昧の総称をサンヤマ(完全制御)という。
ディヤーナは中国や日本で「禅」「禅那」と訳されているが、ラージャヨーガに当てはめるのは間違っている。
禅宗は一元論であり、二元論のラージャヨーガとは根本的に異なるからだ。
特に酷いインチキを垂れ流したのは沖ヨガの創始者・沖正弘である。
この男はディヤーナの段階をダーラナーと対比させ、正反対の状態と位置づけ、「緊張とリラックスのバランス」「陰と陽のバランス」などと説いたのである。
アホか…。無知も大概にせぇよ。
真のディヤーナはあくまでダーラナーの延長線上にある。正反対の要素とのバランスを取るメソッドではない。
エセ導師の言説にはくれぐれも騙されないでいただきたい。
ダーラナーも誤解が多い用語だ。
単なる「集中」と訳す人が多いが、元々この言葉には「支えて持続する」という意味があるため、単なる精神集中ではない。
意識を特定の対象に強く縛り付け、固定させ、長時間持続させなければならない。
よって「凝念」と訳すのが自然であろう。
ラージャヨーガは全ての三昧を体験しつくし、真我の独立独存位に至ることを究極の目的としている。現世解脱である。
だがタントラはそれで終わらない。
三昧の段階に入ってから本格的なクンダリーニ行法が始まる。
そのタントラヨーガの代表的な行法としてクンダリーニヨーガ・ならびにクリヤーヨーガがある。
この系統に属するものは3派ある。
ラヤヨーガ、ハタヨーガ、マントラヨーガである。
ラージャヨーガの経典にもハタヨーガやクリヤーヨーガについての説明があるが、その内容と位置付けはタントラと全く異なる。
ラージャヨーガにおいては、ハタヨーガは単なる健康法でしかなかった。
または次なる消感(プラティヤーハーラ)への準備段階にしか過ぎなかった。
だがタントラにおけるハタヨーガは根源的統合・解脱を常に目指している。
ハタヨーガ・プラディーピカーという経典では「ハタヨーガだけでは駄目。ラージャヨーガだけでも駄目。併用が必要」と説いている。
タントラは全てのヨーガを包括している。
ちなみに専門家の大半はプラティヤーハーラのことを「制感」などと翻訳している。
だが、この言葉の本来の意味は「引っ込める」という意味の動詞プラティヤーフリである。
つまり感覚を引っ込めて活動を停止させ、心の中に煩悩や動揺を生じさせないメソッドなのだ。
故に「消感」と訳すのが原義に近い。
ラージャヨーガの経典ではクリヤーヨーガ(行事・行為ヨーガ)の解説もしているが、日常で行うヨーガ行レベルに留まっている。
だがタントラにおいては日常の修行に限られていない。
非日常的な三昧の境地においても、高度な行法が用意されている。
不可解な話だ。
ラージャヨーガの経典がヨーガ本来の姿とエッセンスを大胆に切り捨てたのは、どういう意図だったのだろう?
元々、サーンキャ哲学の二元論をベースに確立されたのがラージャヨーガである。
精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)を分け、物質性を切り離し、真我の独立独存を目指すのがこのヨーガ学派だ。
ヨーガや仏教においては「心も物質」である。
故にラージャヨーガは真我と心も切り離し、心を止滅させることを徹底する。
だが一元論のタントラヨーガでは、八支則という単調で直列的な修行階梯に縛られていない。
信仰、苦行はもとより、瞑想の三昧境においても数々の行法が用意されている。
タントラにも心を鎮める行法があるが、ラージャヨーガほど徹底していない。
そもそも、あれだけ膨大で錯綜したタントラにおいては、心の機能を直列的に切り捨てることは出来ない。
仏教の経典には、凡夫の苦の原因として「無明と渇愛」を挙げている。
ラージャヨーガの経典には「心と真我が結合したからだ」とある。
真我とは「見る者」であり、心とは「見られている者」である。
心には「見る力」が無かった。
だが真我と結合したことにより、心にも知覚力・認識能力が生じた。
ここから錯覚が始まった。
心が全ての体験・出来事を自分自身の体験だと錯覚し、訪れた状態をヨーガでは「経験」と呼ぶ。
故にラージャヨーガでは全ての経験を成立させず、残存印象(記憶)も滅ぼし、真我と心を切り離すことに集中した。
だがタントラヨーガにおいては、心と真我は本質的には「同じ」である。
その修行階梯において心を鎮める行法はあるが、究極的には心と真我の統合を果たそうとする。
そこがラージャヨーガとの最大の違いである。
男性原理と女性原理、陰と陽、物質原理と精神原理、光と闇、その全てを統合させる……ここにタントラの本質がある。
これだけ膨大なものなのに、八支則という単純な形に納めきれるはずがない。
長い間、ラージャヨーガの経典はパタンジャリひとりによって執筆・編纂された太古の経典…とされてきた。
だが現代の宗教学はその説を否定している。
ヨーガスートラには太古のヨーガ説のみならず、新しいヨーガ説も含まれているからだ。
法雲という大乗経典に登場する用語も使われている。
唯識派の用語も載っており、大乗仏教の無我論や識論を批判している。
故にヨーガスートラはパタンジャリだけではなく、数名の執筆者や編纂者がいて、6世紀中に完成したという説が有力である。
ちなみに釈迦は真我を全面否定したわけではない。
「自己はアートマンではない」とは言った。
だが「アートマンは存在しない」とは言わなかった。
ただし…、
たとえ真我であろうと相依性(縁)で成り立っているから、それを観察せよ、と説いたのである。
肉体レベルだけを見ても、我々の体質や個性は単に4つのDNAの組み合わせで成立しているに過ぎない。
話を戻そう。
ヨーガスートラは何度読み返しても、不自然な点が多い。
一見、理路整然としているが、教えの順番がおかしいところがあるし、論理的に破綻している箇所も多々ある。
たとえば、あの八支則に無想三昧、無種子三昧、法雲三昧を入れた理由が全く不明である。
これらの三昧は第1段階から第7段階に進んだ果てに得られる三昧ではない。
故に第8段階の三昧だと思い込むのは危険だ。
全くの別物なのだ。
スタート地点が異なるからだ。
これではスートラを指針にする人たちの体験に重大な障害と混乱が生じる可能性がある。
※エンライト代理人チームより。
難解な内容でした。私たちも長く記憶に留めるつもりはありません(笑)
次回は「タントラヨーガには戒律は要らない」をアップする予定です。
今から10年前のことだ。
「これはマジでヤバイな」と思った。
分かっていた事ではあるが、まさかここまで…。
自分の体験・周りの現実を真に受け入れている人が殆どいなかったのだ。
一部分だけを受け入れるケースはよくある。
歪んだ形で受け入れるケースもよくある。
これでは真に全面的に受け入れたことにはならない。
何故こんなことになってしまったのか?
全面的に向き合い、認めなければ、それらの体験を終わらせることが出来ない。満了させることが出来ない。
だからカルマ解消も出来ないことになる。一歩も進めない。
それどころか、日々、新たなカルマを積むことになる。
本来、自分が能動的に関わった現実なら、全面的に向き合うことが出来るはずである。
だからこそハートを開いて、受け入れることも可能になる。(拒否する自由もある)
だが、私の観察によれば、向き合い方が中途半端な人が多い。
故にハートも十分に開くことが出来ない。
やはり状況は深刻である。
一般的にネガティブとされる「辛い」「悲しい」「苦しい」と感じる出来事ならば、向き合うのを嫌がっても仕方ないのかもしれない。
だが私の観察によれば、「幸せ」「嬉しい」「ありがたい」と感じる出来事にも全面的に向き合っていない。
この様な心理反応は、かつての私が陥っていた典型的なパターンであった。
その原因は執着心だ。
嫌な出来事なら一刻も早く忘れ去って、安らぎを取り戻したくなるはずなのに、心のどこかで引き摺ってしまう。
「失敗から学び、心の糧にし、成長する」という指針があるが、それすら出来ない状態だ。
形だけ学んだフリをすることは出来る。
だが実際には臆病になり、必要以上に慎重になり、冒険や挑戦意欲が削がれてしまう。
そんな状態だから、単に忘れるというシンプルなプロセスさえ困難なものになる。
ただし、それだけなら多くの人が経験している事である。
ショックの強い出来事は、忘れたくても忘れられない。
そんなことが簡単に出来るなら、トラウマと呼ばれる心的外傷など生じるはずがない。
しかし現実には、このトラウマに苦しめられている人が多い。
ある種の自己防衛本能でもある。
ひとつの例を挙げよう。
幼い頃に台所で無邪気に遊んでいた。
だがその時、好奇心でガスコンロを点火させてしまい、火傷を負った。
それ以降、火が怖くなり、台所に近付くことも出来なくなった…。
自己防衛という観点では自然な反応であり、それによって「危険なことはしたくない。止めよう」となる。
慎重な姿勢が必要だという事を学び、身を護るすべを心得る。
それ自体は必要なことだ。
だが恐怖心が過剰すぎて台所に近寄ることさえ困難になれば、生活に支障をきたす。
恐怖心をゼロにする必要はないが、やわらげる必要はある。
だが、10年前に私が知った現実は、トラウマを生むようなネガティブ体験だけではなかった。
幸福感を伴うポジティブな体験さえ、「味わい尽くす」ことが出来ていない。
中途半端な体験で終わらせているため、心のどこかに未消化なエネルギーが残っている。
潜在意識に「私は幸せになる資格がない」「幸せになってはいけない」という観念がある場合は、当然ポジティブ体験との関わり方も中途半端になるだろう。
だが、私は気付いてしまった。他にも原因があるぞ、と…。
スピリチュアル界には「過去を引きずらず、『今』の体験に集中し、味わいましょう」という有名な教えがある。
しかし、その様な教えを自分の指針にしようと心掛けても、人間という存在自体が過去の記憶に依存しているわけで、その記憶が無ければまともに生きる事さえ出来ない。
「今」に集中すること自体はとても良い事である。
だがそのような生き方だって過去の記憶があってこそ成立する話なのだ。
貴方が日本語をきれいさっぱり忘れてしまったら、日本語を母語とする人達との会話も困難になる。
日本語で書かれた本を読むのにも難儀する。
一語一語すべてをGoogle翻訳などのサービスに頼ることになる。
瞑想などの修行を積んで、あるステージに達した人は、記憶障害のような状況に陥るケースはある。
私も以前そんな状態になった。
具体的には「何を体験しても、心の中に印象が残らない」というものだ。
感動的なTVドラマを見て、素直に感動する。そこまでは普通の人と同じだ。
ところが次の瞬間には、その感情が消えている。
美味しい料理を食べて「旨い」と思っても、すぐその感覚を忘れてしまう。
私はその原因に気付いたため、敢えて自分の霊的ステージを下げて、まともな生活を送れるようにしたけどね。
もしあの時、その様な処置を行なっていなければ、現世解脱していたかもしれない。
つまり心の中に印象が残らない現象は、解脱を目指す者にとって最高のチャンスでもあるのだ。
私はその道を自ら封印したことになる。
だが、今回の記事の導入部で触れた「異変」はまったく別のモノだった。
予想していた事とはいえ、ここまで深刻な状況だったとは…。
宇宙レベルで霊的な次元転移が加速している。
師匠によれば90年代には既に始まっていたらしい。
多くの現代人の魂が断末魔の悲鳴を上げている。
ハートの声を大切にし、魂を生きている人なら特に問題はないが、そういう人があまりにも少ない。
多くの現代人は魂を無視し、ハートを傷付けまくっている。
今に始まったことではない。
多くの人は幾多もの過去世でもハートを傷付けてきた。
それだけでも大問題なのに、例の次元転移もあり、その激流にもみくちゃくされ、回復不可能と言える深い傷を負ってしまった。
各次元のエネルギー体にもひずみが生じ、あちこちにブロックが出来た。
皆さんはこれが何を意味するか分かるだろうか?
マインド・肉体・エネルギー体で体験する全ての出来事が甚だ不完全なものになってしまったのだ。
当然、体験への向き合いや受け入れにも問題が生じる。
不完全・かつ歪みまくっているため、マインドの機能も正常に働かない。
これでは魂を生きる道に入ることさえ困難になる。入り口にも立つことが出来ない状態なのだ。
可能性が完全に断たれてしまった人も激増している。
魂が逃げ出してしまった人達のことだ。
肉体やエネルギー体は留まっていても、魂はもうその人に関わっていない。
見捨てて、宇宙に還ってしまった。
これではもう駄目だ。
魂が居なくなったのだから、その人はもはや魂の声を聞くことが出来ない。
今更どんな努力を始めても無駄になった。既に手遅れだ。魂の道は完全に塞がれた。
全ての人の可能性が無くなったわけではない。
不完全ながらも自己観察の行を続け、真剣に取り組んできた人なら、まだ可能性の扉は閉ざされていない。
その人達にとって次に必要となる課題は、「何のために現象界に生まれてきたのか?」を知ることだ。
知識ではない。
真に気付き、真に知ることだ。
貴方は「体験」をするために現象界に降りてきたのだ。
この文章を頭にインプットしても、真に知ったことにはならない。
自分で気付き、肚に落とし込む。
貴方自身の、これからの「心の在り方」に全てが懸かっている。
思い出す限り、私は子供の頃から「自分」というものを表現できなかった。
いつも自分を抑えていた。
やりたいことをしなかった。
普通の子供は何か食べたいものがあった時、親にねだるだろう。
「今夜はカレーが食べたい。作ってよ」
嫌いな食べ物には露骨に嫌な顔をする。
「嫌だ。食べたくない」
私は正反対だった。
食べたいものがあっても親にねだることをしない。
逆に嫌いな食べ物は無理してでも口にした。
子供の多くはオモチャが好きであるが、私は両親に「このオモチャを買ってよ」と言ったことがない。
母親に連れられて、ご近所さんの家にお邪魔した時も同じである。
いや、他人の家では普段以上に自分を抑えていた。
そんな私が中学に入学した頃、一冊のヨーガ本を手にした。
全く興味が無かった分野だが、何故か救いを求めるように手に取った。
自分を変えたかったのだろう。
ヨーガ体操とヨーガ瞑想に打ち込んだ。
ヨーガのことをもっと深く知りたいと思い、佐保田鶴治氏が翻訳・解説した「解説ヨーガ・スートラ」「ヨーガ根本経典」の2冊を手に入れた。
値段が高かったので、親に買ってもらった。
親にねだるのは久し振りのことだった。
しかしいくら読んでも、ちんぷんかんぷん。
当たり前である。
難易度が高すぎる本だった。当時の私は専門知識が殆ど無かったし、瞑想体験も足りない。全く進歩していない。
それ以前に、あの学者然とした固い文体は、中学生の頭をとことん疲労させた。笑
いや、大人も疲れるな…。
私が自分の欲を抑え続けていた理由…。
怖かったからだ。
「厚かましい子供」というレッテルを貼られるのが怖かった。
まあ、子供だって人の目が気になる時はあるだろう。
だが、私のように極端な子供は珍しいと思う。いくらなんでも気にし過ぎだ。
私が自分を抑えていた理由はもう一つある。
過去世での犯罪の数々だ。多くの人を不幸のどん底に陥れていた。
その時の記憶を無意識のうちに引き摺っていたのかもしれない。
つまり、私が自分の欲望を表に出せば、すぐブレーキが利かなくなり、大暴走を始めるだろうと…。
またしても人々を不幸にしてしまうと…。
それを無意識に恐れていたのかもしれない。
いずれにしても、私の少年時代を支配していたのは「恐怖心」だった。
だが、その様な抑制的な生き方は、霊的な自殺行為に等しい。
欲を抑えれば抑えるほど、解放されないエネルギーが内部に蓄積され、腐敗し、猛烈な邪気になってしまう。
チャクラがゴミ箱の様になり、エネルギー体も傷だらけになる。
もちろん「無制限に」と言いたいわけではない。
人間には自制心も必要だ。
欲望が暴走すれば、自分だけではなく、多くの人も不幸にしてしまう。
だが極端に禁欲的な生き方は、人を内部から破壊させる。
心の働きを止滅させる事ができるなら話は別だが、そんな人は滅多にいない。
多くの人は魂の願望さえ満たしていない。だからまず魂を満たすことが先決である。
抑圧的な生き方をしてきた人にとって真に必要なことは、やりたいことをどんどやってゆくことだ。
魂を満たしてゆくことだ。
しかし、カルマの方向に暴走する可能性もあるから、自己観察は必須である。
私は修行法の選択も間違えてしまった。
ヨーガや仏教のような禁欲的な道は、ある程度、満たされている人が実行すべきものである。
私のように自分を抑えてきた人は、自分を解放する修行法を選択すべきだった。
現実が嫌というほど思い知らせてくれた。
私は中学時代、友達がひとりもいなかった。
いじめられっ子だった。毎日暴力を振るわれた。
いじめられっ子……つまり私は現実レベルでは被害者だったことになる。
だが霊的な次元では悪質な加害者だった。
腐った猛毒エネルギーを周りに放射し、クラスメイトに浴びせていた。知らず知らずのうちに…
そんな人間に友達が出来ないのは当然だった。彼らは無意識のうちに警戒し、寄り付かなかったのだろう。
一部の人間は私をいじめた。これも当たり前だった。
霊的な次元では被害者と加害者の立場が逆転しているケースがある。
私が言う「魂」とは、カラーナの次元のエネルギー体のことである。原因体と翻訳されている。
そこに個人個人の根源的な願望がプログラムされている。
現象界に降りてきた目的のことだ。
つまり真我のことではない。
魂と真我は全く異なる。
真我はただ心を観るだけの純粋観照者である。何の欲望もない。
ここで一言断わっておくが、「魂の願望」という概念は、仏教やラージャヨーガには無い。
ヨーガにとって最も重要なのは真我(アートマン)である。
仏教では阿頼耶識に相当するが、危険視されることも多い。
この次元にカルマが蓄積されると考えているからだ。
確かにその通りなのだが、それが全てではない。
カルマには本来、善悪の区別はない。
この世に生まれてきた根源的な欲求も阿頼耶識の次元にプログラムされている。
故に自己観察を深め、魂の願望を叶え、またそれを邪魔するカルマの誘惑を見破る必要がある。
私が自己観察を重視するのはそれ故である。
私の少年時代の生き方を肯定的に解釈するならば、厳しい「戒」を守り続けていたのかもしれない。
いま思い返せば全くのアホだった。
そんな修行法が適しているのは、魂の体験したいことを満たしてきた人だけである。
釈迦の高弟たちが正にそうだった。
彼らの魂は既に満たされていた。
釈迦はそれをよく知っていたから、あえて厳しい戒を与えたのだろう。
魂が満たされ、存在を消し去りたい人にとって、煩悩が再び生起するのを食い止める必要があった。
失敗すれば一巻の終わり。解脱(げだつ)できなくなってしまう。
釈迦の漏尽通は際立って優れていた。
魂が満たされていない人には決して出家を許さず、在家信徒として扱い、ゆるい戒律のみを与えた。
逆に、魂が満たされている人には出家を許し、常軌を逸する数の戒律を与えた。
魂を超えたステージに永劫回帰させるために…。
オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)が犯した最大の罪は、まだ魂が満了していない人達の可能性を奪ってしまったことだ。
(※麻原は今、地獄の最下層にいる。-たれ蔵)
それにしても愚かな人が多いと思う。
真面目な修行者ほど、その罠に嵌まっている。
判断を外に預けてしまっている。
仏典を信じて必死に修行しても、その人は決して成就しない。
キリスト教徒も同じだ。聖書の教えを守れば守るほど、神から離れてしまう。
仏典や聖書は確かに参考にはなる。
だが「参考程度」の話にすぎない。
本当の師匠は貴方の内なる声なのだ。
真面目な人ほど仏典や聖書を鵜呑みにしてしまう。
魂レベルの願望さえ満たしていない人がそんなことをすれば、アストラルの最下層に堕ちるしかない。
釈迦は臨終の際に、次の遺言を遺したという。
「貴方自身の心を拠りどころとしなさい。法を拠りどころとしなさい」
だが、その遺言を真に守っている僧侶は一体どれだけいるのか?
仏教徒を名乗りながら、仏典という「外側の教え」を絶対的な指針にするとは…。
それだけハートを失った人が多い証拠なのだろう。
※エンライト@太古の道先案内人の原稿を編集し、アップしました。今後、数回に渡ってテーマを統一させます。(代理人)
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