内なる声が本当の師匠 | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。




思い出す限り、私は子供の頃から「自分」というものを表現できなかった。
いつも自分を抑えていた。
やりたいことをしなかった。

普通の子供は何か食べたいものがあった時、親にねだるだろう。
「今夜はカレーが食べたい。作ってよ」

嫌いな食べ物には露骨に嫌な顔をする。
「嫌だ。食べたくない」


私は正反対だった。
食べたいものがあっても親にねだることをしない。
逆に嫌いな食べ物は無理してでも口にした。

子供の多くはオモチャが好きであるが、私は両親に「このオモチャを買ってよ」と言ったことがない。

母親に連れられて、ご近所さんの家にお邪魔した時も同じである。
いや、他人の家では普段以上に自分を抑えていた。

そんな私が中学に入学した頃、一冊のヨーガ本を手にした。
全く興味が無かった分野だが、何故か救いを求めるように手に取った。
自分を変えたかったのだろう。

ヨーガ体操とヨーガ瞑想に打ち込んだ。
ヨーガのことをもっと深く知りたいと思い、佐保田鶴治氏が翻訳・解説した「解説ヨーガ・スートラ」「ヨーガ根本経典」の2冊を手に入れた。

値段が高かったので、親に買ってもらった。
親にねだるのは久し振りのことだった。

しかしいくら読んでも、ちんぷんかんぷん。
当たり前である。
難易度が高すぎる本だった。当時の私は専門知識が殆ど無かったし、瞑想体験も足りない。全く進歩していない。

それ以前に、あの学者然とした固い文体は、中学生の頭をとことん疲労させた。笑
いや、大人も疲れるな…。


私が自分の欲を抑え続けていた理由…。
怖かったからだ。
「厚かましい子供」というレッテルを貼られるのが怖かった。

まあ、子供だって人の目が気になる時はあるだろう。
だが、私のように極端な子供は珍しいと思う。いくらなんでも気にし過ぎだ。


私が自分を抑えていた理由はもう一つある。
過去世での犯罪の数々だ。多くの人を不幸のどん底に陥れていた。
その時の記憶を無意識のうちに引き摺っていたのかもしれない。

つまり、私が自分の欲望を表に出せば、すぐブレーキが利かなくなり、大暴走を始めるだろうと…。
またしても人々を不幸にしてしまうと…。
それを無意識に恐れていたのかもしれない。

いずれにしても、私の少年時代を支配していたのは「恐怖心」だった。

だが、その様な抑制的な生き方は、霊的な自殺行為に等しい。
欲を抑えれば抑えるほど、解放されないエネルギーが内部に蓄積され、腐敗し、猛烈な邪気になってしまう。
チャクラがゴミ箱の様になり、エネルギー体も傷だらけになる。

もちろん「無制限に」と言いたいわけではない。
人間には自制心も必要だ。
欲望が暴走すれば、自分だけではなく、多くの人も不幸にしてしまう。

だが極端に禁欲的な生き方は、人を内部から破壊させる。
心の働きを止滅させる事ができるなら話は別だが、そんな人は滅多にいない。
多くの人は魂の願望さえ満たしていない。だからまず魂を満たすことが先決である。

抑圧的な生き方をしてきた人にとって真に必要なことは、やりたいことをどんどやってゆくことだ。
魂を満たしてゆくことだ。
しかし、カルマの方向に暴走する可能性もあるから、自己観察は必須である。

私は修行法の選択も間違えてしまった。
ヨーガや仏教のような禁欲的な道は、ある程度、満たされている人が実行すべきものである。
私のように自分を抑えてきた人は、自分を解放する修行法を選択すべきだった。

現実が嫌というほど思い知らせてくれた。
私は中学時代、友達がひとりもいなかった。
いじめられっ子だった。毎日暴力を振るわれた。

いじめられっ子……つまり私は現実レベルでは被害者だったことになる。
だが霊的な次元では悪質な加害者だった。
腐った猛毒エネルギーを周りに放射し、クラスメイトに浴びせていた。知らず知らずのうちに…

そんな人間に友達が出来ないのは当然だった。彼らは無意識のうちに警戒し、寄り付かなかったのだろう。
一部の人間は私をいじめた。これも当たり前だった。
霊的な次元では被害者と加害者の立場が逆転しているケースがある。


私が言う「魂」とは、カラーナの次元のエネルギー体のことである。原因体と翻訳されている。
そこに個人個人の根源的な願望がプログラムされている。
現象界に降りてきた目的のことだ。

つまり真我のことではない。
魂と真我は全く異なる。
真我はただ心を観るだけの純粋観照者である。何の欲望もない。


ここで一言断わっておくが、「魂の願望」という概念は、仏教やラージャヨーガには無い。
ヨーガにとって最も重要なのは真我(アートマン)である。
仏教では阿頼耶識に相当するが、危険視されることも多い。

この次元にカルマが蓄積されると考えているからだ。

確かにその通りなのだが、それが全てではない。
カルマには本来、善悪の区別はない。
この世に生まれてきた根源的な欲求も阿頼耶識の次元にプログラムされている。

故に自己観察を深め、魂の願望を叶え、またそれを邪魔するカルマの誘惑を見破る必要がある。
私が自己観察を重視するのはそれ故である。

私の少年時代の生き方を肯定的に解釈するならば、厳しい「戒」を守り続けていたのかもしれない。
いま思い返せば全くのアホだった。

そんな修行法が適しているのは、魂の体験したいことを満たしてきた人だけである。
釈迦の高弟たちが正にそうだった。
彼らの魂は既に満たされていた。

釈迦はそれをよく知っていたから、あえて厳しい戒を与えたのだろう。
魂が満たされ、存在を消し去りたい人にとって、煩悩が再び生起するのを食い止める必要があった。
失敗すれば一巻の終わり。解脱(げだつ)できなくなってしまう。

釈迦の漏尽通は際立って優れていた。
魂が満たされていない人には決して出家を許さず、在家信徒として扱い、ゆるい戒律のみを与えた。

逆に、魂が満たされている人には出家を許し、常軌を逸する数の戒律を与えた。
魂を超えたステージに永劫回帰させるために…。

オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)が犯した最大の罪は、まだ魂が満了していない人達の可能性を奪ってしまったことだ。
麻原は今、地獄の最下層にいる。-たれ蔵)


それにしても愚かな人が多いと思う。
真面目な修行者ほど、その罠に嵌まっている。
判断を外に預けてしまっている。

仏典を信じて必死に修行しても、その人は決して成就しない。
キリスト教徒も同じだ。聖書の教えを守れば守るほど、神から離れてしまう。

仏典や聖書は確かに参考にはなる。
だが「参考程度」の話にすぎない。
本当の師匠は貴方の内なる声なのだ。

真面目な人ほど仏典や聖書を鵜呑みにしてしまう。
魂レベルの願望さえ満たしていない人がそんなことをすれば、アストラルの最下層に堕ちるしかない。

釈迦は臨終の際に、次の遺言を遺したという。
「貴方自身の心を拠りどころとしなさい。法を拠りどころとしなさい」

だが、その遺言を真に守っている僧侶は一体どれだけいるのか?
仏教徒を名乗りながら、仏典という「外側の教え」を絶対的な指針にするとは…。
それだけハートを失った人が多い証拠なのだろう。


エンライト@太古の道先案内人の原稿を編集し、アップしました。今後、数回に渡ってテーマを統一させます。(代理人)

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「判断を外に預けず、自分の道を歩け」