裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム- -3ページ目

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

エンライト氏の実妹・美雨さんが2020年08月18日にGooブログに発表した記事を再掲載いたします。


美雨の料理はダシ味が決め手!!
2020年08月18日 17時28分31秒 | グルメ

美雨がお料理にダシ味を利かせる時は、2種類以上のダシ成分を合わせます。
昆布ダシの旨味はグルタミン酸が主役。
でも、単体じゃ少し弱いので、いつもはかつお節のイノシン酸の旨味と合わせます。

白菜、ねぎ、アスパラなどの野菜類にもグルタミン酸が豊富に含まれています。
赤ちゃんが野菜スープを好むのも、グルタミン酸のお陰だそうです。

中でもトマトは豊富なグルタミン酸が含まれています。
ですが、スーパーで売ってる促成栽培のトマトは味が薄いです。
有機栽培で畑で熟したトマトはうまみが濃くて美味しいです。

イタリア料理ではトマトを好んで使いますね。そのトマト自体の品種も豊富です。
日本ではあまり見かけない楕円形のトマトもあります。
乾燥トマトだったら日本のお店でも手に入ります。輸入食材店などに…。

日本の食文化はお米が主役ですから、その品種改良に余念がありません。いろんな種類のお米が生まれています。
同じように、イタリアではトマトがすごく大事なので、トマトの種類が豊富なのです。

それを乾燥させたものはグルタミン酸の旨味が更に凝縮されて、甘さも強いです。
なので、いろんな料理に応用できます。

最近は一部のラーメン屋さんでも乾燥トマトを隠し味に使ってるそうです。
鶏ガラもグルタミン酸が豊富で、ラーメン屋さんでは最もよく使われています。
これにトンコツのイノシン酸を合わせる方法が関東では最も普及しています。


以前、かつお節が苦手という読者様がいらっしゃいました。
うーん。悩んじゃうな…。干しシイタケの旨味と合わせると、うまみの相乗効果が出ます。
干しシイタケの旨味成分はグアニル酸です。グルタミン酸の旨味との相性が抜群です。

市販の「干しシイタケの粉末」がとても便利です。
これだけでダシ味が出ます。

通常は干しシイタケを、水に長く浸してダシを作りますね。
戻し汁です。
ですが、この作り方だと用途に制限が出てきます。

今まで紹介してきた無限キャベツやキュウリの浅漬けでは水分の多いダシ汁が使えません。
水分が多すぎると調味料の味が薄まって、浅漬けの味がぼやけてしまいます。

美雨がキュウリの浅漬けのレシピで、本だし顆粒と昆布茶のパウダーを使ったのは、そういう理由なのです。
無限キャベツでは鶏がらスープの素を使いましたが、これも顆粒です。
水気が無いので、いろんな食材にダイレクトにダシ味を付けられるのです。

干しシイタケの粉末も、そういう意味でとても便利ですね。他の顆粒ダシとの相性もいいです。

干しシイタケの戻し汁は、煮物やお味噌汁に使ってます。戻し汁はボウルの水に浸すだけなので簡単に作れます。
旨味をとった干しシイタケは、水気で柔らかくなってるので、包丁でスライスすれば、いろんな料理に使うことが出来ます。
食材の破棄がありません。

実はかつお節や昆布のダシガラも、料理に使えるんですよ。
ダシをとった後のかつお節と昆布を混ぜ合わせ、お水、お醤油、お塩、みりん、日本酒で徹底的に煮詰めます。つまり佃煮です。
味が濃いので、ご飯のお供になります。


干しシイタケのグアニル酸の旨味は、単体では弱いのですが、他のダシと組み合わせると相乗効果を発揮します。
グルタミン酸もそれ単体では少し弱いです。
なので美雨は基本的に2種類の旨味成分を組み合わせています。

単体でも強い効果を発揮するのはイノシン酸です。
かつお節に豊富に含まれています。
これだけでも十分に美味しいです。

九州の豚骨ラーメン屋さんは、今は若い店主を中心に発展形・進化系ラーメンのお店が増え、いろんな食材でダシ・スープをとっています。
ですが頑固に伝統を守る老舗店では、豚骨だけでダシをとるお店も多いそうです。博多・長浜・久留米ラーメンの老舗店です。
豚骨の旨味もイノシン酸ですから、力強い味が出ます。

同じ豚骨でも、ゲンコツ、背骨、豚頭骨、脳髄、アバラ骨、豚足など各部位で味が違うので、その組み合わせの工夫で、個性を出すわけです。
ちなみに熊本ラーメンは、豚骨と鶏がらを合わせています。グルタミン酸との相乗効果を狙っているのでしょう。

私は、贅沢なダシ味を楽しみたい日は、グルタミン酸・イノシン酸・グアニル酸のトリプル作戦を決行しています。笑
食材や調理法によってはコハク酸の旨味も重宝します。
貝類に多い成分です。

#今日のごはん #おうちごはん #美雨は婚活中 #プロポーズしなさい

 

いきなり不躾だが、貴方に問いたいことがある。
「働くことの意味とは何か?」
「人はなぜ働かなければならないのか?」
じっくり考えて戴きたい。

反論もあるかもしれない。
「人の選択は自由だろ。〇〇しなければならない…という義務はない。
好きに生きればよい。働きたくない人は働かなくても良いのだ」

本気でそんなことを思っているなら、私のブログを読む意味はなくなる。
何も得ることが出来ない。
今すぐ立ち去ってほしいね。時間の無駄になるからだ。


スピの知識を頭に詰め込み過ぎて中毒した人は、やたら自由の概念を振りかざす。


働くことの基本は何か?
食わなければ生きてゆけない。肉体を維持できない。
だから働いて、収入を得る必要がある。

もちろん全ての人に当てはまるわけではない。
子供は親に頼っている。
重度の身体障害者も自力で稼ぐのは難しい。周りの人の手助けが必要だ。
現役を引退した高齢者もいる。

だが、他人の助けを借りる必要があるにしても一体誰からなのか?
働いて稼いでる人達からだろう。
生活保護や年金だって我々が働いて納めた税金から支給されている。

今、現役バリバリの人達もいずれは高齢者になり、若い世代からのお世話を受けることになるかもしれない。


結局のところ、今の社会から「働く」「稼ぐ」という基本システムを排除することは出来ないのだ。
仮に資本主義社会が終焉を告げたとしても、別の形での経済システムが必要となる。

共産主義社会においても同じことだ。
国民の誰もが働かなくなれば、国家は破綻するし、国民の生活も破綻する。

原始時代の人類も、狩りをするなど、働くことで生き延びてきた。

人間は人間である以前に動物である。
高尚な精神性・理想を追いかけるのも良いが、死んでしまったら元も子もない。
生きてこそ精神的・スピリチュアル的な価値に目覚めることもできるのだ。

ただし人間は単なる動物ではない。他の何かもある。
生きるだけでは終わらない。
食べるだけでは終わらない。
故に「働くことの意味」を自分自身に問いかけることが大切なのだ。


人間は知恵を絞るようになった。
自分の才能を生かし、得意分野に集中するために、「分業」というシステムを作った。

各自がそれぞれ別の作業をする。
そうすることで自分の作業の結果として生まれた利益を他の人に分け与えることが出来る。
そして自分もまた他者が生み出した成果を受け取ることが出来るようになった。

つまり「社会」の誕生である。
人間はそれ以降、そのシステムに基づいて文明・文化・技術を発展させてきたのだ。
現代においても、その基本は変わらない。

働くことの意味を探り、結論を見出す。

それは社会における自分の役割を大切にする事につながる。
100人中100人が同じ結論じゃなくても良いが、社会という基本構造からは逸脱できない。
無人島で、たった一人で生きるわけじゃあるまいし…。

「魂の願望」も実にそこにある。
人との関わりを無視しての願望などない。
無人島で生きる人も基本は同じだ。人との関わりを断っても、動物・植物・昆虫・微生物等との関わりは絶つことが出来ない。


生存を確保する。
この第一条件が満たされてこそ、次のステージに立つことが出来る。
すなわち「魂がこの地球を選び、生まれてきた本来の目的」のことである。


「魂を生きよう」「魂の願いを叶えよう」
といくら口酸っぱく言っても、生存条件が確保されない限り、全て水の泡と消える。

だから私はいま読者に対して、働くことの意味を問うているのだ。
現実を無視したキレイ事に用はない。
徹底的に現実に即し、現実的な手段をもって現実生活を構築する必要がある。

もちろんスピリチュアル実践者はそれだけで終わらないだろう。
スピ的なものも大切になる。
だが現実という土台を無視することは出来ない。
現実的に生きてこそ「魂」というスピ的な目的を生きることも出来るようになる。


ここで断わっておくが、働くことは手段に過ぎない。
目的は別のところにある。
だから「働く自分」とは本来の自分ではない。

高度経済成長…、
その時代、日本の男たちは重要なことを誤解していた。
働く自分を本来の自分であるかのように錯覚していた。

定年退職した人が、急に空虚な自分に気付く。
「俺から仕事を取ったら、何も残らなかった」と空しさを覚えるケースが多い。

熟年離婚という言葉もある。
妻から三下り半を突き付けられるわけだ。
これもまた、働く男の錯覚が生み出した悲劇なのである。


貴方がどのような生き方をしようと自由である。
働くことの意味を動物的な次元で考える自由もある。
実際、貧しくて、生活することに必死な人は「魂」などと言ってられない。
明日の理想よりも、今日の飯である。

だが少なくとも私のブログを読んでくださる皆さんには、その次元だけで終わってほしくない。
魂に逆らい、ただ生きるだけで終わってほしくない。

それは生活に余裕のある人にも言えることなのだ。
魂を無視した目先の快楽に振り回されてほしくない。
貴方の魂が何を訴えているか?
そこに目を向け、耳を傾けてほしい。


関連記事
「現実を判断材料にしない」

仏教には戒と律がある。
ラージャヨーガの入り口には禁戒と勧戒(信戒)がある。
その禁戒の数は5つだが、聖典シュリー・ジャーバラ・ダルシャナ・ウパニシャッドでは十戒を掲げている。

だが、タントラヨーガでは戒律を省略するケースもある。
純粋タントラ派は「禁戒など不必要である」とまで断定している。

タントラヨーガの成道プロセスがここまで独特なのは、真我(アートマン)はもちろん、原因体(魂の座・カラーナシャリーラ)微細身(リンガシャリーラ)など人間存在を包括的に捉え、その中に解脱回路を装備したからだ。

ただしタントラが全ての煩悩の行いを容認するとは限らない。
タントラ教典は膨大な数があり、中には過酷なまでの禁欲を命じる経典もある。
その戒を破った行者は、神罰として男根を切り落とされる…とか。

ヤバッ。俺なんか男根が何本あっても足りなくなるじゃねーか、おい。


全ての欲望を肯定するのがタントラの基本だが、それ故に危険も多い。
煩悩も含めてあらゆるエネルギーを解脱のために用い、上昇させようとするが故に、その膨大なエネルギーに耐えられず、死亡した行者も多い。

故に「禁戒は要らない」と言いつつ、厳しい禁戒を授ける経典もあるのだ。

OSHOラジニーシは「ラージャヨーガは知性の力で行者を死に至らしめる。タントラは生命力の全てを活性し、全面的に向き合う」と説いた。
どちらの道も最終目的は一緒だが、解脱へのプロセスがここまで違う以上、成就後の生き様や生命力の状態も大きく異なるはずである。

ラージャヨーガ経典の解説本を上梓したスワミ・サッチダーナンダ師。
師は現世解脱に至った者の現実レベルの行動について説明している。

「普通の人と同じである。落ち着いているが、生命力に満ちている。
だが何の影響も受けない。
自分の為に活動しないからだ。常に奉仕的な生き方であり、それはもはや『行為』とは言えない」

だが、ハタヨーガの代表的な経典であるプラディーピカーにはこう書かれてある。
「死人のごとき有様である」

現世解脱(生前解脱)のことを仏教では現世涅槃という。
臨済宗の至道無難禅師の歌に「生きたまま死人と成り果てて」とある。
やはりプラディーピカーと同じことを説いている。

心と感覚器官の全てが止滅した以上、そうなるのは必然的である。
覚醒者は短命で終わる人が多い。
仏陀釈尊のように80歳まで生きられたケースは珍しいのだ。

OSHOラジニーシによれば、「釈迦は解脱した後、仮の自我を作り、生命エネルギーを取り戻し、この世に戻ってきた」という。

インドやチベットの覚醒者の中には、食事も排泄もままならない人が何人もいる。
だから弟子たちがお世話するしかない。
スワミ・サッチダーナンダは「解脱者は常に奉仕的な生き方をする」と説いたが、奉仕など到底無理。生命力を失っている。

ダンテス・ダイジの説明によれば、スワミ・サッチダーナンダは解脱していない…という。
「魂の科学」という退屈なヨーガ指南書(説教の本)を書いたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダも解脱していない…という。

ダイジによれば、OSHOラジニーシとクリシュナムルティは正真正銘の解脱者だという。
「クリシュナムルティの本は、読むだけで瞑想になる。解脱者にしか説けないことが書かれてある」
「OSHOラジニーシも解脱者だが、師を持たずに修行したから、とても苦しんだ」

和尚ラジニーシの高弟には、成就者が数名いるという。
いずれも女性であるが、解脱した瞬間、肉体的には死を迎えたという。
やはり、そういうことだったか…。

ダンテスダイジ
「OSHOラジニーシは彼女たちに『パイプ』を作ってあげなかった。だからこの世に戻ることが出来なかった」

クリシュナムルティ
「あの男・ラジニーシは犯罪者です」


解脱者は心の動きが止滅している。
故に肉体を構成する煩悩のエネルギーの影響を受けない。
釈迦は生命エネルギーの本質を「煩悩」だと見破り、その生命の炎を消した境地を解脱だと説いた。涅槃である。

そして「二度と生まれ変わることは無い」とも言った。
故に初期仏教の行者からすれば、大乗仏教の「菩薩の請願」など悪質な偽善であり、只の戯言でしかない。

大乗仏教はなんと涅槃の定義すら変えてしまった。
涅槃を三段階に分け、一番下の涅槃を「阿羅漢の行く世界」とした。
そして大乗の仏陀と菩薩は、何度でも生まれ変わり、全ての生命の魂を救済するとした。

いずれにしても、本来の釈迦の教えとは何の関係もない。
涅槃とは絶対無・絶対的虚無の事であり、救済とは無関係である。
本来の仏教にとって「阿羅漢とは仏陀そのもの」なのに、大乗仏教の連中は阿羅漢を格下扱いしてしまったのだ。

どこまで腐ってんだ、こいつら……。

心の機能が止まり、肉体を維持する煩悩の炎が消えれば、魂や霊体を粗雑体(肉体)に留めている吸着力・接着力も無くなる。
OSHOラジニーシの高弟たちが亡くなったのも、それ故だろう。
解脱者の魂は簡単に肉体を離れる。

煩悩とカルマを残している凡夫なら、死後しばらくは肉体にとどまり続け、やがて中有に飛び込む。
だが解脱者は中有を通らず、ダイレクトに涅槃に至る。

初期仏教には中有という概念は無かったが、私はポア(意識を次元転移させるヨーガ)の瞑想中にその存在を確認している。
だがこの世界は信念体系(想念幽界)の一つであるから、本質的には幻である。

日本の仏教ではお通夜やお葬式の時、僧侶が読経する。
死者に引導を渡すためである。
高き世界に行ってもらうために…。

しかし、生前にも理解不能だった教典群の教えを今更死者に読み聞かせても、理解できる筈がない。
修行経験のある人ならともかく、一般人には難解すぎる。

チベット仏教のニンマ派にも死にゆく人の枕頭で読み聞かせるお経がある。
俗称で「チベット死者の書」という。
こちらの経典の方がはるかに分かりやすい。

ダライラマ法王が修したゲールク派にも死者の書がある。
正式名称は「基本の三身の構造を明確に示す燈明」だが、こちらは生きている人の瞑想修行のために活用される。


私はよく「魂の声を聞こう」「魂の願望を生きよう」と言う。
だがその道を成就しても、決してゴールではない。
魂を超えたステージがあるからだ。

私の言う魂とはコーザル体(原因体・カラーナシャリーラ)のことであり、真我(アートマン)とは区別している。
コーザル体は最も根源的なカルマが貯蔵されており、大乗仏教・瑜伽行派が説く阿頼耶識に相当する。

教典は説く。
「阿頼耶識には感情が無く、善悪の判断も出来ない」

魂の願望とは現象界宇宙に生まれてきた魂の目的のことである。
これは仏教の教えではない。
ヨーガの教えでもない。
私個人の認識であり、メッセージといって良い。

地球の次元転移が本格的になり、崩壊の危機を迎えている今、従来の教えだけでは到底クリアできないからだ。
あくまで魂に焦点を当てている。

その魂の願望を邪魔するカルマがある。これが厄介なのだ。
たとえ全てのカルマを浄化したり、魂の願望を成就しても、苦楽の生死を生み出すシステムからは解放されない。
つまり魂レベルの道だけでは輪廻は終了しないわけだ。

さりとて、いきなり解脱する道を求めても、達成するのは難しい。
釈迦の時代とは違う。
釈迦の弟子の中から成就者が続出したのは、99%の条件が揃っていたからである。

もともとインドという国はヴェーダ等、宗教的な文化が豊かであり、人々もその空気を吸いながら生きていた。

だが現代社会は違う。
条件が遥かに悪くなっている。
人々の各次元層の意識はカルマで汚れ放題。
社会環境も猛烈な邪気に汚染され放題。

こんな状態で、古い時代の教えだけを実践しても、到底成就には至らない。

私の教えはまず魂を成就させること。
その先の選択は自由だ。自由に決められる。
現象界に引き留めておくエネルギーを断ち切って解脱(涅槃)しても良いし、再び宇宙のどこかに生まれ変わるのも良い。

だがその自由選択は「魂の成就」を前提としている。
魂を傷付け、カルマを積み続けている状態では決して解脱の道には入れないし、輪廻の道を選ぶ自由すら無い。

煩悩を滅尽しない限り、再び輪廻する可能性は高いが、苦難の多い世界に生まれ変わる可能性もある。最悪の世界に堕ちる可能性もある。
私はそれだけは食い止めたい。


現在、日本テーラワーダ仏教協会・および日本ヴィパッサナー協会がヴィパッサナー瞑想を人々に伝授しているが、甚だ不完全で簡略化された内容である。
あんなもので悟ったり、解脱できると思ったら大間違いだ。

「在家の社会人は修行に没頭する時間がない、だから簡略化されたものを教えるのは当然だ」と言う人もいる。
だが問題の本質はそこにはない。
今の上座部・テーラワーダ仏教は、太古の上座部とは異なる。すっかり変質してしまった。

では根本分裂後の部派仏教の時代はまともだったのか?
いや、部派仏教の時代には早くも「釈迦の教えの改竄」が行われ、釈迦の神格化も進行していた。

まして大乗仏教や秘密金剛乗の時代は滅茶苦茶である。
大日如来や阿弥陀如来などのスーパー仏陀まで創作され、もはや仏教とは言えないものになってしまった。

それらの神仏への信仰は確かに苦を和らげる効果はあろう。
私も加持祈禱を執り行っている。
だがそれらは解脱とは関係ない。「救済」と「解脱」は別物なのだ。

私が自分のブログで説いている自己観察も簡略化されており、解脱への因子にはなり得ない。
だが私の目的はもともと違う。
解脱ではなく、魂を生きるための自己観察である。