裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム- -2ページ目

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

私達のマインドと肉体の力は、魂を現実レベルで生きるための機能だが、あくまで現実レベルの話である。
人が活動する場所は、物質世界だけではない。霊的世界でも活動している。
同時進行だから自己パラレルワールドとでも言うべきものかもしれない。

霊的世界での活動の主役はメンタル体である。
魂は単なる司令官。
実際に活動するのは、魂を包み込んでいるエネルギー体なのだ。

メンタル体の役割は、魂を守護することと魂の願望を実現させることにある。
その基本的性質は「意志力」「知性の力」「二元的なジャッジの力」である。

メンタル体の知性が魂の意志と統合されている時、智慧の力へと昇華される。
悟りと覚醒には「上昇エネルギー」が必要だが、その素になっている。

メンタル体は、高度な知性・理知を司っており、その役割と機能はマインドに繋がっている。
男性原理と言い換えることも出来よう。
マインドの基本的な機能には、思考力や論理性が含まれるが、その源泉はメンタル体なのだ。

マインドが、魂の方向性と一致し、創造的に活動している時、メンタル体も活発に働くようになる。
現象界と霊的世界の二つのフィールドで、魂の願いを生きることが出来るわけだ。

その架け橋になるのがアストラル体である。
女性原理と言える。
感情、感覚・感性を司っている。

メンタル体の知性は、そのままでは何の力にもならない。
霊界(色界と無色界)でどんなに活躍しても、物質世界に何の影響ももたらさなかったら意味がない。
故にメンタル体の能力や活動データを現象界に反映させることが必要となる。

その架け橋の役割をアストラル体は担っているわけだ。

現代の多くのスピリチュアルは、このアストラルを主役にしている。
架け橋としての役割を超えて…。
それがあらゆる悲劇と無知の元だったのだ。

男性原理のマインドを邪魔者のように扱ってしまう。
直感に偏重してしまう。
結果として、真の知性を失ってしまった…。

思考を止めるのは無意味だ。
今の多くのスピリチュアルが「コーザル・魂の声」「アストラル次元のハートの感覚」を混同してしまった元凶がそこにある。

直観と直感の違いに気付いていただきたい。
直観には知性があるが、直感は単なる感覚(フィーリング)に過ぎない。

「満了」が全ての鍵となる。
思考に限った話ではない。
感情も行動も、すべてにおいて「満了」が鍵である。

ひとつひとつの行動をその一瞬に集中し、完了させることが求められる。
多くの人はそれをしないから、カルマを積んでしまう。

重要なこと。
その場その場で思考を十分に使いこなし、後に残さない。
ひとつひとつの思考をきちんと使って、満了させれば、思考は自然に鎮まる。
必要な思考だけが残り、不必要な思考は消える。

思考を十分に使い切っていない人が思考を止めようとするのは安直すぎる。
そんな姿勢では決して思考は止まらない。
瞑想などで思考をいくら静めても、水面下ではエネルギーが残り続けている。

たとえコップの水が澄んで無思考になっても、コップの底には不純物がたまっている。

思考を使い切っていない段階で、へたに手放そうとしたら、エネルギーが満了しない。
行き先を失ってしまう。
つまりカルマの原理と同じなのだ。

カルマとは「満了しなかったエネルギーによる引きずり」のことを差す。

思考のメカニズムや今の自分の霊的ステージをよく理解せず、思考を止めるのは非常に危険だ。
その方法が、そのままカルマを積むことになるからだ。
いくら直感やハートの声を大切にしようと心掛けても、その前提がズレていたら全く無意味である。

直感に「智」が伴い「直観」へと変容させるには、思考力が必須となる。

直感を大切にしていた人が、知らないうちに横道に逸れ、異様な状態になってしまうケースが後を絶たない。
巷のスピリチュアル指導者たちを観察してみてほしい。
昔は素晴らしい指導者だったのに、段々おかしくなってしまうケースが多いことに気付くだろう。


そもそも直感力は万能ではない。
動物を見れば分かる。
彼らは人間と比べてはるかに本能に忠実であり、直感のままに行動しているが、幸せな一生を送れるとは限らない。

保健所で殺処分される動物がいる。
人が運転する車に轢かれることもある。
他の動物に捕食されたり、病に苦しむこともある。

結局、どんなに直感に忠実であっても、弱肉強食・食物連鎖・苦楽の掟からは逃れられないのだ。


人間の場合はもっと深刻である。
直感以前の問題にも引っかかっている。
その一つは、思考のエネルギーをカルマ化させている事。
多くの人はいつもそこで躓いている。


思考力を使うとき、まずメンタル体が活発に動きだす。
その活動は本来、魂の願いを叶えるための活動。
つまり思考力とは、魂を満了させるプロセスと言える。

満了できなかったものはカルマになり、無意識に魂を縛り付け、思考力も鈍化し、真の知性が発揮できなくなる。
多くの人はまさにその状態なのだ。
真に理知的な思考ではなく、雑念思考・カルマ思考に陥っている。


最近のスピリチュアル界に蔓延するエセ覚醒者たちは、「無為」という概念を誇大解釈し、乱用している。
思考・意志の力を捨てることによって、自然のままに生きられる…と勘違いしている。

あのさ…、人間のあらゆる行動は、「意志」から始まっているのだよ…。
「食事をしよう」「寝よう」「遊ぼう」というのもそう。
意志なのだ。

霊的次元では、メンタル体がその役割を担っていて、それがマインドに反映される。
つまり意志の力は、人間の本能そのものであり、基本的なプログラムなのだ。
真に自然な流れを大切にしたければ、「意志という自然の力」も尊重できるはずだ。

その基本が分からないのは、「自然」とか「宇宙」という言葉を、上辺だけのイメージで捉えているからだ。
本質を読み取っていただきたい。

引き寄せの法則系のスピリチュアリストは
「思考が全ての現実を作っている」
と断定している。

逆に非二元・ノンデュアリティ系の人達は、個の概念を認めないため、
「私達は何も出来ない」
「ただ起こるだけ」
と、けんもほろろだ。

この両極端な教えは、文字通り両極端であるが故に、私達の人生に何の役にも立たない。
生活の充実どころか悟りや覚醒にも役立たない。
それは次のような理屈による。

この世に「完全なる陽」は存在しない。同じく「完全なる陰」も存在しない。
陽は常に陰を含み、陰は常に陽を含む。

この世に「完全なる善」は存在しないのと同じく「完全なる悪」も存在しない。
善は常に悪を含み、悪は常に善を含む。

同じようなことが我々の「生きる指針」にも当てはまるのだ。

個人の意識の力を過大評価し、
「意識・思考が全てを作っている」
などと言ったところで、現実はいつも裏切ってくる。

ノンデュアリティ系も同じレベルで愚の骨頂だ。
個人の力を全く認めず、「全ては全体性の現れです」などと言ったところで、何の役にも立たない。


運命論というものもある。
最近のスピリチュアル界では、賢者テラ氏の説く運命シナリオ論が流行の兆しを見せているようだ。
だが反発する人も多い。

運命論に対する批判意見の中で圧倒的に多いのは、「起こる出来事が事前に全て決まってるなら、努力する必要が無くなってしまう」というものがある。

だが、この突っ込みは的外れだと思う。
正直「批判」に値しない。
単に不満をぶつけているだけである。

運命論の指導者は、決して「努力するな」とは言ってない。
努力する・しない…もシナリオで決定済みだから…。
努力するシナリオの持ち主は、結局、努力することになっている。


だが運命論には問題がある。
以前の記事で指摘したが、精神面にも問題が起こり得る。

どんなに努力をしても、「俺の努力は通用しないかもしれない。大悲劇が襲ってくるシナリオなのかもしれない」という不安や恐怖が常に付きまとう。
いつまでたっても自信や平安が得られない。

状況次第なのだ。
運命論によって物事に冷静になれるケースもあるが、不安や恐怖が増してしまうケースもある。

もちろんその点は、私が説いている因果論も同じことである。
因果論のおかげで物事を冷静に受け止めることができるケースもあるし、自虐・自責モードに陥ってしまうケースもある。
だが少なくとも、自分の力が通じる可能性は残されている。

因果律・カルマ理論は、突発的な凶現象には太刀打ちできなくても、人生の多くの場面で自助努力が通じる余地は残されている。
自責モードの問題にしても、受け止め方を変える修行を積めば、淡々と物事を観照できる心の持ち主になれるかもしれない。

大きな不幸を前にしたときは冷静さを失ってしまうかもしれないが、小さな規模の不幸現象なら淡々と観照できるようになれるかもしれない。
要するに運命論と比較して、選択や可能性の幅が遥かに大きい。

運命論者の賢者テラ氏がセミナーでどれほど「視点の切り替えトレーニング」を教えたところで、その効果が出るか出ないかは全て運命のシナリオによって決定されてしまっている。

だから全く無意味だ。「看板に偽りあり」のエセ指導である。
霊感商法と一緒。
私は「だから運命論は駄目だ」と言ってるのではなく、人が説く運命論そのものには何の意味も効力もない、と指摘しているだけだ。


賢者テラ氏がサレンダーについて興味深いことを言っていた。

『運命をコントロールしようとする欲望を捨て去り、全面的に降伏することが大切だ』

『引き寄せの法則の実践者にはサレンダーは起こらない。自分の力で運命をコントロールしようとするからだ』

『私は「覚醒した」と言いながら 「引き寄せの法則」を説いている人が理解できない』



私に言わせれば、こんな主張をする人こそ理解不能である。
根本的に矛盾している。
運命論によれば全てはシナリオ次第だから、引き寄せの法則を説く人も、そういうシナリオだったことになる。

何の不思議もない。
理解できない話ではない。
運命論者たちは本当に自説を受け入れているのかね?

この世には様々なキャラがある。
人それぞれシナリオが違う。
よって「引き寄せを説くシナリオを持っている覚醒者がいる可能性」も否定できまい。

運命論の神髄は、どんなシナリオも受け入れる心境を得ることではないのか?
因果律も引き寄せの法則も、それら全てのシナリオを肯定することに意味があるのではないか?

もし運命論者がそれを「理解できない」などと批判するなら、その人は真の意味で運命論を認めていない。
他人のシナリオを受け入れていない。

ただし運命論によれば、その「受け入れない」という選択さえもシナリオだったことになる。
実に都合の良い世界観である。
「すべてはシナリオだった」と言っとけば済むのだから。

自分がどんなにズレた発言をしても、「シナリオだった」と言っとけば責任回避できる。

サレンダーが起こるかどうかも、本当はシナリオ次第だった……。
サレンダーが起きないシナリオの人もいるだろう。
それが運命論である。

むろん因果論だって何の保証も出来ないのだが、可能性の幅ははるかに大きい。
故に、私のような因果律メソッドの実践者が因果律の効用を宣伝をするのは当たり前であり、何ら道理に反していない。

賢者テラ氏の主張では、「人間は小説やゲームのキャラ」とのことだが、我々には少なくとも感情や思考はある。
自我意識があり、それを自覚できる。
小説やゲームのキャラとの決定的な相違点である。

まあ、運命論のお偉さん方のご高説では、その感情すら「運命のシナリオが決めた事」らしいが…。

少なくとも我々は、人を愛することが出来るし、喜びも悲しみもある。
感謝心も反省心もある。
我々の本質は無常とはいえ、この世では「血の通った人間」である。
呼吸している。生きているのだ。


引き寄せの法則に関する有名な本に、「大きな代償を伴う願望達成」の事例が乗っていた。
ある人が数千万円を欲し、熱烈にイメージしていた。

すると母親が交通事故死し、最初に臨んだ金額にピタリと一致する生命保険金が手に入ったというのだ。

通常、引き寄せや成功哲学では、「自他にとって最善な形で」という条件を付ける。
某スピリチュアル団体では、潜在意識への願望インプットで用いる言葉に「全ての面において安全に」という言葉を付け加えている。

だが手段を問わず、何が何でも、という考えの人や、「成功には代償が必要」という信念が潜在意識にプログラムされている人は、問題も一緒に引き寄せやすい。
故に「安全に」という条件付けが大切になるわけだ。

一部の運命論者は、その様な事例をもって引き寄せの法則を否定していた。
頭が悪すぎる。
危険性という点を除けば、却って潜在意識の力を認めたことになるからだ。

賢者テラ氏は、「エネルギーに思考があるわけない」などと決め付けていた。
これもまた全く無意味である。

エネルギーとはある種の情報である。
思考も情報の一種である。
気功師やヒーラーなら、それを否定できないだろう。

思考があるかないかは別にして、エネルギーにはそれぞれ個性があり、情報を持たせることが出来る。
意念の力を使うヒーラーもいる。
もちろん個人の思考は使わず、宇宙に全てを任せるタイプのヒーラーもいる。

外気放射を行なう気功家は、クライアントの病気の質によって、放射する気の質を変えている。
エネルギーには情報があるからだ。
その情報の質を変えることによって、対象に与える影響が異なってくる。

いずれにしても、エネルギーに思考や意識が融合するケースは基本原理に基づいており、否定することが出来ない。
大切なのは、貴方が日々、どんな意識をもって判断し、選択し、行動するか?ということだ。

エンライト@太古の道先案内人

エンライト実妹・美雨さんが2019年11月13日にGooブログで発表した記事を再掲載します。
代理人。


2019年11月13日 20時36分58秒 | グルメ

ハンバーグはすごく可能性の広いお料理です。
工夫すれば、どんなにでもバリエーションを増やせます。
ステーキ以上じゃないかな…。

生肉をスライスして焼くステーキは、ランプ、ヒレ、サーロイン、リブロース、肩ロースなど、お肉の部位で味が違うけど、基本はソースの工夫で味のバリエーションを生み出します。

岩塩だけを振りかけるレシピもあります。
最近はワサビを付ける人も多いみたいです。
脂身が多い部位なら、大根おろしと醤油のソースもいいですね。

ですが、お肉自体にはあんまり工夫の余地がありません。
お肉の選び方、熟成のさせ方、筋の切り方ぐらいでしょう。

でも、ひき肉で作るハンバーグは、合わせる野菜や調味料の工夫で、いくらでも色んな味を作り出せます。
ソースの工夫もできるので、組み合わせ次第で無限に近い味を作り出せると思います。

煮込みハンバーグもあります。
スープかソースで煮込んで、お肉の中まで味を染み渡らせます。
ビーフシチューで煮込むのが好きです。美味しい。

普通のステーキではそんなことできません。ステーキを煮込んだら、もうステーキじゃなくなっちゃう。
美雨はステーキも大好きですけど、料理する楽しさはハンバーグの方が上です。


お肉の下ごしらえ。
スタンダードな方法は、ひき肉、玉ねぎ、牛乳に浸したパン粉、卵の黄身、お塩を入れて、よく混ぜ込むやり方ですね。
(冷やしながら混ぜるのが良いので、ボウルを2つ用意して、2つ目の方に氷水を入れ、お肉が入ってるボウルの底を冷やすのがベスト)

最近はパン粉の代わりに、細かく砕いたお麩を使うレシピが有名になりました。
美雨も試しましたが、これはありですね。おいしい。
肉汁がしっかり残るのでお肉がとてもジューシーです。

ハンバーグの弱点のひとつは、お肉がパサつきやすいところでしょう。
ステーキは肉汁いっぱいで、すごくジューシーなのに、ハンバーグはちょっとパサパサしています。
家庭で作るハンバーグはパサパサしやすいです。

ファミレスのハンバーグはその弱点を補う工夫をしてるけど、粗悪なクズ肉に脂身を混ぜて、ビーフパウダーで味を付けてるのがほとんどです。

見た目も違いますね。
家庭で作るハンバーグって、市販のハンバーグやファミレスのハンバーグと見た目がまるで違います。
市販のは全体がまんべんなく茶色で、お肉の中も茶色です。
発色剤を使ってるんですよ。

でも家庭の手作りハンバーグは白っぽい部分も多いし、焼いて焦げ目が出来たところだけ黒くて、見た目があんまり良くありません。
それでいいんです。
それが自然かなって思ってます。

発色剤で誤魔化してるファミレスや市販のハンバーグはすごく不自然に感じます。


挽き肉のつなぎで、お麩が注目されています。
ハンバーグのパサつきが減って、肉汁感がアップするので大評判です。
お麩もパン粉と同じ小麦粉で出来てるので、お肉のつなぎに使えるのだと思います。

美雨は生のパンを使うのが多いです。
手作りのパン屋さんで買った食パンを細かくちぎって、牛乳に浸し、ひき肉に混ぜています。

生の食パンでも、やっぱりパンはパンですから、肉汁感は下がります。
でも美雨が使うのは高級パンなのでハンバーグ全体が美味しくなります。
味はお麩以上だと思います。

合わせる玉ネギも工夫します。
普通はみじん切りにしたのを生のまま挽き肉に混ぜると思います。
美雨も半分は生のまま使いますが、残りは飴色になるまで炒めます。

炒めたばかりの玉ネギはとても熱いので、熱が冷めるまで待ってください。
熱いままで挽き肉と混ぜたら、下ごしらえが台無しになります。

生の玉ネギの利点は、シャクシャクした食感がハンバーグによく合うことです。
よく炒めた玉ネギの利点は、甘みが出て美味しくなることです。
なので両方使うのです。

カレーでも同じやり方をしています。
みじん切りにした玉ネギを飴色になるまで炒めます。
プロの料理人さんも、「カレーを美味しく作るコツは、最初に玉ネギを十分に炒めること」と言ってます。

美雨は生の玉ネギも使います。炒めたのと生のと両方使うんです。
生のはみじん切りではありません。
具材としての玉ネギなので、大きめに切ります。

ハンバーグの話に戻りますが、玉ネギの扱い方で、卵の黄身の量も変わります。
これがポイントです。

生のままの玉ネギだけを使うときは、卵を十分に入れます。
生と炒めたのを半々ずつ入れるときは卵の量を減らします。
炒めた玉ネギだけの時は、卵は入れる必要ないです。


こねた挽き肉をハンバーグ型に成形するとき、パーンパーンと両手でキャッチボールするのが一般的なレシピです。
空気を抜くためですよね。
でも美雨はやりません。必要ないんです。

下ごしらえの時、挽き肉を丁寧にまんべんなく混ぜて、こねれば十分なのです。それだけで空気が抜けます。


料理の「常識」がいまはどんどん崩れています。
現代科学が料理の世界も研究するようになり、昔の常識の一部が崩れ始めています。

ですが「昔の人の知恵は凄いな」と唸るようなケースも増えています。
迷信の延長に過ぎないと思われていた知恵が、科学の力で証明されるケースも増えています。


ハンバーグの焼き方。
最初は強火で両面を焼き固めます。
そしたら火力を落としてフライパンに蓋をして、蒸し焼きにします。

フライパンに残った油や肉汁は捨てないでください。ソースと合わせると美味しいので…。
一番オーソドックスなソースは、フライパンにそのままウスターソースとケチャップを入れます。
隠し味としてお醤油も少し入れると風味がよくなります。