引き寄せの法則系のスピリチュアリストは
「思考が全ての現実を作っている」
と断定している。
逆に非二元・ノンデュアリティ系の人達は、個の概念を認めないため、
「私達は何も出来ない」
「ただ起こるだけ」
と、けんもほろろだ。
この両極端な教えは、文字通り両極端であるが故に、私達の人生に何の役にも立たない。
生活の充実どころか悟りや覚醒にも役立たない。
それは次のような理屈による。
この世に「完全なる陽」は存在しない。同じく「完全なる陰」も存在しない。
陽は常に陰を含み、陰は常に陽を含む。
この世に「完全なる善」は存在しないのと同じく「完全なる悪」も存在しない。
善は常に悪を含み、悪は常に善を含む。
同じようなことが我々の「生きる指針」にも当てはまるのだ。
個人の意識の力を過大評価し、
「意識・思考が全てを作っている」
などと言ったところで、現実はいつも裏切ってくる。
ノンデュアリティ系も同じレベルで愚の骨頂だ。
個人の力を全く認めず、「全ては全体性の現れです」などと言ったところで、何の役にも立たない。
運命論というものもある。
最近のスピリチュアル界では、賢者テラ氏の説く運命シナリオ論が流行の兆しを見せているようだ。
だが反発する人も多い。
運命論に対する批判意見の中で圧倒的に多いのは、「起こる出来事が事前に全て決まってるなら、努力する必要が無くなってしまう」というものがある。
だが、この突っ込みは的外れだと思う。
正直「批判」に値しない。
単に不満をぶつけているだけである。
運命論の指導者は、決して「努力するな」とは言ってない。
努力する・しない…もシナリオで決定済みだから…。
努力するシナリオの持ち主は、結局、努力することになっている。
だが運命論には問題がある。
以前の記事で指摘したが、精神面にも問題が起こり得る。
どんなに努力をしても、「俺の努力は通用しないかもしれない。大悲劇が襲ってくるシナリオなのかもしれない」という不安や恐怖が常に付きまとう。
いつまでたっても自信や平安が得られない。
状況次第なのだ。
運命論によって物事に冷静になれるケースもあるが、不安や恐怖が増してしまうケースもある。
もちろんその点は、私が説いている因果論も同じことである。
因果論のおかげで物事を冷静に受け止めることができるケースもあるし、自虐・自責モードに陥ってしまうケースもある。
だが少なくとも、自分の力が通じる可能性は残されている。
因果律・カルマ理論は、突発的な凶現象には太刀打ちできなくても、人生の多くの場面で自助努力が通じる余地は残されている。
自責モードの問題にしても、受け止め方を変える修行を積めば、淡々と物事を観照できる心の持ち主になれるかもしれない。
大きな不幸を前にしたときは冷静さを失ってしまうかもしれないが、小さな規模の不幸現象なら淡々と観照できるようになれるかもしれない。
要するに運命論と比較して、選択や可能性の幅が遥かに大きい。
運命論者の賢者テラ氏がセミナーでどれほど「視点の切り替えトレーニング」を教えたところで、その効果が出るか出ないかは全て運命のシナリオによって決定されてしまっている。
だから全く無意味だ。「看板に偽りあり」のエセ指導である。
霊感商法と一緒。
私は「だから運命論は駄目だ」と言ってるのではなく、人が説く運命論そのものには何の意味も効力もない、と指摘しているだけだ。
賢者テラ氏がサレンダーについて興味深いことを言っていた。
↓
『運命をコントロールしようとする欲望を捨て去り、全面的に降伏することが大切だ』
『引き寄せの法則の実践者にはサレンダーは起こらない。自分の力で運命をコントロールしようとするからだ』
『私は「覚醒した」と言いながら 「引き寄せの法則」を説いている人が理解できない』
私に言わせれば、こんな主張をする人こそ理解不能である。
根本的に矛盾している。
運命論によれば全てはシナリオ次第だから、引き寄せの法則を説く人も、そういうシナリオだったことになる。
何の不思議もない。
理解できない話ではない。
運命論者たちは本当に自説を受け入れているのかね?
この世には様々なキャラがある。
人それぞれシナリオが違う。
よって「引き寄せを説くシナリオを持っている覚醒者がいる可能性」も否定できまい。
運命論の神髄は、どんなシナリオも受け入れる心境を得ることではないのか?
因果律も引き寄せの法則も、それら全てのシナリオを肯定することに意味があるのではないか?
もし運命論者がそれを「理解できない」などと批判するなら、その人は真の意味で運命論を認めていない。
他人のシナリオを受け入れていない。
ただし運命論によれば、その「受け入れない」という選択さえもシナリオだったことになる。
実に都合の良い世界観である。
「すべてはシナリオだった」と言っとけば済むのだから。
自分がどんなにズレた発言をしても、「シナリオだった」と言っとけば責任回避できる。
サレンダーが起こるかどうかも、本当はシナリオ次第だった……。
サレンダーが起きないシナリオの人もいるだろう。
それが運命論である。
むろん因果論だって何の保証も出来ないのだが、可能性の幅ははるかに大きい。
故に、私のような因果律メソッドの実践者が因果律の効用を宣伝をするのは当たり前であり、何ら道理に反していない。
賢者テラ氏の主張では、「人間は小説やゲームのキャラ」とのことだが、我々には少なくとも感情や思考はある。
自我意識があり、それを自覚できる。
小説やゲームのキャラとの決定的な相違点である。
まあ、運命論のお偉さん方のご高説では、その感情すら「運命のシナリオが決めた事」らしいが…。
少なくとも我々は、人を愛することが出来るし、喜びも悲しみもある。
感謝心も反省心もある。
我々の本質は無常とはいえ、この世では「血の通った人間」である。
呼吸している。生きているのだ。
引き寄せの法則に関する有名な本に、「大きな代償を伴う願望達成」の事例が乗っていた。
ある人が数千万円を欲し、熱烈にイメージしていた。
すると母親が交通事故死し、最初に臨んだ金額にピタリと一致する生命保険金が手に入ったというのだ。
通常、引き寄せや成功哲学では、「自他にとって最善な形で」という条件を付ける。
某スピリチュアル団体では、潜在意識への願望インプットで用いる言葉に「全ての面において安全に」という言葉を付け加えている。
だが手段を問わず、何が何でも、という考えの人や、「成功には代償が必要」という信念が潜在意識にプログラムされている人は、問題も一緒に引き寄せやすい。
故に「安全に」という条件付けが大切になるわけだ。
一部の運命論者は、その様な事例をもって引き寄せの法則を否定していた。
頭が悪すぎる。
危険性という点を除けば、却って潜在意識の力を認めたことになるからだ。
賢者テラ氏は、「エネルギーに思考があるわけない」などと決め付けていた。
これもまた全く無意味である。
エネルギーとはある種の情報である。
思考も情報の一種である。
気功師やヒーラーなら、それを否定できないだろう。
思考があるかないかは別にして、エネルギーにはそれぞれ個性があり、情報を持たせることが出来る。
意念の力を使うヒーラーもいる。
もちろん個人の思考は使わず、宇宙に全てを任せるタイプのヒーラーもいる。
外気放射を行なう気功家は、クライアントの病気の質によって、放射する気の質を変えている。
エネルギーには情報があるからだ。
その情報の質を変えることによって、対象に与える影響が異なってくる。
いずれにしても、エネルギーに思考や意識が融合するケースは基本原理に基づいており、否定することが出来ない。
大切なのは、貴方が日々、どんな意識をもって判断し、選択し、行動するか?ということだ。
エンライト@太古の道先案内人