悟りを求めるのは犯罪である | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

悟り系スピリチュアルが大盛況だ。
悟りを開き、解脱(げだつ)し、涅槃に至ることを究極の目的としている。

だが私は言う。
「悟り・覚醒・解脱のステージに『救い』のイメージを注入した宗教詐欺師に気を付けよ」と…。

解脱・涅槃には一切の救いはない。
それは完全なる消滅、絶対無でしかない。
そう。虚無である。

だが一部の指導者は猛烈に反発してくる。
「涅槃とは虚無ではありません。無条件の愛であり、至福の境地なのです」


もし解脱や涅槃のステージが「無条件の愛」ならば、そこには愛と呼ぶに相応しい性質がある事になる。
では、その性質を構成しているのは一体何か?
愛の性質を成り立たせている諸条件・構成要素があったことになる。

つまりそれ自体が条件生起(縁起)である。
無条件ではない。
この宇宙に無条件の愛など存在しない。愛も至福も恩寵もすべて条件付きである。


この世は無常。
一切皆苦。
この世界における全ての幸福は、本当の幸福ではない。

美味しいものを食べれば満足する。
だが自然災害・戦争・遭難などで何日も食事が出来なくなったら、物凄い飢餓感に襲われる。

愛する人がいる。
だが病気や事故などで、その人を失ったら、心は悲しみに苛まれる。
この世の全ての幸福は、そのまま苦の原因にもなっているのだ。


真の自由とは何物にも依存していないこと。
「〇〇が必要」というように、何かに依存した幸福は、そのまま苦の原因になり、束縛された状態なのだ。

だが、この世で苦を消し去るのは困難である。
生きるためには食料が必要だし、他にも色々なものが必要。
それらに対する欲望・依存心が無ければ、生きることさえ出来ない。

依存心を完全に捨てたら、死に直結する。
つまり我々は多くの依存対象に執着することで生き長らえている。

依存対象が無ければ生きられない…という事実は、その対象物に拘束されていることを示す。
つまり我々は奴隷である。
真の自由はない。


釈迦は「一切は無常であり、苦である」と説いた。
一切が苦であるならば、この世における生存条件と幸福の条件の全てが苦の原因になる。
ならば生存と幸福の全てを放棄しない限り、苦は消えてくれないわけだ。

まるで生き地獄である。
なす術がない。

釈迦はそこで解脱(げだつ)の道を示した。
ニルヴァーナ・涅槃に至るメソッドである。
2度と現象界に生まれないために。
2度と輪廻しないために。

だがこの道は、魂レベルの完全死と言ってよい。
究極の自殺である。
物質レベルの自殺なら、肉体が死ぬだけだ。魂は生き続け、輪廻の旅を続ける。
だが釈迦は、霊的なものも含めた完全死の道を示したのである。

自分という存在が根こそぎ消滅すれば、一切の苦も雲散霧消する。
何故なら苦を感じる自分が消え去るからだ。
これは断じて「救い」ではない。ポジティブな意味は一つもない。


解脱し、涅槃に至れば、確かに苦は生起しなくなる。
だが楽も生起しなくなる。
全ての不幸は滅するが、全ての幸せも滅する。
全ての絶望は滅びるが、全ての希望も滅び去る。

完全なるゼロ化である。
そんなものを「救い」などと規定した仏教徒がいる。
大乗仏教の僧侶たちだ。
頭でっかちな学僧たちだ。

一体何が救いなのか?
全ての魂を涅槃に送り届けるという大乗仏教の請願(菩薩の誓い)とやらは最低最悪な宗教詐欺である。

解脱の道は、殆どの人には必要ない。
一握り人だけが必要とする。
もし仏道が全ての人に必要で、全人類が実践した場合、地球社会は大変なことになる。


釈迦は出家した全ての弟子に厳しい戒律を与えた。ありとあらゆる欲望を制限した。
それは当然かもしれない。
無常なる世界への執着によって苦が生じるなら、その無常な世界に対するあらゆる欲望を制限しなければならない。

釈迦が授けた戒(シーラ)律(ヴィナヤ)は数百にも及んでいたという。
常軌を逸する数である。
生きるために必要最低限の欲望を除いて、殆どの欲望は規制されていたと言ってよい。

社会に出て働くことを禁止。
生活の糧を得られないから、托鉢で生きるしかない。
こんな生き方を地球上の全ての人が実践したら、経済社会は崩壊する。

異性との性行為も禁止。
性行為への欲望・および異性への執着は解脱の障害になる。
故に子作りも出来ない。

そんな生き方を全人類が実践したら、100年後の地球には人間がいなくなっているだろう。
人類滅亡である。


もう分かった事と思う。
解脱する道は、ごく一部の人だけが実践すれば十分なのだ。
決して全ての人に必要な道ではない。
全ての人が実践したら、人類が滅び去るしかない。


これが一体どうして「救い」と言えるのか?
笑わせるな!


大乗仏教はその矛盾を解決する為の便利なストーリーを用意した。
修行しなくても解脱できる道である。
如来に対する徹底した信仰・明け渡しにより、如来が有する全ての悟り・真智のデータが信者に注入され、その人は修行しなくても解脱できると…。

だが所詮、解脱へのルートを短縮しただけである。
大乗の誓願のように、全ての魂を涅槃に送り届けてしまったら、地球から人間はいなくなる。
結局、何も変わりない。


解脱の道は「もう二度と生まれたくない」「自分という存在を完全に消し去りたい」と腹の底から叫ぶ人だけが必要とするものだ。
究極の自殺願望である。

この世の全てに絶望した。苦痛で苦痛でたまらない。
一刻も早く消滅したい。
そこまで追い詰められた人に、たったひとつ残された最期の手段なのだ。

故に釈迦は決して偉大な人間ではない。尊敬すべき人間でもない。
彼は追い詰められていただけなのだ。


釈迦が説いたのは完全消滅の道である。存在を分解し、雲散霧消させることだ。
全ての愛と幸福が消滅する。
何も残らない。

だが消滅しない限り、苦も消え去らない…。
困ったことだ。
結局、我々は現象界に生まれてしまった時点で「運の尽き」だったのだ。


だが、最後の悪足搔きともいうべき道はある。
それを教えよう。

解脱は求めなくて良いが、悟りは求めた方が良い。
悟りと解脱は異なる。
似て非なるものだ。

解脱するには自我・エゴを滅ぼさなければならないが、悟りの道では観照状態にあるだけで良い。
「エゴは私ではない」「私は私ではない」ことに常に気付いているだけで良い。

それでも苦そのものは消え去らない。
自我が消えたわけではないからだ。
だが、苦を感じている自分が本当は実在しないことに気付いている。

これだけでも痛快な話である。
「宇宙よ、ざまあみろ」だ。

宇宙の魂胆を全て見抜かれてしまった。
宇宙側から見れば最悪な犯罪である。
悟りの道とはそういう事だ。

我々は喜んで宇宙的な犯罪者になればよい。
(現実レベルの犯罪じゃないよ)

宇宙が仕掛けていた罠。
我々はその茶番劇のストーリーラインで、気持ち悪い笑みを浮かべながら俳優を演じていれば良いのである。

 

 

気持ち悪い笑みを浮かべているエンライト@太古の道先案内人