生と死は常にセットである | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

前回の記事「私は悟っていない。だが裏技があった」 では、絶対無を説く私の真意を説明するとともに、根源的な真理を直接認識することは不可能だと説いた。

だから私は消去法という間接的手段を選んだ。

西洋の一部の神秘学では、
「真理を見出そうとするのではなく、虚偽を見破り、手放しなさい。
それを繰り返せば、最後の最後に真理だけが残る」
という。

私もそれをやってみたわけである。


ところが真理の断片さえ残らなかったのだ。笑
全てが消えてしまった。
なんにもなかった。

そのプロセスで、絶対的虚無という認識に至ったわけだが、それが真実という証明は出来ない。
しょせん認識の次元に過ぎないからだ。

人間という生き物は、究極の真理を悟るようにプログラムされていない
悟らないのが正常なのだ。
万一、悟ってしまったら、生命の根本領域に重大なダメージが及んでしまう。
説明記事「反逆-断片的な宇宙」


釈迦は二元世界の法則を徹底的に解き明かし、その真理を悟るための「観察法」を教えた。
当時の釈迦は分別主義者と呼ばれていた。

故に釈迦が伝えた瞑想プログラムも複雑で難解である。
上座部・テーラワーダ仏教に伝わっているが(※変形されつつも)、その一部だけでも現代人には難行苦行であろう。

過去記事にて説明している。
「四界分別観 4大エレメントの瞑想」
「第四禅定とヴィパサナー」


禅宗など大乗仏教の悟りの道では「無分別」が重視されるが、釈迦は物事を徹底的に「分別」したのである。
善悪。
清濁。
個々の性質の違い。

二元世界の構造解明を極めたわけだ。

だが非二元については無言でいることが多かった。
(仏陀の捨置記に代表される)
語ることに意味を見出さなかったのだろう。


生命の永遠性を必死に追い求める人が多い。
全く無駄だ。
彼らの個我意識がどんなに「無」を恐れ、抵抗し、暴れようと、法則を無効にすることは出来ない。

何故なら、我々はその法則により生まれた存在であるからだ。


旧約聖書の世界観では、万物は創造主によって作られたという。
それが真実であるならば、貴方はその命の存続をコントロールすることは出来ない。
寿命を少しばかり伸ばすことは可能かもしれないが、永遠なる命を獲得することは出来ない。

それを決めるのは創造主であるからだ。
貴方には決定権がない。
存続するか消滅するかを選ぶことは出来ない。

貴方が折り紙を作ったとする。
鶴でも鳩でもトカゲでもなんでもよい。
ある日その折り紙に突然「意識」が宿った。…付喪神をイメージしていただきたい。

だがその折り紙は、自身の命が長く続くように自己コントロールすることは出来ない。

全ては作り手が決めること。
大事に保存するのか、ビリビリに破いてゴミ箱に捨てるのか…。

仏教のように創造主を認めない宗教でも同じことだ。
貴方は存在を生起させる「法則」によって生まれた。
故に貴方がその法則を操作できるはずもない。

スピリチュアルな感性が鋭い人は、人体のひとつひとつの臓器にも生命があり、意識があることに気付いているだろう。
いや、臓器どころではない。
細胞一つ一つにも意識がある。

それらの命は永遠ではない。
新陳代謝により、古い細胞は必ず死ぬ。
そして新たな細胞が生まれる。

その連鎖や入れ替わりのサイクルにより、生命は維持されている。


貴方は貴方が認識している「私」という個我意識の永続性を求めているのかもしれない。
無に帰すことを恐れてるのかもしれない。

それが当然だ。
生命には本能的に「生き続けたい」という執着の意思がプログラムされている。

だが貴方が求めているのは「貴方という個我意識」だけである。
細胞ひとつひとつの永続など求めていない。
貴方の今の自我意識では認識できないからだ。

つまり貴方にとって細胞一つ一つの命や意識など「無いも同然」なのだ。
故に貴方は、死にゆく細胞の「永遠なる存続」を願うことがなかった。
どーでもいい事だったのだ。

だがこの世はすべて縁起により成り立っている。
相互の繋がり・関係性のことである。
大宇宙を一つの人体に擬えるならば、貴方という個我はたった一個の細胞でしかない

そして大宇宙は、貴方の個我意識の永続など望んでいない。
細胞の新陳代謝と同じことだ。
死んで滅ぶのが前提なのだ。

貴方はそんな大宇宙に反発を覚えるかもしれない。なんて無慈悲なんだ…と。
ならば貴方に問う。
貴方は日頃、全ての細胞に対して、限りない愛情を注いできたか?

細胞の叫びのことなど何も考えていない。意に介していない。
認識すらできない。
大方そんなところだろう。


生きることと死ぬことは常にセットである。
全ての細胞が生き続けてしまったら、貴方という生命は維持できない。

他の生命との関係性においても当てはまる。
地球には食物連鎖というルールがある。
他の命を殺して、食べることによって、貴方の命を維持しているのである。


ただし、非二元・ノンデュアリティという根源ステージでは、何一つ滅するものが無い。
前回述べたように、時間が無いからだ。

ちなみに、今の悟り系スピでは「私には個我意識がない」「自我マインドが消えた」と告白する人が多い。
ノンデュアリティ界隈には特にそういう人が多い。
個を認めないからだ。

また2010年頃、2ちゃんねるの各板で暴れまくった鬼和尚なる人物は、
「わしには自我意識がない」「社会生活を送るために、仮の自我を作ったのじゃ」
と発言していた。

このような認識を持つ者は、箸にも棒にも引っ掛からないほど自己観察が未熟という事だ。

自我は生命機能と統合されているため、この世で生きる限り、完全に消えることはない。
釈迦はその正体を「煩悩」と見破り、涅槃に至るために「完全なる滅尽」の道を説いたのである。

涅槃(ニルヴァーナ)の意味は、「煩悩の火が消えた境地」である。
肉体のみならず霊的次元までの完全死こそが解脱の条件だったのだ。

ただし、いま生きている人でも、一時的に自我意識を停止させることはできる。
ヨーガでいう無想三昧や無種子三昧である。

この深い瞑想中には、呼吸と心臓が停止する。
脳波も生じない。
当然、こんな状態では日常生活を送れないため、自我の消滅は「一時的」なものに過ぎない。
瞑想が終われば自我が復活する。

説明記事「思考とは生命である」

エンライトの未発表原稿を代理でリリースしました。(美雨)