前回「一般人にはヴィパサナー瞑想は不可能」
前回の記事で、「一般大衆が本物のヴィパサナー瞑想を実践するのは困難だ」と述べた。
だが物事には例外もある。
一人ひとりの機根に関わるからだ。
分かりやすく言うなら、筋が良いか悪いか…という話。
完全覚醒者といわれたラーマナ・マハルシは、ヨーガの体系的な修行をしないで覚醒した。
それは彼が優れた機根を持っていたからである。
時間軸で観るなら、ラーマナ・マハルシは幾多もの過去世で修行を積んでおり、準覚醒していた。
99%の条件は既に整っていたのだ。
故に最後の生で完全覚醒に至ったのである。
だが…殆どの人はそこまで優れた機根は持っていない。
そもそもラーマナ・マハルシすら、「私は誰か?」と問い続ける真我探究法を実践したのだ。
一般大衆である我々には、それ以上の修行が求められるのが当然である。
今の非二元・ノンデュアリティ指導者たちの「修行は必要ない」という戯言にはくれぐれも惑わされないで戴きたい。
釈迦本来の教えは、大乗仏教の僧侶にとっても都合が悪いかもしれない。
何故なら多くの宗派で「般若心経」という偽経を用いているからだ。
仏教の根幹は縁起の法であり、12因縁であり、諸行無常である。
それを否定してしまったら、釈迦の教えが総崩れする。
ところが般若心経は、その暴挙をやらかしているのだ。
たとえば「無苦集滅道」という言葉…。
釈迦は苦集滅道を説いた。
仏教の神髄である。
だが般若心経は、それさえも「無」と見なしたのだ。
これは釈迦仏教の否定であり、破法である。
破法とは 「法を破る」 という意味だ。もはや仏教とは呼べなくなる…。
先日、ある寺院のホームページを訪問したところ、この問題について歯切れの悪い説明をしていた。
般若心経は釈迦が説いたのではなく、法身仏が説いたものだと…。
何の根拠もない話である。
実際、テーラワーダ仏教では般若心経をまったく認めていない。
その一例として、スマナサーラ長老は「般若心経は間違い?」という本を上梓し、徹底的に糾弾している。
本来の仏教は 「実践」 が前提である。
ありがたい教えを聞くのではなく、徹底した実践こそが仏教の命題なのだ。
故に原始仏典では、どの章を見ても必ず「行法」が説かれている。
だが般若心経は、行法についての説明が皆無なのだ。
ノンデュアリティ的な世界観を説くことに終始している。
まるで今の悟り系ブログのように…。
現代のノンデュアリティ系スピラーは
「修行は必要ない。悟りはただ訪れるだけ」などと説明している。
その理由は簡単だ。
彼ら自身が本当は悟っていないから…である。
だから悟りの行法を説くことが出来ないのだ。
阿部敏郎さんのように、かろうじて 「行法らしきもの」 を説いている人もいる。
だがその中身は初歩的なものに過ぎない。
あんなメソッドで悟れるなら、古今東西の聖者たちはあそこまで苦労しなかっただろう。
優れた機根を持っていた仏陀釈尊だって試行錯誤を繰り返したのである。
実は阿部さんが伝授する幼稚なマントラ瞑想の在り方も、般若心経に酷似しているのだ。笑
やれやれ…収拾がつかねぇな。
実践メソッドを説かない般若心経は、なんと最後の方で唐突に「呪文」を紹介しているのである。笑
これを唱えれば彼岸に往けるよ…と。
んな馬鹿な話があるかー!!
↑
びっくりマークが2つだよー。
神々に祈願するバラモン信仰でさえ、「呪文やマントラの類で悟りをひらける」とは言ってないのだ。
確かに現世利益はあるが、ぜんぜん次元が違う話でしょ。
仏教では、この宇宙の精神的現象(ナーマ)と物質的現象(ルーパ)を構成する要素について説く。
地・水・火・風・虚空・識…。
6大エレメントである。
しかし虚空と識は後世に現れた教説であり、原始仏教では4大エレメントを説いている。
仏教では全ての存在を「物質」と見なしている。
その物質的現象(ルーパ)は、28種類の構成要素があると言い、そこには4大エレメントがあるという
ちなみに仏教には五蘊(色・受・想・行・識)という用語があるが、その中の「色」が物質現象のことである。
現在、マインドフルネスやヴィパサナー瞑想が注目を浴びているが、ほとんどの実践者は真のヴィパサナーを実践していない。
あまりにも複雑で難易度が高いため、一般大衆が修めるのは不可能に近い。
仏教には数多くの瞑想法があるが、その一つである四界分別観だけでも実に難易度が高い。
四界分別観では
地・水・火・風のエレメントを、それぞれ別に精神集中し、観察(洞察)する。
おまけに地・水・火・風のどれをとっても複数の性質があり、その全てを子細に観察しなければならない。
地の要素には、6つの性質がある。
固さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さである。
水の要素には流性と結合性がある。
火の要素には熱さと冷たさがある。
風の要素には推進性と支える力がある。
つまり合計12の性質があるわけだ。
「風」の推進性を洞察・理解するには、まず呼吸に意識集中するとよい。
特に吸う時だ。
その息を吸う力こそ推進性(押す力)の現われである。
その力を子細に観察しているうちに、極めて微細な振動を感じるようになる。
これこそ推進性がもたらしたものである。
その振動をまず頭頂で感じる。
瞑想を深め、頭頂のいかなる微弱な振動も逃さず、気付き、感じ取る。
成功したら、今度は頭全体に意識を広げ、振動を感じる。
そして順次、首や胸、お腹、両足……全身に注意対象を広げてゆき、微細な振動を感じるようにする。
当然、内臓や神経組織、血液、細胞一つ一つにも観察対象を広げることになる。
こうして風の持つ推進性を観じ、理解してゆく。
たった一つの性質だけでも、こんなに細かく、時間がかかる瞑想プロセスが必要となるのである。
残りの11の性質についても、同じように細かく身体観察をする。
たとえば「地」のエレメントの「粗さ」を感じる瞑想プロセスでは、歯の裏側のざらついた感触を観察し、徐々に全身に観察対象を広げ、全身の全ての粗さの質に気付き、理解してゆくのである。
だから四界分別観を修めるには、朝から晩まで修行に打ち込める環境(条件)が必要だし、忍耐力も相当なものが要るわけだ。
日数の問題もある。
四界分別観の全ての階梯をマスターするには、長期間かかるだろう。
貴方にそんな時間と気力があるだろうか?
それだけの犠牲を払える覚悟があるだろうか?
続きは次回に…。
エンライトの原稿を代理でアップロードしました。(美雨)
代理人の個人ブログ。
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