思考とは生命である | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

スピリチュアルでは、とかく思考が邪険に扱われがちだ。
曰く…
「自己観察を通じて、思考と真我を切り離しなさい。思考との距離を置きなさい」

だが、私の観察によれば、こんな教えを平気で説いてる人こそ無駄に頭でっかちである。
雑念的な思考から解放されていない。


高度な知性に裏打ちされた思考力を発揮しているなら問題ない。
人間にはそのような思考が必要だ。
だが、彼らの思考の多くは 「カルマ思考」 「雑念マインド」 である。

ヨーガではそのような思考 (心) の在り方を

と呼んでいる。

この猿を調教するのがヨーガの目的の一つなのだ。
(※正確には目的ではなく、手段である)


数あるスピリチュアルの中でも、特に悟り系スピは思考に対してネガティブイメージを貼りまくっている。
だが上に書いたように、それは自己批判に等しい。

「物事への意味付けを止めよう」
「認識や解釈が生じる前の事実そのものを生きよう」


解釈や意味付けではなく、事実そのものが大切だと主張するわけだ。
だが現象界では、そんなことは不可能である。

思考の全てが停止する無想三昧という瞑想ステージがあるが、それ以外の日常意識では思考のエネルギーが必ず働いている。

人の思考が本当に停止している時は、呼吸や心臓も停止している。
これはヨーガ経典にも明記されている。

そしてどうやら脳波も停止するらしい…。
友人の内科医にも実験協力してもらったのだ。
瞑想中の私の心身の状態を調べてもらったのである。

私が無想三昧に入ってるとき、脳死に等しい状態だったという。脳波がないのだ。

それでも生きていたのは、まさに深い瞑想中だったからだ。
もし日常生活中に心臓や脳機能が停止してしまったら、たちまち死が訪れる。


話を戻そう。
そもそも彼らが得意気に説いてる 「認識や解釈が生じる前の事実そのもの」 とは一体何か?

この現象界では事実と解釈は一体である。
事実の中に解釈があり、解釈の中に事実があるのだ。

そうでなければ事象そのものが成立しない。物事が展開しない。

貴方は言葉を通じて他人とコミュニケーションしている。
では言葉、言語とは何か?

これもまた解釈・意味付けの世界なのだ。

口から発する言葉は、本来 「単なる音」 である。
何の意味もないのだ。
だがそこに他者との共通認識としての 「言葉の意味」 を定義付けることにより、他者と会話することが出来るわけだ。


もし貴方が今この瞬間、認識能力を失ってしまったら、貴方は生きることさえできない。
目に映るもの、耳に聞こえるもの全てが意味を失う。

何を見ても 「物体の塊」 としか認識できない。
貴方の親や友達や会社の同僚と会っても、人間として認識できない。なんの解釈も生じない。
ただの物体である。

内臓諸器官だって本来の機能が止まってしまう。
食事をしても、栄養素と毒物の判別ができない。
悪性のウイルスや細菌が侵入しても、なにひとつジャッジできないため、まともに免疫力が働かない。

ならば 「死」 しかないだろう。

認識、解釈、意味付けとは、生命の本能レベルで行われていることなのだ。
頭だけではない。
食事をしたら、内臓が 「これは栄養素」 「これは毒素」 という解釈やジャッジをしている。

説明記事『この世は「意味付け」の世界』


多くの人は 「思考」 というものをマインドレベルの心の動きだと思い込んでいる。
まさにその思い込みこそ浅薄な思考である。

本当は、内臓にも思考の力が宿っている。
神経系統にも思考の力が宿っている。


貴方の頭と同じように、肉体もいろんな思考をしているのである。
つまり思考とは生命活動そのものなのだ。

それを手放せ…だって?
思考とは距離を置け…だって?笑
ならば貴方がまずそれを実行し、証明して戴きたい。 思考が完全に失われた状態を示して戴きたい。

まあ、そうなったら死しかないんだけどね…。


ヨーガや仏教では様々なメソッドを用いて、心(チッタ citta)をコントロールする。
では心とは何か?
各派によって心の定義は異なるが、思考、感情、知性、意志などが含まれると言ってよい。

ラージャ・ヨーガによる心の構成要素と性質は
マナス
ブッディ
アハンカーラ

の3つに分類される。

マナスは原始的・本能的な意識に関係している。
身体や思考の無意識的な反応などもマナスの力である。

たとえば貴方が道路を歩いているとき、突然、酔っ払いが運転する乗用車が貴方に突っ込んできた。
貴方はとっさに避けて、難を逃れた。

緊急事態の時は、頭であれこれ状況分析する暇はない。
無意識のうちに危機回避行動をとるものだ。
この働きもマナスあり、思考のエネルギーが関わっている。


2つ目のブッディは、認識作用の本質である。
悟り、覚醒し、解脱(げだつ)する直前まで必要とされるものだ。

解脱とは魂の死と言っても良いわけだが、その直前までは生命本能のステージに在る。
当然そこには認識や解釈が生じる。

今の悟り系スピラーたちの常套句…
「認識や解釈から離れ、事実そのものを生きなさい」 は戯言に他ならない。

それは生命に逆らうだけではなく、悟りの道さえ妨害しているのだ。
本末転倒である。
「生きる」ステップを省いて、いきなり解脱することは出来ない。


エンライトの未発表原稿をリリースしました。(代理人・美雨)