非二元・ノンデュアリティに代表される悟り系スピでは、純粋な事実認識を重視している。
思考による解釈・意味付けが生じる前の 「純粋な事実そのもの」 を認識し、それに基づいて生きようとするわけである。
私も 「事実を純粋に認識しましょう」 と説くことがある。
だがそれは表現上の都合であり、言葉のアヤみたいなものだ。
厳密には、純粋な事実認識など不可能なのだ。
だから私は観照者の目 (真我・アートマン) と行動者の次元を分けていたのである。
物事を純粋に観照しているのは真我だけである。
日常意識ではどうしてもマインドの思考が働いてしまう。
つまり、過去の記憶に基づく解釈しかできないため、その次元では完全なる (純粋なる) 事実認識は出来ない。不可能だ。
故に、私が 「事実をありのままに認識しましょう」 と書くときは、せいぜい 「物事を俯瞰しましょう」 という程度のニュアンスに過ぎない。
さて、例の 「純粋な事実認識」のことだが、自己啓発系スピや引き寄せ系のスピでは、その段階に留まっていない。
物事を認識した後に生じる 「解釈」 「意味付け」 の方向性を重視しているのだ。
願望を叶える上で必要な解釈のことである。
プラス思考が重んじられるのも、それ故なのだ。
物事をプラスに受け止めよう…というわけである。
多くのスピラーは自分の前を走ってる車のナンバーを見て、同じ数字が並んでいたら、「ラッキーの証」 と解釈するかもしれない。
だが悟り系スピでは 「同じ数字が並んだだけ」 と認識する。
余計な意味を付けないわけだ。
1111だけではない。
他のエンジェルナンバーも同じである。
天使系スピを実践する人は、天使のメッセージだと解釈するかもしれないが、ノンデュアリティでは 「その数字が並んだだけ」 と受け止める。
ちなみに悟り系スピラーの中には、その 「純粋な事実認識」 という指針にも否定的な人たちがいる。
面倒臭い連中である。笑
彼らは 「認識した時点で解釈が生じている」 と言うのだ。
つまり、認識が生じる前の事実そのものを重視している。
認識する・認識される…という二元性を超脱しようとするわけだ。
確かに認識した時点で解釈が生じるのは事実だが…、何の問題もないのでは?
この世で生きる以上、認識能力は欠かせないからだ。
それを排除したら、生きることすら出来なくなる。
5感や言語などを通じて脳に入力された情報は、瞬時に内部表象として再構成され、現実の情報として認知・知覚される。
これは認知科学によって実証済みである。
また、意識を集中したり想像することでも認知現象を引き起こす。
梅干を食べてるシーンを想像するだけで唾液が出てくるように…。
それらの認識能力が無くなったら、人は物事を選択することさえ不可能になる。
スマホを見ても、それがスマホだということが分からない。
貴方の姿を目撃しても、ただの物質の塊としか認識できない。何の解釈も生じないのだから。
故に、この世で人が生きている時、その人の意識内において 「純粋な事実のみ」 はあり得ない。
必ず解釈が生じる。
先ほど1111というゾロ目の話をした。
占いも基本的に、二元的な解釈・意味付けの連続である。
星の動き、方位、手相など、あらゆるものに意味を見出そうとするわけだ。
しかし中には、悟り系のメッセンジャーであるにも関わらず、占い稼業をしている人もいる。
そう。悟り系スピリチュアルと占術師を兼業しているのだ。笑
意味不明である。
※長野県戸隠の手相家・九八さんが該当者の一人だと思います。(代理人・注)
たとえば星占いでは、星々の動きや配置に対して特定の意味付け・解釈を行なう。
だから占いが成立するのである。
ところが純粋な事実認識の次元では、単に星々がそのように並んでいただけ…で終わってしまう。
手相も同じである。
悟り系スピなら 「掌にシワがあるだけ」 となるが、手相の占い師は一本一本のシワに対してその世界特有の解釈をする。
占いのマニュアルに囚われず、直観のみで鑑定する方法もあるが、それだって 「解釈した」 という事実は変わらない。
事実のみに生きる道を説いているにも関わらず、相反する占術を行なう人は、自分の中でスピの世界観がごちゃ混ぜになっているのだろう。
早い話、悟っていない…と。笑
あるいは確信犯かもしれない。
教えの破綻に気付いているが、収入のためにあえてやってる…と。
しかし純粋な事実を生きる道を説いてる以上、自分がそれに反した行為に走るのはおかしいだろう。
無責任である。
まあ、そんな自己矛盾を晒すような人もいるが、それは少数派だと思う。
多くの悟り系スピラーは、占いには手を出していないようだ。
ちなみに、私・エンライトは悟りの道に特化していないため、占いも肯定するし、利用してきた。
スピ的な立ち位置により、同じ物事・現象への向き合い方がまったく異なってくる。
具体例を示そう。
財布の中に一万円札が一枚だけ入っていた。
だが次の給料日まで日数が開いてるため、このままでは生活がピンチになるかもしれない…。
この事態をプラス思考的に捉えるならば、「まだ一万円もある」 と解釈する。
マイナス思考で捉えるなら 「もう一万円しかない」 と解釈する。
だが、プラスもマイナスもない純粋事実の次元では、単に 「財布に一万円があった」 という認識のみで終わる。
余計な解釈を交えないわけだ。
…だが厳密にいうなら、それさえも解釈・意味付けの次元なのである。
何故なら 「一万円」 という尺度も人間が作ったものであり、本質的には存在しないからだ。
単なる概念である。
一万円という概念を捨て去れば、「一枚の紙」 という認識しか残らないわけだ。
話はまだ終わらない。笑
「一枚」 とか 「紙」 というのも人間が作った概念だから、厳密にはそれも意味付けの世界なのである。
こんな調子で、あらゆる観念を払拭し、純粋な事実そのものを追及すれば、物質の最小単位まで辿り着いてしまう。
もはや人間の認識能力の限界を超えている。
果てがなく、終わりのない事実探求ゲームである。
…で、そんなものが貴方の幸せに関係あるのだろうか?
ないよ。(キッパリ)
それが悟り系スピの宿命である。
幸福や平安とは何の関係もない。
悟りは何一つ価値あるものを生み出さない。
故に無明庵EO師は、
「悟りが本当に必要とされるのは真実を求め過ぎた狂人と、妥協なき哲学者のみである」
と断言したのである。
それを考えると、巷の悟り系メッセンジャーたちの出鱈目ぶりがよく分かるだろう。
悟りの世界に対して、愛だの平安だの歓びだの、いろんなメリットを強調し、スピ商売に腐心している。
それ自体が価値判断の世界であり、バリバリの二元マインドの現われである。
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