私は悟っていない。だが裏技があった | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

私のブログには時折、珍客が現れる。
「エンライトの教えは間違っている」

この指摘は全く正しい。
反論できないね。
私は真実を一つも伝えていないからだ。笑

ただし、意図的に嘘をついたわけではない。
根源的な真理なんぞは人様に伝えようがない。
それ故に「真実ではない」と述べたのである。

冒頭のような文句を言う人は今まで何人も現れたので、今更ここで話題にしてもしょうがないのかもしれない。
しかし、ここまでの話は単なる前振り。

先日、意表を突くメッセージを送ってきた人がいたのだ。

「エンライトさんは絶対的虚無の教えを説いています。この教えは完璧に真実だと思います。逆らい様がありません。人は誰もがいずれ消滅するしかない…という絶対的な根拠をエンライトさんは完璧に示しています。反論できません」

「だから貴方を許すことができない。一体どうしてくれるんですか? いずれ私は消滅するしかないんですか? そんなの耐えられませんよ!!」

あっ? あうあう?
わしは最近、耳が遠くてのう…。
お前さんの話が分からんのじゃ。

爺の聴力


そもそも、このような抗議ははじめから破綻していないか?
この人は、私の教えを絶対的な真実だと思い込んでいるのである。
ならば抗議しても意味がない。

真実は真実だ。
変えようがない。
つまり、私がどんな教えを説こうとも、この人の命運は決まっていることになる。

私が仮に「生命は永遠だ」と説いた…としよう。
だが「完全に消滅する」の方が真実だった場合、消滅する運命から逃れられるはずがない。

もし「エンライトの教えは間違っており、人々に悪影響を与えている。だから抗議する」と言うなら、まあ…理解できなくもない。
私が間違ってる前提による抗議だからね…。


私の主な目的は、この現実世界を天地人のハートに基づいて幸せに生きること。
自分自身を生き抜くこと。

それに尽きる。

ブログの全体的なテーマを観れば、すぐ分かるはずだ。
絶対的虚無がどーたらこーたらを伝えるのは真の目的ではない。

抗議する連中は、私の言葉すら正確に理解していない。
私が前提としたものを見事なまでに見落としているのだ。

私は「存在の完全消滅」を説いた。
だがそれは一般的な解釈のレベルではない。
Mixiで活動していた頃、そのことを分かってない連中が何人も絡んできたが、遂にアメブロにも来たかぁ、という感じである。
やれやれ…呆。

私が言う消滅には一つの大きな前提がある。
根源的には時間も空間もない…という前提だ。
となれば、我々は生まれたことがない存在、という事になる。

生まれていない以上、消滅するはずが無かろう。笑
はじめから存在していないのだから。

時間が無ければ何も始まらない。何も生まれない。
故に話の本質は、消滅する・しない…ではない。
それを踏まえた上で、あえて「生滅の法」を強調したのである。

今の非二元・ノンデュアリティの連中は、「無条件の愛」「絶対的な至福」などの付加価値を付け、その釣り餌をぶらさげて商売している。
となれば、彼らが言うノンデュアリティの世界は、なんらかの性質を有していることになる。
属性と言い換えてもよい。

愛と呼ぶに相応しい性質。
至福と呼ぶに相応しい性質。
…単なる虚無に過ぎないのであれば、いちいち愛だの至福だの呼ぶ必要はなかろう。

愛があるなら、その性質を成り立たせている構成要素が存在することになる。
愛や至福を構成する成分のことである。

だが、全ては条件・縁によって生起する。(縁起の法)
故に無条件ではない。
全ては相互の関係性であり、その本質は無常である。絶対的ではない。

今の悟り系スピでは、二元のものに非二元のラベルを貼る詐欺行為が横行している。
私はその実態を告発したまでだ。

真の非二元とは、愛や至福など特定の性質すべてを超脱したステージである。
私はそれを絶対的虚無と表現したのである。

本来ならそんな言葉すら必要ないが、何の表現もなかったら何も伝わらない。
故に絶対無の教えを説き、「悟り系スピの商売人が仕掛ける罠を見破ろう」と注意喚起しているのである。

私のブログをきちんと読んでいれば、その程度のことには気付けるだろう。
だがビッグマウスな奴に限って、私の教えを単なる虚無主義やニヒリズムという、アホ臭いレベルの解釈しか出来ないわけだ。

それは私の教えの問題ではなく、お前の頭と心根の問題なんだよ。

繰り返すが、時間はない…という根源的視点に基づくならば、
「生まれた事がないから、滅するものもない」
となる。

だが宗教には、時間の実在性に基づく教えもある。私も実際、時間を前提とした教えをよく説いている。
それは相対宇宙の二元性についての話なのだ。

私はそういう時にも「全ては滅する」と説くが、こちらは字句通りである。

これはどうしようもない。
時間はある…を前提とした場合、物事には必ず始まりがある。万物にも始まりがある。
つまり「生まれた」「起こった」ということである。

ならば存在すべては永遠ではない。
始まりがあるならば、必ず終わりがある。
当たり前の話だ。
時間があるステージでは、避けられない宿命である。


釈迦は相対宇宙の原理を重点的に説いた。
生老病死。
一切行苦。
諸行無常。
是生滅法。
生滅の法は苦。

これは釈迦の悟りがそのレベルで終わったからではない。
それを超えた次元に導くために、逆に生滅を強調したのだろう。
現実世界の二元性を徹底的に追求しない限り、非二元の目覚めなど起こりようもない。

探究が中途半端な人に何らかの一瞥体験や覚醒が訪れたとしても、「悟りなき覚醒」「無智なる覚醒」となる可能性が高い。
今のノンデュアリティ系スピ界を観れば、明らかである。

ついでに言えば、私も大悟したわけではない。
今まで一度たりとも「私は覚醒者です」などと自称したことはない。
一瞥体験や覚醒体験らしきものはあったが、全ての因縁から解脱(げだつ)したわけではない。

そんな私がなぜ根源次元について説くことが出来るのか?
それは「消去法で真理を悟る」 など複数の記事で語っている。

要するに、間接的な認識に過ぎなかったわけだ。
非二元の真理は対象化ができないため、ダイレクトに観察することが出来ない。
当然、認識や理解も成り立たない。

観察・認識する者がいるならば、観察・認識される対象があるわけで、どこまでいっても二元の範疇である。

主客合一し、そのものにある境地では一切の認識力が止まる。
自分すら存在しないのだから、悟る自分も存在しない。

故に根源的な真理は、消去法などの間接的な手段に依るしかない。ある意味、裏技だと言える。
(次回に続く)


エンライトの未発表原稿をリリースしました。(美雨)
代理人の個人ブログ
「美雨のひそひそ、こちょこちょ」