大岡弥四郎 | 文武両道

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 NHKの大河ドラマ『どうする家康』では、依然…武田が優勢⁉️


 でっ🎵、今回は徳川家康を窮地に陥れた、大岡弥四郎事件?

 大岡弥四郎事件が勃発したのは、天正3年(1575年)❗

 大岡弥四郎は中間(下層の侍)と言われ、徳川家康の馬丁(馬を引く職務)として仕えていました‼️



 いつの頃からか、大岡弥四郎は行政手腕を評価され、松平信康のもとで岡崎城下の町奉行として重用されることに⁉️

 ことの発端は天正2年(1574年)、大岡弥四郎が松平新右衛門らと結託し、武田勝頼に内通しようとしたこと?


 当時、徳川は武田と敵対していましたが、大岡弥四郎は武田勝頼の三河侵攻を手助けしようとしました❗


 背景には、大岡弥四郎の発言権が増していたからとの指摘があります‼️



 計画は、大岡弥四郎が徳川家康が岡崎城を来訪したと虚偽の情報を流して開門させ、侵攻してきた武田軍を城内に導くこと⁉️


 そして、城主の徳川信康を自害に追い込み、城内の家臣らを武田氏に服属させる?


 そのうえで、徳川家康やその家臣を討ち取るというものでした❗

 鳥居氏の家臣・山田重英は、大岡弥四郎の誘いに乗ろうとしましたが、考え直して徳川信康に事の次第を通報‼️



 また、徳川家康は大岡弥四郎の謀反を事前に察知していて、調査を行っていたと伝わっています⁉️


 そう…計画は、バレバレ?

 大岡弥四郎の謀反は、武田氏の歩き巫女によって広く伝わっていて、築山殿の耳にも入っていたみたいです❗


 築山殿は徳川信康を取り立てることを条件として、武田氏に与同しようと…‼️

 結局、大岡弥四郎は捕縛され、岡崎城下と浜松城下を引き回しにされた上、鋸挽きという残酷な刑に処せられました⁉️


 大岡弥四郎の妻子も磔刑に?