『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
五月七日 教皇グレゴリオ七世
十一世紀の教会は、現世的な諸利害の渦巻に巻き込まれ、あわや難船の危機に臨んでいた。外からは王侯貴族の圧迫、内からは聖職売買、平信者による司教叙階、司祭の妻帯などが神聖な教会制度をその根底からゆさぶっていた。この難局に当たって、神は「あなたはぺトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよ。地獄の門はこれに勝てないだろう」(マタイ6:13)という約束どおり、史上最大の人物のひとりとみなされる教皇グレゴリオ七世なペトロの後継者に選びたもうた。
彼は一〇二〇年、イタリア北部のサヴォナに貧しい大工の子として生まれた。しかし幸いに主任司祭から英才を認められ、そのあっせんで少年のころ、ローマにある聖マリア・アヴェンチナの修道院に寄宿し、ヨハネ・グラチアヌスの手によって教育された。一〇四五年、恩師グラチアヌスが選ばれてグレゴリオ六世になると、グレゴリオも抜擢されて彼のもとで働くように加った。翌年同教皇がなくなると、グレゴリオはフランスの有名なクルニー修道院にひきこもって一身の修養に励んだ。一〇四九年、教皇レオ七世の招きにより、グレゴリオは教会行政のために働くことになり、以来、五代の教皇に仕え、枢機卿として教会内都の改革に敏腕をふるった。その間に、フランスおよびドイツの教皇使節、ローマ教会の助祭長などの重職をもりっぱに果たした。
一〇七二年、教皇アレクサンデルニ世がなくなると、グレゴリオは満場一致で教皇に選ばれた。ただちに歴代教皇の取締まり令をいっそうきびくしたところ、各方面から猛烈な反対にあい、マインツの教会会議でも「もし教皇が地方教会を治めるのに人間だけで足りなければ天使でも引っぱり出せばよかろう」とつぶやく者もあり、失敗に終わった。
そこで教皇は戦略を一変し、腐敗そのものを攻撃する代わりに、腐敗の原因たる「平信者の叙階権」にメスを入れ、断固、次のような爆弾的法令を発布した。「平信者から司教区や大修道院を授かった者は、これは司教または大修道院長と認めない。痛悔して、その司教区や大修道院を返さないかぎり破門される。なおだれかを司教やそれ以下の聖職に叙階する皇帝、国王、貴族およびその他の有力者も同じく処罰される。」
この教書に猛烈に反対したのはドイツ王ハインリッヒ四世だった。ドイツの王権が、現に国土の大半を領有していた司教たちに存存していたからである。強欲なハインリッヒは相変わらず自己に忠誠な臣下をかってに司教に叙階し、聖職者として適任か否かは問題にしなかった。
教皇はこれに忠告を発し、やめなければ破門に処すると言い送った。王ぱ機先を制し、一〇七五年、ウォルムスに不満の司教たちを召集し、グレゴリオ教皇の廃位を決議し、その決議文を教皇に送った。そこで教皇は、王と会議に出席した司教らを破門した。王はいよいよ怒り、ウトレヒトの司教に命じて説教壇の上から教皇打倒の演説をさせ、逆に破門の宣告を行なわせた。
それから二、三時間後、その司教座聖堂が落雷で全焼し、例の司教も急死した。人びとはこれを天罰と恐れ、王に離反したので、ハインリッヒはやむをえずドイツの諸侯会議に臨場の教皇をカノッサ城にたずね、痛悔者の服なつけ、三日もはだしで城の門前に立って罪の許しを願い、ようやく破門を解いてもらった。
しかし王は、教皇との約束を守らず、意中の人を各地の司教に任命した。教皇がまたも破門すると、ハイソリッヒは兵を率いてローマを占領し、聖天使城を包囲した。まもなく教皇はギスカルの援助で脱出に成功、サレルノに難を避け、その地で病死した。「叙階権」をめぐる聞争はその後も数十年続いたが、結局、教皇側の勝利に終わった。
『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
五月五日 聖ボニファチオ
「ほどこしをして罪を消し、貧しい者たちをあわれんで罪を消してください。」(ダニエル4の24)四世紀の殉教者聖ボニファチオは、はじめ罪の生活を送っていたが、のち右の聖書のことばどおり、善業や殉教でりっぱに自分の罪を償った。
四世紀、ローマにアグラエという裕福で美しい娘がいた。早く父母と死に別れた彼女は、独身のまま数百人の使用人にかこまれて、父母の残したばくだいな土地や建物などを管理していた。この使用人の中にボニファチオがいたのだった。堂々たる休躯、快活で万事に気転のきくところから彼女の気に入り、会計係りを勤めていた。
そのうち彼はアグラエのなれなれしさに誘われ.、越えてはならない一線をも越えて、金と暇とにまかせてずるずると酒色の泥沼の中に落ちていった。しかしそうしたボニファチオにも、貧者に慈悲深いという一つのとりえがあった。そしてアグラエの承諾をえて、貧者にお金や食べ物を恵んだり、旅びとを丁重にもてなしたりしていた。「あわれみのある人はしあわせである。かれらもあわれみを受けるであろうから。」たしかに慈悲はアグラエ、ボニファチオの両人を助けた。
当時東ローマ帝国では、ジオグレチアヌス帝の迫害(三〇四年)によって多くのキリスト教徒が虐殺されていた。アグラエは、これらの殉教者のおおしい最後を話に聞き、享楽におぼれたわが身に比べて恥しく、また死後の審判が恐ろしくなり、しだいに痛悔の情を起こすに至った。
そしてある日、思い切ってボニファチオに「今日かぎり、わたくしたちの関係をきっぱり断って正道に立ち帰りたいが、どうでしょうか」と相談した。ボニファチオもそう考えていたので、アグラエは「この決心を守り、罪の償いを果たすため、ここにあるお金、衣類、医薬を携えて迫害に苦しむ信者たちを見舞いに行き、帰りには殉教者の遺骨をもつてぎてください。わたくしは聖堂を建ててその遺骨を納め、祈りと善業によって罪ほろぼしをするつもりです」と言った。
ボニファチオは十二頭の馬に援助の品物を乗せ、部下二十人を従えて小アジアへと出発した。出発に際してアグラエに、「人の運命はどうなるものかわかりません。もしかしたら、わたくしが殉教して遺骨になって帰ってくるかもしれません」と冗談半分に言った。
アグラエは強くこれを否定したものの、のちにそのことばが実現するとは、だれも予測できなかった。ボニファチオ一行は河を渡り、山を越え、ようやく小アジアに着き、聖パウロの故郷タルソの町に宿泊した。まず町のようすを見に、ボニファチオはひとりでぶらぶら広場に出た。するとちょうど総督シンプリチオが兵士に命じてキリスト信者を慮殺しているところであった。情け深いボニファチオは黙って見ておれず、思わず「キリスト信者にこれほどの勇気を与えたもう神は賛美すべきかな!」と叫んで、殉教者のもとにはせ寄り、これを慰め励ました。
総督はこれを見とがめ、さっそく逮捕させて「おまえはどこの何という者だ」と尋ねた。ボニファチオは勇敢に身もとを明らかにし、キリスト信者であることを申しそえた。そのため鉄のかぎづめのあるむちで全身をたたかれたあげく、刀で切り殺された。
宿舎では部下がボニファチオの帰りを待ちわびていた。また例の不品行でも姶まったのだろうと思う者もいたが、あまりおそいので一同さがしに出たところ、広場ぎんしたいに彼の惨死体を発見した。
人びとから彼の殉教のありさまを聞き、大いに感動して、その遺骨をローマにもち帰った。アグラエは涙ながらに殉教者ボニファチオの遣骨をローマ近郊のわが所有地に葬り、のちその墓の上に聖堂を建てた。アグラエも熱心に信仰を守り、財産を貧者、病人に恵み、りっぱに罪の償いを果たして聖女となった。
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『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ
五月三日 使徒聖ヤコブと聖フィリッポ(祝日)二世紀
聖フィリッポは、キリストの最初の弟子の一人でした。キリストが荒野から帰り、洗者ヨハネが「見よ、神の子羊を」と言った翌日、キリストは使徒ヨハネとアンドレアに出会い、さらにその翌日、ペトロを自分の弟子にするために呼び寄せました。次の日、洗者ヨハネのところからガリラヤに向かおうとしたキリストは、アンドレアやペトロと同じくベトサイダの出身であったフィリッポに会い、「私について来るがよい」(ヨハネ1・43)とおおせになりました。フィリッポは、すぐキリストに従っただけでなく、信仰に燃えて、「眠約時代の預言者たちによって告げられた救い主に出会った」といって、友人ナタナエルをキリストのもとへ誘いました。
フィリッポについて福音書はわずかしか書いていません。一つは、群衆が食べものがなくて困っていた時、キリストは何をすべきか知っておられましたが、少し内気だったフィリッボに冗談半分にそれを尋ねられると、彼は真顔で、二百デナリオでは群衆のためのパンを買うこともできませんと答えました(ヨハネ6・5)。また枝の日曜日には、キリストに会いたがっていたギリシャ人から、ギリシャ語の名前をもっていたフィリッポにその紹介を頼まれましたが、内気な彼は一入ではできなくて、アンドレアとともにそのことをキリストに伝えたのでした(ヨハネ2・20)。しかし、最後の晩さんの説教で、キリストが『あなたたちはすでに父を見たのだ」と言われた時、彼はそれには納得せず、「御父を示してください」と言い、「私を見たものは父を見たのである。……私が父におり、父が私におられることを、あなたは信じないのか」(ヨハネ14・8)と、イエズスご自身の神性をはっきりお示しになるきっかけを作りました。
キリストご昇天後のフィリッポの活動については、ほとんど知るすべもありませんが、彼の二人の娘は一生貞潔を守って、かなり長生きしたことが、二世期頃の書物によって伝えられています。またフィリッポは、今のトルコ地方のフリージアで宣教して、そこで殉教したということです。
ヤコブは、ヨハネの兄弟のヤコブと区別するために小ヤコブと呼ばれていますが、その父はアルフェオ(マタイ10・3)、母はマリア・クレオファ(マタイ27・56、ヨハネ9・25、マルコ5・40)といい、福音書にはその名前だけが記されています。そのことから、キリストの「兄弟」,すなわちヘブライ語の言い方による親戚の間柄であったということだけがわかっています。しかし使徒行録によると、エルサレムの公会議(四八年頃)で、ヤコブはペトロとともに教会の主な人物であったということもわかっています"その公会議の最後の決定に,ヤコプの提案が裁決されています。これと一致することですが、キリスト教初期の著者によれば、ヤコブはエルサレムの司教となったことが記されています。彼が司教となった教会は、当然キリスト教が旧約時代のイスラエルの継続であることを主張したようです。
ヤコブの手紙には、旧約聖書、特に教訓書のことばや考えが非常に多く盛り込まれています。ヤコブはそれらの手紙の中で、パウロの「信仰による救い」に対して生じた、まちがった解釈を訂正しようとしたとも考えられます。ともかく愛のわざがない信仰は「死んでしまっ、た信仰である」と指摘しました(ヤコブ2・17)。
ヤコブによる信仰の定義は、ヤコブの性格からして抽象灼なものではなく、「困難に遭っているみなし子や、やもめ(その時代の弱いもの)を世話し、この世の汚れに染まらない」という具体的なものです(ヤコブ1・27)。舌による罪(ヤコブ3・2)や貧しい人を軽んじ金持ちを重んじるという弟別に対して(ヤコブ2・1)、ヤコブの厳しい注意はどんな時代でも価値を持つでしょう。また、「病者の塗油の秘跡」もヤコブの手紙にあらわれています(ヤコブ5・14)。
ヤコブはユダヤ教の信者たちの中で聖人の評判があったにもかかわらず、ユダヤの司祭長たちは、ローマの総督が在位していないことを利用して、彼に不当に死刑の判決を下し、エルサレムの神殿の高間から突き落とした上、石や棒で殴って殺したのでした(六二年)。
フィリッポが望んだように、私たちがこの使徒たちの取り次ぎによって神を仰ぎ見ることができるよう祈りましょう。
『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
五月二日 聖アタナジオ
教会は教会著述家のうち、特に学問にすぐれ、聖徳に輝く者を聖会博士として公認する。なかでもこの筆頭にしるさるべき者は「正統神学の父」と呼ばれる聖アタナジオである。彼はキリストが父なる神と同実体で、真の神であることを科学的に説明した最初の人である。
しかもこれに反対するアリオの異端を向こうにまわし、燃えるような信念をもつて、いかなる弾圧にも屈せず、四十五年間ペンと弁舌をもって健闘した。その間、四人の皇帝からローマとトリエルに二回、エジプトのさばくに三回、計五回も追放され、十七年間以上亡命の難にあった。
アタナジオは、二九四年工ジプトのアレクサンドリアの名家に生まれた。ギリシア人の両親はアタナジオが学齢期に達すると、司教館にあずげて一般学科や要理をみっちり勉強させた。二十歳のとき、エジプトのさばくのいんとん者をおとずれ、聖アントニオと出会い、数年のあいだ共に暮らし有益な話を聞いて克己と苦業の修練をした。そして二十六歳でアレクサンドリアの司教の助祭兼秘書をつとめた。
そのころ同じ町でアリオが異端説をとなえだした。すなわち、キリストは紳目でもふつうの人闇四でもなく、じつは両者の中間物にすぎない。したがっておん父とは同等ではなく、ただ世界創造のためにつくられた最も完全な被造物であり、神の意志とぴったり合った者であるーという。しかし、いかにすぐれた者でも被造物たる以上は、神に対する無限の侮辱(人間の罪)を完全に償いえない。それでアタナジオは司教の依頼に応じ、めんみつな論陣をしいて、この異端と対決した。父なる神と子たるキリストは本質的に同じ神であり、それはちょうど太陽から光線が出、知性から思想が生まれる関係に似ているーと説いた。
しかしアリオの異端は広まるばかりで、社会不安さえかもしだしたので、時のローマ皇帝コンスタンチノは政策上からも信仰の一致をはかるのが得策と考え、三百二十五年、ニケア(今のトルコ領)の避暑離宮に、第一回公会議を召集した。
この公会議には、教皇シルヴェステルの使節、近東の司教、司祭、平信者など三百名以上が参加した。コンスタンチノ大帝は参加者に信仰の一致をすすめたうえで開会を宣言し、「自分は傍聴者として議会はいっさい本公会議の首脳者にまかせる」と告げた。ところで、アリオはナイゼビオ派の司教十六人を味方に入れて、アタナジオと大論戦を交じえた。結局「長期にわたる評議とかずかずの論戦、縮密な検討」の結果、アタナジオの主張は大多数の司教たちの圧働的支持を受けた。このときに確定されたのが、今日ミサ中にとなえられる(ニケア〉使徒信経にほかならない。それは特にキリストの神性を強調し「よろず世のさきに父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれたまい、おん父と同実体にして、万物は彼によりて造られたり・・・」と言っている。この決議に従わなかつたアリオおよびその一味は破門されたうえに流刑に処せられ、その著書は火中に投ぜられた。
三二八年、アタナシオはアレクサンドリアの司教に叙階されると、ニケア公会議の決議に従って、さっそく教区内からアリオ派をしめ出しはじめた。しかし相手もさるもの、ローマ皇帝の側近にとりいって皇帝をそそのかし、アタナジオをわなにおとしいれようとかかった。皇帝はアリオ派のざんげんを信じて、ろくに調査もしないでアタナジオを免職追放した。
これ以来アタナジオは迫放五回、のべ十七年間の.断続的な亡命をしのばねばならなかった。この間に歴代皇帝の宗教政策は、二転三転と目まぐるしく変転するが、これは皇帝たちの教理に対する深い理解もなく、ただ聖会を、国家の統一を維持するためのご用宗教とみなし、ご都合主義によってこれを保護したり、弾圧したりしたことを物語っている。
しかし、真理は常に勝利をおさめる。三六六年、ワレンス帝は世論に反対しぎれず、アタナジオの追放を解除しアレクサンドリア市に呼び戻した、市民はさながらがいせん将軍を迎えるように、盛んな歓呼の声をもってアタナジオを出迎えた。こうしてアタナジオはようやく平和な生活を取り戻し、余生の九年間よく教区を治め、亡命中から続けていた聖書や神学に関する著述を完成し、三七三年この世を去った。
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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
四月二十九日 シエナの聖カタリナ
十四世紀、イタリアは、教臭党と反教皇党との対立によるはてしない内乱、ペストの流行、教皇のローマからの流謫などで最大の難局に直面していた。こうした混乱の中に「神は知恵者を恥ずかしめるため世の愚かな者を選び、強い老を恥ずかしめるために世の弱い者を選ばれた」(コリント前1の27)。それが染物屋のかよわい女性、シエナの聖カタリナにほかならない。
一三四七年の春、イタリアはシエナのサン・ドミニコ教会の土手にはもう、白い小さなひなぎくが咲いていた。主の復活と聖母のお告げの祝日を祝う三月二十五日、いち染物屋に女の子が生まれた。父の名はジャコモ・ベニンカーサといい、おとなしい信心深い男だった。
母のピアジェンティは、うるさい働ぎもの。かなりの財産家だったので二十三人の子どもたちにそれぞれ知徳両面のじゅうぶんな教育を授げた。なかでも末っ子のカタリナはかわいらしい快活な子だったので、みんなからオイフ・シネ(快活)という愛称で呼ばれ、子どもたちの中でも特に愛されてすくすくと育った。
けいけんな彼女は自分の家の近くにあった聖ドミニコ会修道院の修道女の生活を見るにつけ、幼な心にその修道生活にあこがれをいだくようになった。そのうちカタリナは聴罪司祭のすすめもあって、一生を神にささげようという堅い決心から自発的に美しい髪を切ってべールをかぶった。父母はこの美しい娘を結婚させようとしていたやさきだげに、これを知ってかんかんに悠り、こらしめのために彼女を寒の雑用にこき使った。カタリナはこのしうちを恨まず、イエズスと聖母のみこころに合わせて黙々と日々の儀牲を神にささげるのであった。
かくれたことをすべて見ておられる神は、高い者を低くし卑しい者を高くしたもう。カタリナにもやがてその時機が到来した。ある日、カタリナが一室にこもって熱心に祈っていたとき、父親は娘の頭の上に白いはとがとまっているのを見た。これ以来両親も娘の使命を悟ってその望みに反対しなくなったという。その後、彼女は在俗のままで聖ドミニコの精神にならい、福音のすすめを実行し、入びとの救霊のためにも働こうと決心した。まずその準備として三年のあいだ 室に閉じこもり、祈りと苦業の順罪生活を始めた。ぶどう酒や肉食を断ち、少しのパンと粗末な野菜で満足した。また二、三枚の板を枕に着衣のままやすんだ。
そのころ、カタリナは今までかつて経験したことのない汚らわしい想像や考えに日夜悩まされるようになった。ある日、例のように激しい誘惑に襲われて思わず「ああ主よ、主はわたくしなこの悩みの中に見捨てて、どこにおいでになるのでしょう」と叫ぶと、主は「おまえの心の中に」と答えられた。「でもわたしの心はこんなにきたない思いでいっぱいですのに。」「しかしおまえは、そのような思いを楽しんでいるだろうか。」「いいえ、心の底から憎んでおります。」「それこそ、わたしがおまえの心にとどまつているという証拠である。」カタリナはこれに勇気を得て、以後どんな試練にも徴動だにしなかった。
この三年の修業を終えて十八歳を迎えたとき、いよいよ念願がかなって聖ドミニコ会の第三会員となり、家事を手伝いながら暇をみては貧者や病人を見舞ってできるだけの援助をした。ことに一三七四年、イタリア全土にペストが流行したときなど二十人の同志の先頭に立って献身的に患者の看護にあたった。しかし苦労の多いわりに大して感謝されないばかりか、気むつかしい患者からぶつぶついわれることが多かった。また臭気ぷんぷん鼻をつくような老婆を見舞ったときなど、逃げ出したい思いにかられたが、これをぐっとおさえ「どうしてキリストの御血にあがなわれた人をきらうのか」と、自分自身に言い聞かせて特別親切にその患者を介抱したという"ある日イエズスは片手にいばらの冠を、片手に黄金の冠を携えて彼女にお現われになり、「どちらを選ぶか」と聞かれた。カタリナはすぐさま「わたくしはいばらの冠をいただぎます」と答え、キリストにならってすべての困難を喜んで引き受ける覚悟をきめた。
まもなく彼女の徳行は夜空にまたたく星のように輝き、多くの迷える人びとに光と慰めを与えた。また聖霊の導きのままに、あるいは手紙や著書をもって、あるいは各界の知名人をたずねては、教会と国家のあいだの困難な問題について有益な助晋を与えた。また諸都市間の平和条約に、グレゴリオ十一世教皇のアヴィニオンからローマへの帰還に、聖職者の改革に、欧州の大離教に際してはローマのウルバノ六世教皇の首位権確保に平和の使節として東奔西走。「神に光栄が帰せられ、霊魂が救われるならば苦しみと罰が私の上にふりかかりますように!」と人類共同体のために働いた。
こうした荒波の時代に聖会という箱船を双肩にになってきた彼女は、その重みにたえかねてか、ついにローマで倒れた。かろうじて終油の秘跡を受け、「ああ主よ、わが魂をみ手にまかせ奉る」の一句を残して、その潔白な魂は一三八〇年、三十二歳で永遠の故郷に帰っていった。
『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
四月二十六日 聖グリニオン・ド・モンフォール
(英知修道女会の創立者)
「わたしはよい牧者で、よい牧者は羊のために命をあたえる。」(ヨハネ10の11)聖グリニォンの生涯は右の福音の生ぎ写しであった。「よい牧者」として人びとのためにたえまなく祈り、勉強し、一般の冷遇を忍耐しながら、典礼をもって、人びとの信仰の熱をあおった。また、聖体、十字架、聖母に特別の信心をつくし、説教、賛美歌、著書などでこれらの信心を広めた。
聖グリニオン・ド・モンフォールは、一六七三年、フランス北西部ブルターニュのモンフォール町に生まれた。けいけんな徳の高い両親に育てられ、のち土地のイエズス会の学校に学んだ。品行、学業共に優秀だったので、学年末ごとに褒彰された。
哲学を終了してパリのサン・スルピス神学校に入学したが、そのすぐれた徳行はたちまち学生の模範となった。司祭に叙階されると、彼は海外布教を志望し、カナダへ出発しようとした。ときの教皇クレメンスのすすめに従い、ヤンセニストの異端すなわち、キリストは全人類のために死ななかったとか、人間は神のおきてを全部果たすためにじゅうぶんな恩恵を与えられていないし、内的恩恵に抵抗することもできないとか主張する誤った説を反ばくしながら、フランス西部地方のいなかを巡回布教した。
「わたしはよい牧者で、わたしの羊を知っている」と聖書にあるとおり、グリニオンは受け侍ちの信者の気質、傾き、志望、困難、誘惑などを知り、これを導き、助け、慰め、励ましていた。黙想会などのとぎ、ひとりでもこれに参加しない信者があれば、さっそく自分でその家をたずね、説得してこれを教会に連れ帰ってきた。
グリニオンは好んで人生の目的、罪、死、審判、天国、地獄などの大真理をはじめ、信心生活の根源である聖体、十字架、聖母に対する信心について語った。ひんぱんな聖体拝領は霊的ぜいたくだという厳格なヤンセニストに対し、彼はしばしばの聖体拝領をすすめ、聖体に親しみ、これを崇敬するため数多くの賛美歌をつくった。その一つに「ああ、わが心は御身をあえぎ望む、主よ、いずれのときにか、われに臨みたもう。御身いまさずしては、わが心はさびしさにたえず。来たりたまえ、わが最愛なる魂の浄配よ」とある。
グリニオンは十字架を愛して、いつも胸にかけ、各家庭にもこれを飾るようにすすめていた。黙想会が終わると、その記念として野外の丘や八通りの多い町かどに十字架を立てさぜた「悩める者よ、なんじの避難所はここにあり。もろびとよ来たれかし、来たりて神のつぎざる宝をここに得よ。とこしえにイエズスに栄えあれ。またその十字架にほまれあれ」とは、グリニオンのつくった十字架称賛の一節である。
また、聖母をあつく信心したグリニオンは、ロザリオの祈りを奨励し、イエズスに至るにば聖母を経て行くのがいちばん近道であることを教えた。「イエズスの怒りをなだめるためには聖母の取次ぎにすがるのが最もよい。聖母のたもとにかくれて『見よ、なんじの母を』と叫べば、イエズスの御怒りはすぐにもなごむ」と彼は歌っている。
そのうえグリニオンは「聖母に対する真の信心」「聖母の秘密」などの名著を著わして聖母の信心を広めた。
しかしこのような布教は当時としては革新的であったため、すぐにこれを聖会の精神にもとる運動であるかのように非難した者がいた。のみならず彼を聖務執行禁止の懲戒処分に付した教区もあったくらいである。
こうした人びとのざんげん、脅迫などにくじけず、かえって彼は「み名のためにはずかしめられるのに足る者とされたことを喜びつつ」〔使徒行5の41〕布教に専念した。
また彼は自分の事業を永続させるために宣教を目的としたマリア宣教会と貧困救済を目ざす英知の童貞会を創立し、一七一六年、四十三歳の働き盛りで帰天した。
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Saint Of The Day (April 25 )
St. Mark the Evangelist
Prof. Plinio Corrêa de Oliveira
The Evangelist St. Mark was from the tribe of Levi. He was baptized by St. Peter and instructed by him in the Christian Faith. He followed Peter to Rome and would preach the Gospel in this city with him. The faithful asked St. Mark to write the life of Our Lord according to the accounts of St. Peter. So Mark wrote the narrative based on what he had heard from Peter. The latter, after examining Mark’s work, testified that it was perfectly exact and approved it to be read by all the faithful.
Later, St. Peter sent St. Mark to Alexandria, where he was the first to preach the Word of God. According to Simon, an old Jew who witnessed the labors of Mark in that city, an enormous multitude converted there as a consequence of the apostolate of St. Mark.
St. Peter Damian wrote that God gave St. Mark a special grace by which all the people he converted in Alexandria took up monastic customs. He inspired them to this by his miracles and the example of his virtues. After his death, his relics were sent back to Italy, so the land where he wrote his Gospel had the honor of preserving his body.
St. Peter consecrated him Bishop of Alexandria. In this city the zeal of St. Mark attracted the hatred of the priests of the false gods. On Easter in the year 68 AD, they seized him while he said Mass, and tied a rope around his neck. Then they dragged him through the city like an animal to slaughter. His body was lacerated by the rough rocky surface and his blood stained the roads.
In the prison where they threw him, he was consoled by an Angel. Then Our Lord deigned to visit him and told him: “Peace be with you, O Mark, My Disciple and My Evangelist. Fear nothing because I am near you.”
The next day the pagan priests again placed a rope around his neck and dragged him through the streets of the city. This time his strength gave out and he died, saying: “Into Thy hands I commend my spirit.”
The air became turbulent, and lighting and thunder broke through the sky. His assailants, who had planned to burn his body, all fled. Thus, Mark’s disciples were able to collect and piously bury his remains.
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『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
四月二十五日 聖マルコ
「友は堅固な城のようなものである。」(格言18の19)真の友同志が同じ目的のために堅く団結した組織ほど物心両面において多大の効果を収めうる。マルコはマリアとよばれるその母とともに使徒たちのよぎ協力者であった。マルコはペトロの説教を材料に福音書を書いて布教の効果をあげたり、パウロの布教伝道の手伝いをしたりした。母マリアは迫害中にも使徒たちを自分の家にかくまって(使徒行12の12)衣食住の世話をした。
マルコは、主キリストの時代にユダヤに生まれた。幼児のころ父に死別し、信心ぶかい母マリアの手に育てられた。
その広い邸宅は、使徒たちやエルサレムの信者の集会所にあてられ、そこで祈りやミサ聖祭が行なわれた。
ペトロは天使から奇跡的に牢獄より救い出されると、まっすぐこの家をたずね、しばらくここで休んだのち、ひそかにローマへ脱出した。
マルコはこのような環境の中でよく勉強し数か国語を習得して聖霊の降臨後は使徒たちを手伝って福音を宣伝した。頭がよいうえに、心もあたたかかったので使徒たちに愛された。しかし精力旺盛なパウロは第一回伝道旅行の経験から、若いマルコにまだ困難な使徒職に対する確固たる信念と鉄のような意志力がたりないとみてとり、第二回目にはマルコを連れて行ぎたくなかった。マルコのいとこにあたるバルナバは、かさねてマルコのことを頼んでみたが、結局話は物別れとなり、別々の道をとることになった。パウロとシラといっしょにシリア、シリシア(今のトルコ領)に伝道し、バルナバはマルコをともなってキプロス島に布教した。.
この間にバルナバは膜範を示しながら忍耐強く親切にマルコを導き、筋金のはいった一流の布教者に鍛えあげた。そのためにこの若いマルコは、のちになってペトロの片うでとして活躍し、小アジアの信者に書き送った手紙の終わりに、(ペトロ前 5の13)”わが子"としるされるほどの名声を得た。またパウロもマルコを見なおし、ローマで共に働いてから、手紙でコロサイ人にマルコを紹介し、「かれがあなたたちの所に行くときにはよろこび迎えよ」(コロサイ4の10)とすすめた。
それから数年して、パウロの死刑判決が迫ったころ、パウロはまなでしチモテオにマルコを連れてくるように頼んだ。「かれは奉仕のため.にわたしの役にたつからである」(チモテオ後4の11)と書いているとおり、パウロは死ぬまえにもう一度マルコに会って自分の遺志を伝えたかったのであろう。
マルコはキプロス島の伝道旅行を終えてから、ペトロを慕ってローマに行ぎ教会の発展に尽くした。またローマの信者たちのに応じ、おもにぺトロが目で見、耳で聞いたところの主のみことばや行ないを霊感に導かれつつ一冊の本にまとめた。これがいわゆるマルコ聖福音書である。
本書の目的は異教徒にまじって生活するローマの新しい信者にキリストが人となりたもうた神であることを、キリストの行なった奇跡の面から説明し、そのうえ、かれらの布教熱を高め、これを指導することにあった。
これはマテオやルカの聖福音書に比べて内容は少ないが、たくさんの奇跡の記事が時間、場所、細かい情景を含めて、生き生きとわかりやすく描かれてあるので、一般大衆にもよろこんで読まれた。
六七年、ローマ皇帝ネロの迫害でパウロとぺトロが殉教したあと、ローマを去ってエジプトのアレクサソドリア市へ行った。同市はそのころ、世界屈指の貿妨港として経済的にも文化的にも大いに繁栄していたが、その反面市民は流行思想にわずらわされて、ぜいたくに流れ、歓楽を求めて、その道徳は低下していた。
このような環境の中で、マルコは最初から大きな壁にぶつかったが、これにひるまず清い生活の手本を示す一方、柔和な美徳で人びとをひきつけて、しだいにこれを感化していった。改宗した信者たちはエルサレムの信者のように、一心一魂となり、その持ち物を共有にして互いに助け合い、毎日集まっていっしょに祈ったり、聖体を拝領したりした。その中から有名な砂漠の隠修士を多く出したことからも、その信仰の強さがうかがわれる。
こうして改宗者の数がみるみるうちにふえだすと、世間の耳目を集め、例のように反対者のうらみを買うことになった。セラピスという偶像の祭日、マルコは異教徒の手に捕われ、町じゅうを引き回されたあげく、ついにキリストの血ぞめの証人となった。
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Saint Of The Day (April 24 )
St. Fidelis of Sigmaringen
Fidelis was born of a good family called Rey at Sigmaringen in Swabia, and gained a famous name for himself in legal work. But when experience showed him its dangers, he abandoned it and, enlightened by a call from Heaven, asked to be admitted among the Capuchins. When he had taken his vows, he was an inspiration and example to all by his observance of the rule and zealously promoted the cult of the Virgin Mother of God and of the Rosary.
He asked God that he might die as a martyr for the Catholic Faith, and this was granted him. For he was appointed leader of the missions which the Congregation for the Propagation of the Faith had established at this time for the Grisons and, since he spared himself no toil and converted many heretics to Christ, he incurred the hatred of evil men. So, on the 24th of April in the year 1622, at a church in a place called Sewis, he was struck down with blows and wounds by some heretics who had deceitfully invited him to meet them, pretending to be converts. And thus he consecrated with his own blood the first-fruits of the Martyrs of the Congregation for the Propagation of the Faith.
Taken from The Hours of the Divine Office in English and Latin, Vol. II: Passion Sunday to August (Collegeville, Minnesota: The Liturgical Press, 1963), pp. 1748-1749.
Saint Of The Day (April 24 )
St. Fidelis of Sigmaringen
Prof. Plinio Corrêa de Oliveira
Mark Rey was born in 1577 at Sigmaringen, Prussia. His father Johannes Rey was burgomaster of the city. He entered the University of Freiburg in Breisgau to study law and philosophy. After receiving his degree, he was chosen to be tutor to three young princes with whom he traveled in France and Italy.
In 1611, he returned to Freiburg to earn his doctorate in canon and civil law, and then began practice as a lawyer in Kolmar. Disappointed with the open fraud in the law courts and general corruption of society, he decided to abandon the world. He was ordained a priest the following year, and immediately after was received into the Capuchin Order at Freiburg at age 35. He took the name of Fidelis.
In notes that he left about his life during that period, he wrote: “From now on I want to live in complete poverty, chastity, and obedience amidst sufferings and persecutions and in austere penance and profound humility. I came from the womb of my mother with nothing, and with nothing I desire to return to the arms of my Savior.”
St. Fidelis was a remarkable orator. He preached in numerous German, Austrian and Swiss cities. From the beginning of his apostolic career, he struggled tirelessly to convert heretics; nor did he confine his efforts to the pulpit, but also used his pen. He wrote many pamphlets against Calvinism and Zwinglianism.
He was named Superior first at the Monasteries of Rheinfelden and Freiburg, and afterwards at Feldkirch, where he exerted a strong influence. Because of this, he was also appointed by the Papal Nuncio to reform monasteries of other Orders.
Since Calvinism was spreading over Switzerland, especially in the region of the Grisons, the Congregation for the Propagation of the Faith appointed the Capuchins to combat it there. Fr. Fidelis was chosen to be head of the mission.
“Shortly you will see me no longer,” he prophesied in a sermon in Feldkirch, “for I was called to shed my blood for the Faith.”
St. Fidelis labored indefatigably and with such success in the region that the heretics became alarmed and set themselves to inflame the people against him. They spread rumors that his mission was political rather than religious, and that he was preparing the way for the subjugation of the country by Austria.
In January 1622 on returning to the region of the Grisons, he was met everywhere with the cry: "Death to the Capuchins!" On April 24, 1622, being then at Grusch, he made his confession and afterwards celebrated Mass and preached. Then he set out for Sevis. When he arrived, he entered the church and began to preach, but was interrupted by a sudden tumult both within and without the church. Several Austrian soldiers who were guarding the doors of the church were killed by the attackers and Fidelis himself was struck.
Outside the church he was surrounded by a crowd led by Calvinist preachers who offered to save his life if he would apostatize. Fidelis replied: "I came to extirpate your heresy, not to embrace it." The Calvinists killed him with blows of swords.