『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
五月二日 聖アタナジオ
教会は教会著述家のうち、特に学問にすぐれ、聖徳に輝く者を聖会博士として公認する。なかでもこの筆頭にしるさるべき者は「正統神学の父」と呼ばれる聖アタナジオである。彼はキリストが父なる神と同実体で、真の神であることを科学的に説明した最初の人である。
しかもこれに反対するアリオの異端を向こうにまわし、燃えるような信念をもつて、いかなる弾圧にも屈せず、四十五年間ペンと弁舌をもって健闘した。その間、四人の皇帝からローマとトリエルに二回、エジプトのさばくに三回、計五回も追放され、十七年間以上亡命の難にあった。
アタナジオは、二九四年工ジプトのアレクサンドリアの名家に生まれた。ギリシア人の両親はアタナジオが学齢期に達すると、司教館にあずげて一般学科や要理をみっちり勉強させた。二十歳のとき、エジプトのさばくのいんとん者をおとずれ、聖アントニオと出会い、数年のあいだ共に暮らし有益な話を聞いて克己と苦業の修練をした。そして二十六歳でアレクサンドリアの司教の助祭兼秘書をつとめた。
そのころ同じ町でアリオが異端説をとなえだした。すなわち、キリストは紳目でもふつうの人闇四でもなく、じつは両者の中間物にすぎない。したがっておん父とは同等ではなく、ただ世界創造のためにつくられた最も完全な被造物であり、神の意志とぴったり合った者であるーという。しかし、いかにすぐれた者でも被造物たる以上は、神に対する無限の侮辱(人間の罪)を完全に償いえない。それでアタナジオは司教の依頼に応じ、めんみつな論陣をしいて、この異端と対決した。父なる神と子たるキリストは本質的に同じ神であり、それはちょうど太陽から光線が出、知性から思想が生まれる関係に似ているーと説いた。
しかしアリオの異端は広まるばかりで、社会不安さえかもしだしたので、時のローマ皇帝コンスタンチノは政策上からも信仰の一致をはかるのが得策と考え、三百二十五年、ニケア(今のトルコ領)の避暑離宮に、第一回公会議を召集した。
この公会議には、教皇シルヴェステルの使節、近東の司教、司祭、平信者など三百名以上が参加した。コンスタンチノ大帝は参加者に信仰の一致をすすめたうえで開会を宣言し、「自分は傍聴者として議会はいっさい本公会議の首脳者にまかせる」と告げた。ところで、アリオはナイゼビオ派の司教十六人を味方に入れて、アタナジオと大論戦を交じえた。結局「長期にわたる評議とかずかずの論戦、縮密な検討」の結果、アタナジオの主張は大多数の司教たちの圧働的支持を受けた。このときに確定されたのが、今日ミサ中にとなえられる(ニケア〉使徒信経にほかならない。それは特にキリストの神性を強調し「よろず世のさきに父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれたまい、おん父と同実体にして、万物は彼によりて造られたり・・・」と言っている。この決議に従わなかつたアリオおよびその一味は破門されたうえに流刑に処せられ、その著書は火中に投ぜられた。
三二八年、アタナシオはアレクサンドリアの司教に叙階されると、ニケア公会議の決議に従って、さっそく教区内からアリオ派をしめ出しはじめた。しかし相手もさるもの、ローマ皇帝の側近にとりいって皇帝をそそのかし、アタナジオをわなにおとしいれようとかかった。皇帝はアリオ派のざんげんを信じて、ろくに調査もしないでアタナジオを免職追放した。
これ以来アタナジオは迫放五回、のべ十七年間の.断続的な亡命をしのばねばならなかった。この間に歴代皇帝の宗教政策は、二転三転と目まぐるしく変転するが、これは皇帝たちの教理に対する深い理解もなく、ただ聖会を、国家の統一を維持するためのご用宗教とみなし、ご都合主義によってこれを保護したり、弾圧したりしたことを物語っている。
しかし、真理は常に勝利をおさめる。三六六年、ワレンス帝は世論に反対しぎれず、アタナジオの追放を解除しアレクサンドリア市に呼び戻した、市民はさながらがいせん将軍を迎えるように、盛んな歓呼の声をもってアタナジオを出迎えた。こうしてアタナジオはようやく平和な生活を取り戻し、余生の九年間よく教区を治め、亡命中から続けていた聖書や神学に関する著述を完成し、三七三年この世を去った。
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