『ミサの前に読む聖人伝』C・バリョヌェボ著、サンパウロ
五月三日 使徒聖ヤコブと聖フィリッポ(祝日)二世紀
聖フィリッポは、キリストの最初の弟子の一人でした。キリストが荒野から帰り、洗者ヨハネが「見よ、神の子羊を」と言った翌日、キリストは使徒ヨハネとアンドレアに出会い、さらにその翌日、ペトロを自分の弟子にするために呼び寄せました。次の日、洗者ヨハネのところからガリラヤに向かおうとしたキリストは、アンドレアやペトロと同じくベトサイダの出身であったフィリッポに会い、「私について来るがよい」(ヨハネ1・43)とおおせになりました。フィリッポは、すぐキリストに従っただけでなく、信仰に燃えて、「眠約時代の預言者たちによって告げられた救い主に出会った」といって、友人ナタナエルをキリストのもとへ誘いました。
フィリッポについて福音書はわずかしか書いていません。一つは、群衆が食べものがなくて困っていた時、キリストは何をすべきか知っておられましたが、少し内気だったフィリッボに冗談半分にそれを尋ねられると、彼は真顔で、二百デナリオでは群衆のためのパンを買うこともできませんと答えました(ヨハネ6・5)。また枝の日曜日には、キリストに会いたがっていたギリシャ人から、ギリシャ語の名前をもっていたフィリッポにその紹介を頼まれましたが、内気な彼は一入ではできなくて、アンドレアとともにそのことをキリストに伝えたのでした(ヨハネ2・20)。しかし、最後の晩さんの説教で、キリストが『あなたたちはすでに父を見たのだ」と言われた時、彼はそれには納得せず、「御父を示してください」と言い、「私を見たものは父を見たのである。……私が父におり、父が私におられることを、あなたは信じないのか」(ヨハネ14・8)と、イエズスご自身の神性をはっきりお示しになるきっかけを作りました。
キリストご昇天後のフィリッポの活動については、ほとんど知るすべもありませんが、彼の二人の娘は一生貞潔を守って、かなり長生きしたことが、二世期頃の書物によって伝えられています。またフィリッポは、今のトルコ地方のフリージアで宣教して、そこで殉教したということです。
ヤコブは、ヨハネの兄弟のヤコブと区別するために小ヤコブと呼ばれていますが、その父はアルフェオ(マタイ10・3)、母はマリア・クレオファ(マタイ27・56、ヨハネ9・25、マルコ5・40)といい、福音書にはその名前だけが記されています。そのことから、キリストの「兄弟」,すなわちヘブライ語の言い方による親戚の間柄であったということだけがわかっています。しかし使徒行録によると、エルサレムの公会議(四八年頃)で、ヤコブはペトロとともに教会の主な人物であったということもわかっています"その公会議の最後の決定に,ヤコプの提案が裁決されています。これと一致することですが、キリスト教初期の著者によれば、ヤコブはエルサレムの司教となったことが記されています。彼が司教となった教会は、当然キリスト教が旧約時代のイスラエルの継続であることを主張したようです。
ヤコブの手紙には、旧約聖書、特に教訓書のことばや考えが非常に多く盛り込まれています。ヤコブはそれらの手紙の中で、パウロの「信仰による救い」に対して生じた、まちがった解釈を訂正しようとしたとも考えられます。ともかく愛のわざがない信仰は「死んでしまっ、た信仰である」と指摘しました(ヤコブ2・17)。
ヤコブによる信仰の定義は、ヤコブの性格からして抽象灼なものではなく、「困難に遭っているみなし子や、やもめ(その時代の弱いもの)を世話し、この世の汚れに染まらない」という具体的なものです(ヤコブ1・27)。舌による罪(ヤコブ3・2)や貧しい人を軽んじ金持ちを重んじるという弟別に対して(ヤコブ2・1)、ヤコブの厳しい注意はどんな時代でも価値を持つでしょう。また、「病者の塗油の秘跡」もヤコブの手紙にあらわれています(ヤコブ5・14)。
ヤコブはユダヤ教の信者たちの中で聖人の評判があったにもかかわらず、ユダヤの司祭長たちは、ローマの総督が在位していないことを利用して、彼に不当に死刑の判決を下し、エルサレムの神殿の高間から突き落とした上、石や棒で殴って殺したのでした(六二年)。
フィリッポが望んだように、私たちがこの使徒たちの取り次ぎによって神を仰ぎ見ることができるよう祈りましょう。