『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

五月七日 教皇グレゴリオ七世

 十一世紀の教会は、現世的な諸利害の渦巻に巻き込まれ、あわや難船の危機に臨んでいた。外からは王侯貴族の圧迫、内からは聖職売買、平信者による司教叙階、司祭の妻帯などが神聖な教会制度をその根底からゆさぶっていた。この難局に当たって、神は「あなたはぺトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよ。地獄の門はこれに勝てないだろう」(マタイ6:13)という約束どおり、史上最大の人物のひとりとみなされる教皇グレゴリオ七世なペトロの後継者に選びたもうた。

 彼は一〇二〇年、イタリア北部のサヴォナに貧しい大工の子として生まれた。しかし幸いに主任司祭から英才を認められ、そのあっせんで少年のころ、ローマにある聖マリア・アヴェンチナの修道院に寄宿し、ヨハネ・グラチアヌスの手によって教育された。一〇四五年、恩師グラチアヌスが選ばれてグレゴリオ六世になると、グレゴリオも抜擢されて彼のもとで働くように加った。翌年同教皇がなくなると、グレゴリオはフランスの有名なクルニー修道院にひきこもって一身の修養に励んだ。一〇四九年、教皇レオ七世の招きにより、グレゴリオは教会行政のために働くことになり、以来、五代の教皇に仕え、枢機卿として教会内都の改革に敏腕をふるった。その間に、フランスおよびドイツの教皇使節、ローマ教会の助祭長などの重職をもりっぱに果たした。

 一〇七二年、教皇アレクサンデルニ世がなくなると、グレゴリオは満場一致で教皇に選ばれた。ただちに歴代教皇の取締まり令をいっそうきびくしたところ、各方面から猛烈な反対にあい、マインツの教会会議でも「もし教皇が地方教会を治めるのに人間だけで足りなければ天使でも引っぱり出せばよかろう」とつぶやく者もあり、失敗に終わった。

 そこで教皇は戦略を一変し、腐敗そのものを攻撃する代わりに、腐敗の原因たる「平信者の叙階権」にメスを入れ、断固、次のような爆弾的法令を発布した。「平信者から司教区や大修道院を授かった者は、これは司教または大修道院長と認めない。痛悔して、その司教区や大修道院を返さないかぎり破門される。なおだれかを司教やそれ以下の聖職に叙階する皇帝、国王、貴族およびその他の有力者も同じく処罰される。」

 この教書に猛烈に反対したのはドイツ王ハインリッヒ四世だった。ドイツの王権が、現に国土の大半を領有していた司教たちに存存していたからである。強欲なハインリッヒは相変わらず自己に忠誠な臣下をかってに司教に叙階し、聖職者として適任か否かは問題にしなかった。

 教皇はこれに忠告を発し、やめなければ破門に処すると言い送った。王ぱ機先を制し、一〇七五年、ウォルムスに不満の司教たちを召集し、グレゴリオ教皇の廃位を決議し、その決議文を教皇に送った。そこで教皇は、王と会議に出席した司教らを破門した。王はいよいよ怒り、ウトレヒトの司教に命じて説教壇の上から教皇打倒の演説をさせ、逆に破門の宣告を行なわせた。

 それから二、三時間後、その司教座聖堂が落雷で全焼し、例の司教も急死した。人びとはこれを天罰と恐れ、王に離反したので、ハインリッヒはやむをえずドイツの諸侯会議に臨場の教皇をカノッサ城にたずね、痛悔者の服なつけ、三日もはだしで城の門前に立って罪の許しを願い、ようやく破門を解いてもらった。

 しかし王は、教皇との約束を守らず、意中の人を各地の司教に任命した。教皇がまたも破門すると、ハイソリッヒは兵を率いてローマを占領し、聖天使城を包囲した。まもなく教皇はギスカルの援助で脱出に成功、サレルノに難を避け、その地で病死した。「叙階権」をめぐる聞争はその後も数十年続いたが、結局、教皇側の勝利に終わった。


 

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