$Sherry Museum館長[中瀬航也]のオフィシャル・ブログ-bodeguera
(サンチェス・ロマテ社にて)

「樽」というものは、
起源前3000年に既にケルトが持っていたなどと云われるが、

少なくとも、如何なる民族でも狩猟から農耕へと変化し、
人と物が集まれば、なにがしの容器が必要になる。

もちろんそれは初期には木を削ったものや陶器として現れるわけだが、
基本、人間というものは河川や、
それが流れ着く海の近くにコミュニティーを形成する。

となると、必然的に「船」という物が必要になってくる訳で、
船を造る技術は、すなわち木の加工技術に、
やがて、まずは物を入れるという意味においての「樽」を生み出す。

それが、長距離輸送が可能な
密閉度の高い樽として誕生したのがいつかは定かではないが、
少なくとも、その代わりとしてずっと用いられてきたアンフォラが
造られなくなり始めた起源前3世紀頃には、
ただの桶としての樽ではなく、いわゆる両端を閉じた、
密封度の高い「樽」が出現していたとされている。

洋酒界の知の巨人であるアンド・レシモンの著作
「イングランドにおけるワイン貿易史:1964」によれば、
12世紀初頭にはフランスとワイン(樽入り)での取引*が行われており、
13世紀末にはシェリー樽を表すのに用いられるButtという言葉が登場**、
14世紀には、早くも「樽工組合」が誕生している。
*外洋での長距離間取引として重要。
**注:あくまでも言葉・Butt=Sherry Buttではない。

もちろん密封度の高い樽は需要が多く、
ワインやビール、蒸留酒など酒業界の需要は勿論のこと、
酒以上に重要な塩や油の他、
保存用の魚、酢に蜂蜜、洗剤業社などが樽を求めた。

そしていつの時代もだが、交易品には税金がかけられ易く、
国や行政としては、その樽のあまりの単位の違いに苦慮することとなる…

そんな中、
15世紀前半の英国内ではホグスヘッドを約250ℓと定め、

15世紀後半のスペインではシェリーに用いられる最も流通した樽には
一種の国際規格として30@(16.66ℓx30=500ℓ)という単位が設けられた。

一方、スペインではコロンブス以降の新大陸との交易で、
セヴィリアと、その河口町であるサンルーカル近郊が交易の拠点となり、
必然的に造船業が発達。(比例してシェリーの需要も急増!)

次第にバラスト(重り)として持ち帰られたアメリカ大陸の、
豊富(安価)で、丈夫(目の詰まった)木材を用いることで、
ネーデルランドやイングランドに負けることなく造船を行い、
その副産物的技術で、今まで以上の製樽技術を得ることとなった。

後に、海賊ドレークが無敵艦隊用に用意されていた樽を奪った頃には、
シェリー樽はもはや、今とさほどかわらない形になっていたと考えられる。

一方、後にシェリー樽の存在が重要になるスコットランドでは
宗教的解釈*から大々的に、
かつ儲けを目的として造るのを許されていなかった蒸留酒は、
当初は公には修道士等によってのみ造られていた。
*これに関してはいずれ。

それが、対岸でまさに宗教改革が起こりそうな16世紀初頭、
スコットランドではジェームスIVが外科医に蒸留許可を下し、
スコッチ・ウイスキーの原型となる物がそのきっかけを得た。

興味深い事に、ほぼ同じ時代に
イングランドではヘンリーVIIIの登場とその破門以降、
フランスではルイーXIIと、その後を継いだフランソワIの製造許可によって、
またネーデルランドにおいても多くの職人らによって、
相次いでその製造をタブー視されていた蒸留酒がお目見えする様になる…

そしてここに、
シェリーを飲むイングランド・スコットランド文化と、
後にスコッチ・ウイスキーとして知られる蒸留酒の両者が
揃ったのである…

シェリー樽に詰められたウイスキーの誕生まで
もう間もなくである…

つづく…

補足:イングランドやスコットランドでの
シェリー(ヘレス産ワイン)の需要は、
英仏間の「百年戦争」(1337-1453)以後、顕著に。
最中に書かれた「カンタベリー物語:1387」にも
それらしきものが登場する他、戦後の15世紀後半には
早速ブリストルでの11tのシェリーSack取引記録もある。
つまり、16世紀にはイングランドでのシェリーは
もはやポピュラーな物になっていた。

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シェリー樽とは?:基礎編(一般向け)

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