我が市は「CITY-HALL」、されど県の見方は所詮「CITY-OFFICE」でしょ?。。。 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

我が市は「CITY-HALL」、されど県の見方は所詮「CITY-OFFICE」でしょ?。。。

浦安市役所(URAYASU CITY HALL)

千葉県浦安市(うらやすし)は、市内に東京ディズニーリゾートがあることで全国的に知られており、近年では財政力指数において常に上位に位置し(平成24年度では市として首位)、非常に豊かな市としても有名である。

東京都特別区部への通勤率は49.5%(平成22年国勢調査)。

総人口 169,083人 (推計人口、2018年4月1日)。

人口密度 9,774人/k㎡

現在の市庁舎は2016年6月に竣工。

設計コンセプトは

・「親しみ」「やさしさ」のある庁舎

・機能的、快適な庁舎 

・永く愛され、使われる庁舎 

・高品質でライフサイクルコストを意識した庁舎

まさに17万都市の「市の顔」に相応しい

威風堂々とした佇まい。

(千葉県浦安市猫実1-1-1/本ブログ管理者2018.9.19撮影)

道路標識上の案内も「CITY-HALL」

こちらは浦安市道の事例である。

仙台のような地方を代表する100万都市や、

やはり市役所の建て替えに際して、

市民コミュニティの中心としての機能を兼ね備えた

埼玉県上尾市などで使われている

いわゆる

「大きな街の市役所(拠点)」という意味付けの表記である。

(千葉県浦安市富士見1丁目17付近にて本ブログ管理者2018.9.19撮影)

ちなみに、

浦安市が東京ベイシティ交通に委託して運行中の

コミュニティバス「おさんぽバス」の停留所表記も

「次は 浦安市役所(Urayasu City Hall)」だった。。。

(千葉県浦安市猫実1-1-1/浦安市役所正面玄関前)

しかしながら、、、

「県道」上では“CITY-OFFICE”表記

仙台よりも人口が多い「さいたま市」でもこの表記なので、

決して

小都市の市役所を意味するわけではないのだが。。。

(千葉県浦安市北栄4丁目2付近/県道242号「浦安停車場線」)

この点については以前、本ブログ管理者は

過去記事にて次のように結論づけている。

1.道路標識(信号機の地点名)における「原則」は“CITY-OFFICE”表記
2.市役所(市独自の看板)の場合は、当該自治体における判断に委ねる
3.英語文法的にはどちらも間違いではない。両方とも正解。
  (□外部リンク参照

要するに、その市における市役所の位置づけ次第
「都市(街)の中心(顔・表玄関)」として、
積極的に活用していこうと市政が考えているか否かによる差
大都市だろうが小都市だろうが、都市規模の大小は関係無い
“市政の姿勢”次第
っていうところか?

■本ブログ内関連記事参照

っと、思っていたら、、、

最近になって県道上でも「CITY-HALL」に

書き換えられていた。

恐らくは2020年の東京オリンピック対策か?

案内標識や交差点の地点名称を、

なるべく外国人観光客に馴染みやすい表記に書き換える政策が、東京都内と隣接3県の都県境に近いエリアを中心に推し進められているようだ。

(千葉県浦安市北栄4丁目2付近/本ブログ管理者2018.12.9撮影)

市役所付近を流れる境川

境川(さかいがわ)は、

千葉県浦安市を流れ東京湾に注ぐ一級河川。

利根川水系旧江戸川の分流で、左岸の猫実(ねこざね)村と右岸の堀江村(ともに現・浦安市)の境界をなすことから名づけられた。

江戸川の真水が流れることから、井戸水に塩分が含まれるこの地域では唯一の飲料水として、また、漁港として、両岸に集落が立地する要因となった。

昭和30年代まではアサリやハマグリ漁、海苔の養殖などで隆盛を誇った潮の香が漂う漁師町で、市内を北西から南東に流れる川もかつて漁港の指定を受け、最盛期には千数百隻もの大小さまざまな漁船の基地となり、生活用水や消防用水に利用され、子どもたちの遊び場でもあって町の発展を支えてきた重要な川である。

■本ブログ内関連記事(船圦川/当代島編)参照

2002年(平成14年)に土木学会デザイン賞優秀賞を受賞した江川橋より下流の水辺空間事整備事業は県と市の共同事業で、河川の事業主体は千葉県、街なみの整備が浦安市という分担により境川水辺空間事業が進められ、両岸にテラスやベンチのある遊歩道が整備され、境川の新しい魅力が生まれつつある。

(境川東水門にて本ブログ管理者2018.9.19撮影)

旧浦安町役場跡

ここは、昭和四十九年〔一九七四〕まで「浦安村(町)役場」の庁舎があったところです。 
 江戸時代、ここには堀江村の郷蔵(ごうぐら)〔年貢米を貯蔵する倉庫〕がありました。明治六年〔一八七三〕に学制〔我が国初の学校制度を定めた教育法令〕が施行されると、堀江村の大塚亮平 は、この郷蔵だった建物を改造し、浦安で最初の小学校である「堀江小学校〔のちに浦安尋常小学校分校〕」をここに創設しました。 
 明治二十二年〔一八八九〕、堀江村・猫実村・当代島村の三ケ村が合併して、「浦安村」が誕生しました。合併後すぐに役場庁舎を建設することはできなかったので、しばらくは猫実のある民家を借り受けて、村の行政は行われていました。明治二十七年〔一八九四〕、浦安尋常小学校の校舎が猫実に新築され、学校がそちらへ統合して建物が空いたため、ここに浦安村役場を設けることになりました。土地は、堀江村の新井甚左衛門 外六十七名の共有地だったものが、三ケ村の合併後、浦安村に寄付されたものです。 
 その後、建物の老朽化により、新しい役場の建設計画が進み、明治四十四年〔一九一一〕、この地に浦安町役場が建てられました。瓦葺平屋建て、和洋折衷造りの当時としては極めてモダンな建物で、「浦安には過ぎたるもの」と言われることもあったそうです。町役場の隣には、漁業協同組合の事務所も開設され、浦安の政治・経済の中心として、この地は栄えていました。 
 昭和四十年代に入ると、海面埋め立てによって町城が拡大、人口も増加し、この庁舎では行政事務の増大に応じることが難しくなったため、旧市街地と埋立地との接点にあたる「猫実一丁目一番一号」に、新庁舎が建設され、昭和四十九年十一月一日から業務が開始されました。 
 漁業権放棄によって、漁業協同組合は解散となり、町の中心地であったこの地の面影も次第に失われ、境川の流れを残すのみとなりました。 

平成二十六年〔二〇一四〕七月 
浦安市教育委員会

旧版地形図は1/25000「浦安」昭和42年より引用。

(現地案内板にて、、、本ブログ管理者2018.9.19撮影)

新橋の南西端に旧町役場跡の碑がある

このあたりは役場(その後の市役所)移転に伴い、

護岸工事の際に川幅が拡がったのだろう。

旧役場敷地の半分以上を、

川幅と道路の拡幅に使い、

残余分をミニ緑地公園化したような感がする。

(千葉県浦安市堀江4-1-2/本ブログ管理者2018.9.19撮影)

大正時代の町役場と境川

昔の写真を見ると、

川幅に対する庁舎のスケール感が掴めそう。

当時は漁業組合、罐詰工場、貝むき場などが

役場と軒を並べていたそうだ。。。

(千葉県浦安市堀江4-1-2/本ブログ管理者2018.9.19撮影)

旧町役場前にある道路元標と水準点

■本ブログ内関連記事(道路元標編)参照

■本ブログ内関連記事(各種標石編)参照

旧版地形図は1/10000「浦安」昭和33年

そんな昔の様子を市立博物館が再現!

■本ブログ内関連記事参照 

(千葉県浦安市猫実1-2-7/本ブログ管理者2018.9.19撮影)

こちらは当地に残る歴史的建造物

境川に並行して延びている堀江地区のフラワー通りは、芝居小屋や寄席があり、この辺りで一番の繁華街だったところで、周辺には寺社が数多く、貴重な民家や昔ながらの銭湯、駄菓子屋が現在も点在している。

■本ブログ内関連記事参照

(千葉県浦安市堀江3-4-8/本ブログ管理者2018.9.19撮影)

洋館もあるよ!(旧濱野医院)

江戸時代から伝わるフラワー通りの歴史的建造物。

その近隣に昭和4年に建てられた洋館が残る。

近年まで診療所として使われてきた建物で、

間口8間、奥行5間、

371.96㎡の敷地に対し延床面積143.21㎡、

建築面積は111.82㎡のスレート葺、寄棟・切妻、

一部2階建て構造になっている。

平日は子育てサロンとして現在も使用されているため、

内部見学は土日のみ。

但し、

その場合でも医院部分である1階の僅かなエリアのみ。

観光面での今後の活用が期待されている。

(千葉県浦安市堀江3-1-5/本ブログ管理者2018.9.19撮影)