股の割れ目に“見所”あり!・・・旧県道「浦和所沢線」散歩(7)*過去記事更新Ver.16.04
昭和4年度「県道9号浦和所沢線道路台帳平面図」より
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現在の埼玉県志木市役所付近
昭和4年度「県道9号浦和所沢線道路台帳平面図」より
今回は「市場坂上」交差点を取り上げます!
(↓地図中「E」の位置=埼玉県志木市本町1丁目にて撮影↑)
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「市場坂上」交差点付近の町家
(↓地図中「E」の位置)
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(地図:上)グーグルマップ゛現在の「市場坂上」交差点
(地図:中)昭和60年頃の志木市都市計画図
交差点角には道路向かい側にあった旧商家の門を移築
(1866*慶応2年勃発の「武州一揆」における刀跡が残存。。。)
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志木市役所側(地図中「O」地点)から「市場坂上」交差点を眺望。
*
本来は
↓左方向(県道113号線)も、
↓右方向(県道36号線)も、
どちらも「国道254号」「新座」「清瀬」に行けるのだが、、、、、
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やはり、
志木市中心市街地内における大型車・背高車(2.8m)規制を意識?
(地図中「Q」「R」「S」地点に゛大型車・背高車通行障害”が存在)
:
できれば、
国道254号線へ抜ける「通過交通」を志木駅周辺から排除して、
防衛道路(県道113号=旧・浦和所沢線)方面へ流したい・・・
ような空気を、この交差点における標識配置から読み取れる。
(地図中「N」地点にて本ブログ管理者撮影)
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地図中「A」の位置には(上掲地図「中」を見ると)
昭和60年ごろまで2件の建築物の存在が確認できるが、
現在では交差点改良(道路拡幅)の為に
「道路用地」として収用されていることが直上写真から判別可能。
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中途半端に土地を収用されることを嫌った地権者が
゛(全敷地)一括売却”を望んだ結果として、
道端余地に直上写真のようなポケットパークを設置する例を
今回取り上げた埼玉県志木市に限らず全国津々浦々で散見する。
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今回の、地図中「A」地点(埼玉県志木市本町1丁目)においては、
「いろは樋のポケットパーク」と名づけられ、
志木市のシンボルとも言うべき「いろは樋」の模型を展示している。
*
いろは樋
水の便が悪かった野火止台地の飲料水・灌漑用水として明暦元年(1655)に開通した野火止用水は、玉川上水の取り入れ口の小川村(現小平市)から新座郡引又村(現志木市)までの約24キロメートルを流れ、最後は新河岸川に落ちていた。
対岸の宗岡地区の大半を知行していた旗本岡部氏の家臣白井武左衛門は、低地でありながら感慨水に乏しい宗岡地区に、それまで新河岸川にむなしく落ちていた野火止用水の末水を引いて生産力を増大しようと考え、宗岡地区の一部を領有していた川越藩主松平信綱の了解を得て、実行に移すことになった。
舟運が盛んだった当時の新河岸川を越えて水を通すには、舟の運航を妨げないことが絶対条件でしたので、当時としては最高の土木技術を駆使した大規模な掛樋の築設による通水の方法を考案された。
寛文2年(1662)新河岸川の上に長さ約260メートル、水面からの高さ約4.4メートル、樋の幅と深さ約42センチメートルの巨大な木樋が架設された。
掛樋は48個の樋をつなぎ、長さが百間以上もあることから「いろは樋」とも「百間樋」とも呼ばれ、当時の「江戸名所図会」にもその姿が描かれている。
完成した掛樋は、宗岡地区の水田を潤して収穫量を大幅に増大させ、地域に大きな恩恵をもたらしてくれた。
いろは樋はまさに地域発展の礎だった。
※いろは樋の架設年代には、万治2年(1659)という説も存在。
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いろは樋の構造は、市場坂上に木箱「小桝」を設け、その「小桝」に一度溜めた野火止用水を地下に埋めた木製の樋(埋樋)によって引又河岸そばの木箱「大桝」に送っていた。
埋桶から送られた水は、坂を落下する水勢によって「大桝」の底部の口から流れ込み、「大桝」を満たすと、満たされた水が「大桝」の反対側上部の口につながれていた掛樋(水道専用橋)を流れて、川の上を渡り、対岸の宗岡側の精進場(現いろは橋交番付近)に送られていた。
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「いろは樋」の模型に並んで設置されている展示ケース内では、
天保15年(1844)の「いろは樋絵図」(内田太郎家所蔵)に基づいて周辺の引又河岸の様子などを含めていろは樋の全長を
縮尺約75分の1で再現したジオラマ模型を展示!
(川の分かれ目は、現在の地図上における「F」―「G」地点に相当?)
(河川改修により「F」を廃川とし、本来゛新河岸川”だった「G」を柳瀬川に…)
(同じく、新たに「J」を掘削し、「G」とは完全分離した跡に「D」の志木市役所?)
(論より証拠?…志木市役所付近は市境線が複雑→ ■本ブログ内記事参照 )
(要するに、昔の河道を基本として市境線→昔の゛村”の境界が存在した・・・)
(新河岸川改修起工は大正11年→ □外部リンク参照 )
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明治31年、木桶を鉄管にかえ、大桝も煉瓦積みとし、鉄管は川底に埋設した。
昭和41年志木市市場地内の伊豆殿堀(野火止用水)は下水路となり、いろは樋はその機能を失ったが、この大桝は長期に亘って郷土に多大の恩恵を及ぼした貴重な文化財である。
昭和53年4月1日 志木市教育委員会』(現地案内板説明文より)
地図中「Ⅰ」地点へ至る道が県道の「本線」だったようだが、、、
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地図中「B」地点
(埼玉県志木市本町2丁目)にて本ブログ管理者撮影
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旧・柳瀬川
(現在は志木市管理の都市下水路/地図中「P」地点にて当方撮影)
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昭和42年の地図には゛旧道”(「I」-「H」間)の橋が残存しているが、
昭和52年の地図からは消えて現在とほぼ同じ地図表現になっている。
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*志木市役所新庁舎着工は昭和46年
*昭和45年「市制施行」以前の自治体名称は、北足立郡足立町
(1/25000地形図「志木」に本ブログ管理者加筆)
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「防衛道路(米軍空襲被災した志木市幸町地区の戦災復興道路)」は
昭和29年に開通!
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現在は一般県道113号「川越新座線」となっている道路だが、
かつては「H」―「I」―「B」―「C」を繋ぐ線が
主要地方道「浦和所沢線」として指定されていたそうだ。。。
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「防衛道路」開通以前における「浦和所沢線」は、
゛志木市道路元標(地図中「M」地点)”を通過していた。
:
志木市柏町地区では、現県道(川越新座線)の、
1本北側を通り東武東上線の踏切に抜ける道が゛旧・浦和所沢線”
現在の新河岸川=地図中「J」と、柳瀬川=同「G」の合流点
(地図中「K」の位置にて本ブログ管理者撮影)