古代歴史の改竄-邪馬台国その1 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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邪馬台国については、ブログ開始以来のテーマであり、未だその存在については結論には至っていません。

<卑弥呼と台与>

<邪馬台国はなかった!>

<太宰府の真実>

 

邪馬台国は、記紀を初めとした日本の古文書には一切書かれていません。邪馬台国や卑弥呼といった文字は出て来ないのです。

 

邪馬台国関連の記録が残っているのは、中国の古文書である後漢書東夷伝魏志倭人伝くらいです。

<WIKI:邪馬台国>

 

何故日本の書物には記録されていないのでしょうか?

 

ここに、邪馬台国の秘密があるはずです。

 

その理由は、真実を隠さないととても都合が悪い熊襲による勝者の(改竄の)歴史だからです。

 

つまり、実際に、古代日本に存在していた邪馬台国(女王国)の歴史は、ある時期、完全に日本からは消されたのです。

 

しかしながら、中国の古文書に記載された邪馬台国の歴史まで消すことが出来なかった、ということなのです。

 

従って、歴史学者は、古代中国の後漢書東夷伝と魏志倭人伝をベースに、日本に残されている古墳等の史跡から邪馬台国の存在を調査し、推測してきました。

 

その結果、江戸時代に邪馬台国の存在した場所として九州説近畿説(畿内説)が報告され、以降、今日まで長い間、両説間で論争になってきたのです。

 

現在では近畿説が有力となっているようですが、本当にそうなのでしょうか?

 

昨年夏頃から、私なりに検証してみました。

 

邪馬台国が存在した時代は、魏志倭人伝に邪馬台国(女王国)、卑弥呼、台与に関して年代記述(西暦に換算すると238-266年)があることから、3世紀前半から中盤には確実に存在していたことになります。

<WIKI:魏志倭人伝>

 

邪馬台国が存在した位置についての推測も、魏志倭人伝の記述がベースになっています。

 

しかしながら、魏志倭人伝に書かれている通りの行程で、単純に距離と方角を足して行くと、邪馬台国の位置は太平洋の真中になってしまうのです。

<WIKI:邪馬台国に関する論争>

<WIKI:邪馬台国までの行程と倭国の様子>

 

邪馬台国(女王国)の位置についての魏志倭人伝の記述の一部です。

 

「帯方郡から女王国(邪馬台国)に至る、1万2000余里である」

 

中国での1里は400mです。

 

400m×12,000里=4,800km

 

帯方郡(現在の北朝鮮遼東半島南部辺りか)と邪馬台国の距離が、4,800km離れているということは、邪馬台国は太平洋の真中あたりに存在していたことになるのです。ムー大陸のことでしょうか?

 

 

また、「(狗奴韓国から)初めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。」という記述もあります。

 

句奴韓国は現在の韓国南部の海岸部と推定されています。対馬国は、文字通り長崎県の対馬になるはずです。

 

400m×1000里=400km

 

韓国と対馬の距離は最も近いところで50km、離れた所でも80km程度です。

 

如何に古代とは言え、韓国から目視出来る対馬との距離が、実際の5倍以上も誤差が出るはずがありません。単純な距離計算では、邪馬台国は日本のことではなくなってしまうのです。

 

この矛盾をを解決するために、歴史学者は短里法という概念を用いて、再計算しています。

 

古代中国では、通常の1里=400mではなく、1里≒76mで計算される場合も、まれなケースながらもあったようで、これを短里法と呼んでいます。

 

短里法で計算してみると、帯方郡から邪馬台国までの距離1万2000里は912km、対馬国までの距離1000里は76kmとなります。

 

帯方郡と北部九州の距離は600km程度ですので、まだ誤差が大きいですが、昔の測定技術能力を考えれば誤差の範囲内に入っていると考えてよいでしょう。もう一方の対馬については、ほぼ一致しています。

 

また、現在の壱岐島とされている一大国、長崎県・佐賀県北部の松浦地方とされている末廬国、福岡県糸島半島とされている伊都国の位置は、短里法で計算すれば現在の地図とほぼ近い位置になります。

 

従って、九州説を主張する学者は、邪馬台国は北部九州にあったはずだ、と主張しているのです。

 

しかしながら、短里法でも計算しても、九州説には矛盾があります。

 

それは肝腎の邪馬台国の場所です。魏志倭人伝には帯方郡から邪馬台国への行程が次のように書かれています。

 

(帯方郡から)南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る

 

「水行10日」は、帯方郡の位置と北部九州の距離で、当時の船の能力であれば、妥当な日数のように考えられます。

 

しかし、「陸行1カ月」というのは、どう考えてもあり得ないのです。九州説での邪馬台国の場所は、現在の福岡県小郡市、筑前町付近です。

 

帯方郡から九州北部に到着した船が、福岡市付近の海岸であれ、長崎県の海岸であれ、またまた熊本県の海岸であったとしても、どんなに遠くても歩いて10日もかからない距離なのです。有明海付近に到着すれば2日ほどで行ける距離なのです。

 

従って、邪馬台国九州説には疑問が生じることになります。

 

 

次に、もう一つの畿内説についての検証です。

 

前述の邪馬台国の位置については、例えば帯方郡からの船が山口県付近の海岸に到着したとしたら、そこから歩いて1カ月というのは妥当な日数のように思えます。

 

この点は、近畿説の方が九州説より有利になります。

 

しかしながら、近畿説でも、次の点に疑義が生じるのです。

 

まずは、投馬国(とうまこく)についてです。

 

(帯方郡から)南へ水行20日で、投馬国に至る。推計5万戸余。

 

邪馬台国(7万戸)に次ぐ規模の人口が存在する投馬国の存在は、現在の日本のどこに比定されるのか、最も分かっていない国の一つです。

<WIKI:投馬国>

 

邪馬台国までが水行10日ですから、水行20日は四国辺りか、日本海側なら山陰東部か、黒潮に乗れば北陸まで行けそうです。

 

しかしながら、これらの地域に投馬国に比定される場所の痕跡が残っていません。

 

九州説を主張する学者は、投馬国を現在の宮崎県西都市辺りに比定していますが、それも根拠は弱いです。

 

もう一点は、「倭種なり」という国の存在です。

 

女王国から東に1,000里ほど海を渡れば、また倭種の国あり

 

九州説で考えるならば、北部九州から東へ1000里(76km)行くと大分県北部の海岸になります。倭種とは、大陸からの帰化人を指しているのでしょうか?

 

また、近畿説の場合、仮に奈良市南部に邪馬台国があったとしたら、そこから1000里行くと三重県の伊勢湾沿岸になります。ここに帰化人の国があったということなるのでしょうか?

 

両方には、それぞれ宇佐神宮と伊勢神宮の二大神社がある場所ですが、倭種が何を指すのか良く分かりません。

 

そして、九州説であれ、近畿説であれ、全く説明出来ないのが次の点です。

 

倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があり。女王国からは4000里

 

4000里は、短里法ならば約300kmです。

 

九州説の倭種の国を大分県北東部とした場合、南に300kmは種子島辺りです。

 

一方、近畿説の倭種の国を三重県津市の周辺とした場合、そこから南に300kmは太平洋上で周辺には目立った島もありません。九州説なら種子島で比定出来ますが、近畿説では説明できない矛盾点が出て来るのです。

 

ここで、近畿説も完全に破たんします。

 

ちなみに侏儒国は小人の国となっています。「人のたけ三、四尺」ですから大人の身長が90cmから120cmの人々の国が、当時の日本に存在したことになるのです。

<WIKI:侏儒国>

 

このような私なりの調査・推定から、邪馬台国は九州説、近畿説でも説明がつかないということになりました。

 

そうすると、邪馬台国はどこにあったのでしょうか?

 

これを説明するには、邪馬台国が存在した3世紀の日本及び周辺の地図は、現在と異なると考えるべきなのです。そうでないと説明出来ません。

 

次回以降、当時の地理について私の考えを書いていきます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

-追伸

 5月6日の記事はお休みさせていただきます。