卑弥呼と台与 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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以前、邪馬台国について記事にしました。

<参照:邪馬台国>


要約すると、邪馬台国は現在の九州の筑紫地区にあり、その後、近畿の大和地方にも同じような都が造られた。邪馬台国の女王卑弥呼は、神功皇后(気長足姫尊:おきながたらしひめのみこと)である、という内容でした。


また、この記事では、初代卑弥呼は神代のヤマトトトヒモモソヒメであり、筑紫にある仙道古墳は邪馬台国の権力者の墓としていました。


ところが、ヤマトトヒモモソヒメは神代の人物ではありませんでした。これについては、後述します。


そして、次の記事で分かったことですが、仙道古墳は神功皇后の墓でした。

<参照:神功皇后と卑弥呼>


ただ、この記事でも、魏志倭人伝に伝わる卑弥呼と神功皇后では、時代的に100年くらいの開きがあります。何故、開きがあるのか、その理由までは分かりませんでした。私は、魏志倭人伝は金星系の改竄であろうと考えていました。今回は、邪馬台国と卑弥呼について、さらに深堀りすることにします。


まず、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国と卑弥呼について、ウィキペディアから引用します。


~転載開始~

(邪馬台国は)元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。


卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。


卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。


正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。


~転載終了~


魏志倭人伝は、あの有名な三国志の中に登場する、倭国に関して記述した部分です。

<WIKI:魏志倭人伝>


中国の三国時代は、魏・呉・蜀の三カ国に分裂統治された西暦184年から280年(広義)の時代です。三国志通ならすぐに分かると思いますが、曹操、孫権、劉備の三国の王を中心として、諸葛亮孔明や関羽、張飛など、豪傑が続々登場する日本でも人気の歴史書ですね。三国のうち、日本により近い魏国の歴史に、倭国につていの記述があり、そこに邪馬台国と卑弥呼が出てきます。


卑弥呼が誕生した時代を魏志倭人伝との関係で推測すると、少女を女王に共立すること」という表現から、卑弥呼死亡時の年台から逆算すると西暦180年前後になります。


さらに、卑弥呼が魏国から正式に「親魏倭王」と認められたのが西暦238年となっています。


そして、死去したのが西暦247年です。その後、「卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(台与:とよ)」が跡を継いだとなっています。


ここまで正確な年が残されているということは、たとえ改竄であったとしても何らかの意味があるはずです。


ここからは、魏志倭人伝からではなく、私がインスピレーションと、自分なりの調査結果での神功皇后について見解を述べます。


卑弥呼=神功皇后ですから、神功皇后が活躍した時期は、息子の応神天皇が倭国を統一した時代370年から380年頃<参照:桃太郎伝説> とすれば、神功皇后が100歳クラスの長寿だとして、西暦300年の前後40年間とみなせます。神功皇后が活躍した期間は、西暦260年~340年くらいとなります。


そうすると、魏志倭人伝での卑弥呼の死は247年ですので、前述のように100年程度、時代の開きが出て辻褄が合いません。魏志倭人伝が改竄だと言ってしまえば、それで解決なのですが、何かひっかかっていました。


ところが、ここにはやはり歴史の隠ぺい・改竄があったのです。これを解決するキーポイントが、壹與(以下「台与:とよ」)なのです。


台与は、魏志倭人伝では、前述したとおり卑弥呼の親族であり、13歳で卑弥呼の跡を継いで女王になったとされています。

<WIKI:台与>



魏志倭人伝では、卑弥呼が亡くなったのは247年です。そうすると神功皇后はまだ生きていますから、卑弥呼=神功皇后ではなく、台与=神功皇后の方が辻褄が合うことになります。現在では、後者の説の方が強いようです。


しかし、これが記紀の改竄の目的であったのです。卑弥呼=神功皇后では、金星系にとって都合が悪かったのです。


まず、神功皇后ですが、生誕は日本書記では170年となっています。そして、亡くなったのが269年。99歳まで生きたことになります。


一方、息子の応神天皇は生誕は日本書記では201年、崩御が310年。109歳まで生きた長寿です。


ところが、日本書紀より編纂年代が古い古事記では、応神天皇の崩御は394年となり、84年ずれています


どちらが正しいのでしょうか?


これは、古事記の394年が正しいようです。日本書記は古事記よりも後に編纂されていますから、金星系が都合が悪くなって書き換えたようなのです。


息子の応神天皇が84年ずれているのならば、母の神功皇后の亡くなった年も同様に80年前後ずれているはずです。よって、神功皇后は日本書記の269年ではなく350年頃に亡くなったはずです。これは前述した私の推測年代と近いです。


ただし、ここで重要なのは、神功皇后が誕生した年は、日本書記の170年の方が信憑性が高いのです。そうすると、神功皇后は170年から350年の、約180歳まで生きたことになります。信じられますか?


これが歴史の真実なのです。神功皇后が特別に長寿だった訳ではないのです。実は不老長寿の薬のようなものがあって、それを使うと若返り人生が倍増したようなのです。神功皇后と一緒に活動した武内宿禰は300歳以上生きたと言われています。これも不老長寿の薬のおかげでしょう。不老長寿の薬は、現在はどこかに封印されているのでしょう。徐福も探しに日本へ来ていますよね。


神功皇后が170年から350年まで生きていたことで、邪馬台国の謎は全て解けます。神功皇后が邪馬台国の卑弥呼です。


ところが、邪馬台国に対して金星系の侵略が始まります。230~240年頃でしょうか。


邪馬台国の隣に狗奴国(現在の福岡県南部から熊本県北部)がありました。狗奴国は倭人系の小国家だったのですが、金星系によって侵略され、王は殺害され、皇后は捕えられます。捕えられた皇后が台与だったのです。台与は神功皇后の遠戚でもありました。台与は、狗奴国を侵略し偽の王を奪い取った金星系によって騙されます。


それによって、神功皇后の邪馬台国と、偽王の狗奴国は対立し戦争状態になります。狗奴国は三国時代の中国のの力を利用しようと、魏王に偽の親書を送ります。金星系の偽王は、騙されて言いなりの台与を、邪馬台国の女王卑弥呼とすり替えて朝貢します。そして、台与は魏王から「親魏倭王」の称号をもらいます。これが、魏志倭人伝として、現在に邪馬台国、卑弥呼、台与の記述として繋がっているのです。魏志倭人伝は、後の中国の金星系御用達学者によって、さらに改竄されていきます。


また、台与が、記紀に登場するヤマトトトヒモモソヒメでもあったのです。金星系は記紀にも、改竄に改竄を重ね、真の歴史を隠しているのです。


魏志倭人伝に記載された247年の卑弥呼の死は、騙されていた台与が、金星系によって殺害された年を、卑弥呼の死として改竄して記録されたものです。この年には、本物の卑弥呼である神功皇后は亡くなっていません。


神功皇后は、この後、金星系狗奴国を制圧し、古神道によって倭国統一の基礎を作っていきます。魏志倭人伝の248年の卑弥呼の死から、実際には、さらに100年間生き続けます。凄い歴史ですね。


騙され、偽卑弥呼になり、最後は用なしで使い捨てのように殺害された台与は、さぞかし無念だったことでしょう。熊本県山鹿市には、台与にまつわる古墳があります。それがチブサン古墳とオブサン古墳です。このことは、誰も知らないことです。


オブサン古墳。台与の息子(王子)が埋葬されていると推測されます。
知っとうや2-オブサン古墳①


知っとうや2-オブサン古墳②


こちらは、台与と主人の王が埋葬されていると思われるチブサン古墳。
知っとうや2-チブサン古墳①


知っとうや2-チブサン古墳②


チブサン古墳は装飾古墳。内部のレプリカが展示されている。
知っとうや2-チブサン古墳



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