<九州王朝は存在した!>
神代が終了した後、約2700年前に天の采配により神武天皇が九州に誕生し、その血流が九州王朝として存続していたのです。その九州王朝の治める国を、大陸や朝鮮半島の周辺国は倭国(わこく)と呼んでいたのです。
そして、時は下り1600年強前、第15代応神天皇の時代、その倭国(九州王朝)と近畿の葛城王朝(こちらも神武天皇の血流)の流れをくむ王朝が統一され、大倭国(やまとこく、後に大和国)になったのです。
今回は、応神天皇が統一する前の倭国(九州王朝)の状況について、解明できたことをご紹介します。
応神天皇が天下統一を行い、大倭国ができた時代は西暦370年前後だと推測できます。
それ以前は、武内宿禰天皇、神功皇后による九州王朝が中心の時代です。
定説では武内宿禰は天皇とされていませんが、神功皇后の兄である第14代仲哀天皇(九州王朝の大王(おおきみ)。仲哀天皇の皇后が神功皇后とされているが、これは熊襲による改竄)が崩御後は、次の九州王朝の大王武内宿禰と後にその妻となった神功皇后が、九州王朝と近畿王朝の統一に向けて尽力していたようなのです。200年代半ばから300年代前半にかけてのことだと推測します。
神功皇后に関係する神社が、九州から近畿にかけて連なるようにたくさん鎮座していますが、これは武内宿禰と神功皇后が天下統一のために東征した軌跡なのです。
それより更に100年程前、第12代景行天皇の時代、跋扈していた熊襲を景行天皇、日本武尊が抑え込みますが、両者が亡くなった後は、再度熊襲が力を増し、日本列島は混乱します。それが西暦150年から250年の間の時代です。
この時代の終盤に、救世主として、朝鮮半島任那からやって来たのが、祖先が九州王朝の血流である仲哀天皇と、神功皇后の前身である息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)の兄妹なのです。
<仲哀天皇と神功皇后>
<神功皇后と武内宿禰>
そして、仲哀天皇(の前身)が九州王朝の大王に就位し、北部九州を治めます。この国が、現在の福岡県糸島半島を中心とした小国である伊都国で、その後国域はだんだん広がり、北部九州全域に広がっていたと思われます。この伊都国こそ倭国の中心国だったのです。
魏志倭人伝等によれば、九州には伊都国の他に奴国や狗奴国など複数の小国があり、それを邪馬台国の女王卑弥呼が治めていた、と伝えられています。
当時の九州に、小国が複数存在したのは事実でしょうが、伊都国=倭国(九州王朝)の中心国であり、一般的に邪馬台国と言われている時代の中心は伊都国だったはずなのです。
福岡市の志賀島で発見された漢委奴国王印の金印から、現在の福岡市には奴国があったと言われていますが、これは改竄です。
<WIKI:漢委奴国王印>
金印の文字を「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読むことで、漢王が倭国の小国奴国王におくった金印と解釈していますが、これは本来「漢(かん)の委奴(いと)の国王」と読むのが正しいのです。
漢王が委奴国の国王に送った金印なのです。
そもそも委(い)は、倭(わ)の書き間違いであると解釈することがおかしいのです。漢が冊封国家として倭国を認めようとして送った印綬において、単純な書き間違いをすることはあり得ません。
これは、金印が発見されて以降、歴史の真実を悟られては困る熊襲系のお抱え学者が勝手に判断したことなのです。
「委奴国」とは「伊都国」のことを、漢側から見た別名であって、奴国という小国は存在せず、九州北部は伊都国が治めていたのです。
倭国=九州王朝=伊都国=委奴国
その伊都国の中で糸島半島は、九州王朝の大王である仲哀天皇の都があった場所だと推測します。
仲哀天皇が崩御後、その意志を継いだのが妹の息長帯比売命であり、武内宿禰と結婚し、二人で九州王朝を継いだのです。そして、武内宿禰天皇と息長帯比売皇后は北部九州を安定させていきます。
ただし、武内宿禰が純粋で女性的な心を持つ柔和な性格に対し、息長帯比売命は女性ながら男性的な勇敢な性格を持ち合わせていたことから、政治の表舞台では息長帯比売命が目立つようになります。
そして、とうとう神功皇后と呼ばれるようになり、女王的な地位で政治を司っていったのです。
実は、この神功皇后が、皆さんが歴史で習う邪馬台国の女王卑弥呼に当たるのです。
<神功皇后と卑弥呼>
ところが、この神功皇后の政権に対して、熊襲が大反撃を行うのです。
当時の九州王朝である倭国は、複数の周辺小国を束ねた連合国家の体制だったようで、倭国の中心である伊都国(現在の福岡県が中心)の南部(現在の熊本県北部菊池市周辺)には、狗奴国(くなこく)が存在していました。
<WIKI:句奴国>
狗奴国の王は卑弥弓呼素(ひめこそ)で、その妃が台与(とよ)であり、当初は伊都国と親密な関係を築いていたのですが、菊池彦(きくちひこ)という熊襲の長官に実権を握られてしまいます。
そして、王の卑弥弓呼素亡き後、妃の台与は菊池彦に騙され完全に国政を握られてしまうのです。ちなみに台与と神功皇后は遠戚だったのです。
狗奴国を乗っ取った菊池彦は、伊都国の女王神功皇后に対抗するため、台与を狗奴国の女王に祭り上げ、当時のアジアの大国である魏に使者を送り、台与を倭国の女王「親魏倭王」に認めさせようとしたのです。
つまり、菊池彦は、狗奴国を使って倭国を乗っ取ろうとしたのです。これを機に伊都国と狗奴国は対立するようになり、九州王朝つまり倭国は不安定になります。
漢から見た倭国には、正規の女王である伊都国の神功皇后と、熊襲の菊池彦に操られた狗奴国の女王台与という二人の女王が存在するようになったのです。西暦270年前後のことです。
この二か国の対立は、三世紀後半、台与の死によって決着がつくことになります。その後、九州王朝は安定し、神功皇后は日本列島統一のため武内宿禰と近畿へ向かうのです。そして、息子の応神天皇の時代に九州王朝と近畿王朝を統一するのです。
後の時代の人は、狗奴国のことを、熊襲の国として揶揄するために邪馬台国と名付けたのです。
邪馬台国とは、「邪魔な台与の国」という意味です。熊襲に乗っ取られてしまった国をそう呼んだのです。台与が卑弥呼ではないか、と言われる所以はここにあるのです。
本質論から言えば、邪馬台国は存在せず、九州王朝である倭国(伊都国)が存在したのです。もちろん、近畿にも邪馬台国は存在しません。近畿には葛城王朝の流れでから、後の大和朝廷が存在したのです。ちなみに神功皇后はシャーマンだったようです。
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