九州王朝と継体天皇 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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学問の神様と言えば菅原道真。その菅原道真を祀るのが全国各地に鎮座する天満宮です。その中でも学業祈願で最も人気があるのが福岡県太宰府市に鎮座する太宰天満宮です。

そもそも、何故普通の人である菅原道真が天満宮で祀られているのか?、と言いますと、魂の流れ、つまり菅原道真の前世が天神様だったからなのです。

菅原道真は、当時の京の都から太宰府へ左遷されたようですが、そもそも太宰府は8世紀初頭まで、数百年以上、九州王朝の都として栄えたところです。当時の太宰府は、現代の京都のような位置付けにあったはずです。

菅原道真亡き後は、天神様の魂を祀るため太宰府天満宮が創建され、現代でも北野天満宮と並ぶ天満宮の総本社とされているのです。

今回は、太宰府を都とした九州王朝が、一旦侵略されてしまったケースをご紹介します。

第14代仲哀天皇崩御後、武内宿禰と神功皇后が倭国を平定したことを前回ご紹介しました。
<邪馬台国はなかった!>

そして、西暦370頃、息子の第15代応神天皇が九州王朝と近畿王朝を統一し、大倭国(やまとこく)が成立します。神武天皇以来、人間の天皇としては神武天皇以来の日本列島統一、ということになるようです。

この後、第16代仁徳天皇から第24代仁賢天皇(~498年)までは、熊襲が暴れ続けるものの、何とか大倭国朝廷は国体を維持したものと思われます。

しかし、第25代武烈天皇の時代になって、熊襲による大事件が起きてしまいます。

この時代、天皇家には九州王朝と近畿王朝という二つの血流があり、次の天皇を決める際、両系で調整しながら次の皇位を決めていたようです。天智天皇系と天武天皇系というように、天皇の系列を分けて表現する場合がありますが、これは二つの血流に起因しているのだと思います。

武烈天皇は九州王朝の血流です。

従って、武烈天皇は、九州を中心にして全国を統治していたようなのです。
<WIKI:武烈天皇>

熊襲は、九州中心の武烈天皇に対抗し、まず近畿の都を侵略してしまいます。

そして、次に本丸の九州の都を侵略する戦いを起こすのです。この侵略の戦いの過程で、武烈天皇は実質的に朝廷を奪われてしまったようです。記紀には「武烈天皇は突然崩御した」としか書かれていませんが、これは改竄。熊襲が侵略したことを正当化するために改竄しているのです。

武烈天皇は崩御したのではなく九州の都を追われ、熊襲の首領が継体天皇として勝手に宣言してしまった、というのが真相のようです。

このことを示唆させているのが、武烈天皇の後継者と目されていた倭彦王(やまとひこのおおきみ)についての日本書記の記述です。
<WIKI:倭彦王>

『日本書紀』継体天皇即位前条によると、武烈天皇(第25代)の崩御後に皇位継承者がなく、皇統断絶の危機を迎えた。そこで大伴金村らは、丹波国桑田郡にいた倭彦王を擁立しようとした。しかし、王としてのふさわしさを確かめるために金村らが武装して迎えに行ったところ、倭彦王は恐れをなして逃げ出した。これにより、男大迹王(をほどのおおきみ、第26代継体天皇)が即位することとなったという」

武烈天皇の後継者として、第14代仲哀天皇の五世孫である倭彦王を擁立しようとしたが、本人がおそれをなして逃げたため、越前にいた応神天皇の5世の孫男大迹王(をほどのおほきみ)が後継天皇として擁立され、第26代継体天皇となった、ということになっています。

そもそも、
彦王は恐れをなして逃げ出した」という内容自体に時の混乱を感じさせます。これは、熊襲であり侵略した継体天皇を正当化させるための改竄ではないでしょうか。

私は、男大迹王には継体天皇になった人物とは別の本物がいて、その人物は南九州の隼人のトップとして存在していたと考えています。しかし、九州王朝とともに熊襲に侵略されてしまい、熊襲の首領が男大迹王に成りすましたのだと推測しています

そして、倭彦王を次期天皇に推そうとしていた正統派の朝廷に対抗し、勝手に第26代継体天皇であると宣言したのだと思われます。

そして、現在の大阪府交野市辺りに偽の朝廷を置いたのです。継体天皇については、歴史学者の間でその出自に疑問が投げかけられていますが、正式な天皇としては認められていないと考えた方が辻褄があいそうです。
<WIKI:継体天皇> 
<継体天皇の真実>

日本書記の継体天皇欄には、九州において朝廷に抵抗する筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)を討ったことが書かれています。いわゆる磐井の乱(528年)です。
<WIKI:筑紫君磐井>

実は、筑紫君磐井とは武烈天皇のことなのです。武烈天皇は506年に崩御したことになっていますが、前述したとおり崩御ではなく、侵略を受けたのです。507年以降も天皇として戦っていたのです。

勝手に就位を宣言した熊襲の継体天皇が、武烈天皇を完全に討とうとしたのが磐井の乱なのです。筑紫君磐井の生年は不明となってますが、このように歴史上で生死が不明となっている人物の多くは、熊襲(歴史の勝者)にとって都合が悪いので消されているのです。

武烈天皇は20年以上、熊襲と戦い続け、磐井の乱によって敗れてしまったのだと思われます。

一部の歴史学者は、継体天皇が現代の皇室の祖であり、それ以前は異なる血流であるといった意見を主張していますが、これは熊襲を正当化するためのものです。

初代神武天皇、第10代崇神天皇も途中で侵略され、成りすまし天皇になっていますが、継体天皇も同様だったとうことなのです。


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