古代歴史の改竄-邪馬台国その2 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

前回の続きです。

<古代歴史改竄-邪馬台国その1>

 

前回記事の趣旨は、魏志倭人伝等、中国の歴史書にしかその名が登場しない邪馬台国は、日本に存在した可能性は確かであるが、当時の日本及び日本周辺の地形は現在と異なっていたはずだ、ということでした。

 

以前の地形がどのようなものであったのかは、追々言及していきます。

 

その前に、邪馬台国以前の日本の歴史が消されていることについて、具体的に検証してみます。

 

邪馬台国が存在した時代は、魏志倭人伝の記載から3世紀前半以前になります。

 

この時代を記紀に照らし合わせると、第13代成務天皇第14代仲哀天皇第15代応神天皇の時代とかぶってきます。

 

記紀をベースに天皇の在位年代を遡っていき、西暦に換算すると、成務天皇が西暦131年~190年、仲哀天皇が西暦192年~200年、仲哀天皇の後を継いだ神功皇后摂政時代が西暦201年~269年、応神天皇が西暦270年~312年となります。

<WIKI:天皇の在位年と西暦対照表>

 

仲哀天皇の皇后である神功皇后が、摂政時代も含めて70年近く続いている点が、現代の考古学の通説では、「神功皇后は存在しなかった。神話上の存在ではないか」とされている由縁です。

 

しかしながら、一方では、神功皇后を倭国の最初の女王とみなすと、卑弥呼と同時代の存在のため、邪馬台国の卑弥呼=神功皇后とも言われているのです。

 

記紀の神功皇后記には、三韓征伐を初め、熊襲征伐、後に応神天皇となる息子の誉田別尊の誕生の様子、武内宿禰との関係など、1800年前の出来事とは思えないくらい詳細が記載されています。

 

ところが、夫の仲哀天皇になると記載が極端に少なくなりますし、その前の第13代成務天皇については、事績はほとんど記載されていません。

 

成務天皇からにさらに遡ると、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇には、かなり詳しい事績が書かれており、明らかに成務天皇、仲哀天皇の項目には改竄が見られるのです。

 

従って、第13代成務天皇及び第14代仲哀天皇(神功皇后)の時代にかけて、邪馬台国の歴史が消えるような地球規模の大きな変動があり、その事実を歴史から消さなければ熊襲にとって都合が悪かった、ということになるはずです。

 

次に、邪馬台国の様子を魏志倭人伝から見てみます。

 

・(時期不詳:200年前後と推定)倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした。その女子の名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐した。

 

・景初2年(西暦238年)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。

 

・正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。

 

・その8年(西暦247年)、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。

・・・・・

 卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與(台与)という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。

 

<WIKI:魏志倭人伝年表>

<WIKI:卑弥呼年譜>

 

魏志倭人伝には、邪馬台国(倭国)の騒乱が始まり、男王が続いた後に、女王卑弥呼を立てたことで国が安定したとされています。

 

この年代については触れられていないのですが、前後の様子から西暦200年前後と推定されます。男王が続いた後、内乱があった時代が仲哀天皇(西暦192年~200年)の時代と考えれば、神功皇后=卑弥呼で辻褄が合ってきます。

 

また、魏志倭人伝には、倭の女王卑弥呼が魏に朝貢したことが数回記載されています。年代も明確で西暦238年から247年頃まで朝貢していた様子が書かれています。

 

その後は、卑弥呼の死にも触れられています。年代は書かれていませんが、卑弥呼の後を継いだ台与の登場との関連から247年~249年に卑弥呼が死んだと推測されます。

 

さらに、卑弥呼の後を継いだ台与も魏に朝貢したことが書かれています。

 

魏志倭人伝にはここまでしか書かれていませんが、魏の後に成立した晋の晋書には、次のように書かれています。

 

泰始二年(266年)、 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢

<WIKI:卑弥呼#晋書>

 

魏は西暦265年に滅び、同じ年にが建国しています。その晋に邪馬台国が朝貢した最後の年が266年と明確に記載されています。

 

この266年以降は、邪馬台国についての記載は、中国の史書から一切消えてしまいます。

 

古事記で、神功皇后の摂政時代を含めた時代を西暦に換算すると201年~269年になります。

 

卑弥呼の存在期間を魏志倭人伝等を頼りに推測すると200年頃~249年で、神功皇后時代よりも20年程短くなります。

 

ただし、卑弥呼を女王の役職だったとして、後を継いだ少女の台与まで卑弥呼として含めると、神功皇后の期間と辻褄が合ってくるのです。

 

中国の史書では、266年まで邪馬台国が存在したことになり、邪馬台国の卑弥呼の時代と、記紀の神功皇后の時代がほぼ一致します。

 

しかしながら、記紀に邪馬台国に関する表現が一切ないのは何故なのでしょうか?

 

それは、前回も書いたように歴史の改竄があるからです。

 

実は、前述の晋書266年の邪馬台国最後の朝貢以降、中国の歴史書には、邪馬台国に関してだけでなく、倭国に関する記述もほとんど消えてしまうのです。

 

次に倭国に関しての具体的な記述が登場するのは、晋書に書かれた西暦413年倭の五王に関する記述です。

 

つまり267年から412年までの145年間の倭国に関する歴史は海外にはほとんど残っていないのです。このことは空白の4世紀と呼ばれています。

<WIKI:空白の4世紀>

 

空白の4世紀の存在ために、それ以前に存在した邪馬台国も幻の王朝と呼ばれる由縁なのです。

 

何故、倭国に関する記述は、145年間も中国の歴史書から消えたのでしょうか?

 

もちろん、故意に歴史書から消されたからなのですが、問題は何故消す必要があったのかです。

 

それは、266年に今の日本列島を中心としたアジアを初め、地球規模で大変動が起きて、地形が大きく変わってしまったからと推測されるのです。

 

大変動によって、それまでの日本の前身の国が大きく様変わりしたのです。

 

それまでの日本は、神代の名残りがあり、神国の面影を至る所に残す時代だったのです。

 

しかし、266年の大変動によって地球が一旦リセットされ、翌267年から天の采配による、新しい時代が始まったようなのです。いわゆる敗者復活戦なのです。

<参考:敗者復活戦>

 

従って266年を境に地球の時代は全く変わってしまったのですが、この大変動及び敗者復活戦のことを、熊襲は隠したかったために、空白の4世紀を作り、現在までの世界の歴史を改竄したのです。

 

つづく。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。