Mr. N
日系2世のMr. Nのお葬式に先日行っていました。このひとには私は随分世話になり、手広く事業をしている彼に「うちにきて働かないかね。」と誘われた事もありました。彼とは、昼食をたまに一緒にしたり、会社に私が遊びに行ったりといった仲でした。自分の育ちについてあまり話さない人でしたが、この葬式では、故人の履歴と言った事が紹介されたので、私も、なるほどと納得できる事がありました。帰米2世と呼ばれる人たちがいて、第二次大戦まえに、アメリカから親によって、日本に送られた2世たちのことで、戦後アメリカに帰国するのですが、収容所暮らしをしてきた居つきの2世とは、日本語の堪能さ、日本の習慣の習熟、日本的な感覚の理解と言った面で大きな違いがあります。このMr.Nさんは稀な経験の持ち主でちょっと帰米の人たちともちがい、親の生活苦のために、日本の親戚に送られた彼は1932年から1941年までの少年時代を日本ですごしたそうです。
開戦まえに、帰国した彼を待っていたのは、強制収容所の生活で、ここでの忠誠審査では、アメリカにも日本にも忠誠を尽くさないとNO. NOと回答したNO, NO Boyでした。そして、戦後収容所から開放されたあとは、陸軍に入隊、ドイツの駐留したといいます。、除隊後就職その就職先の娘と結婚、自分でもその分野の商売をはじめ、休む間もなく、働きづめて財をなし、子供二人はJDとMBA、孫も出来たのですが、仕事が大好きな彼には、引退という言葉ななく、19年前の肝臓移植、5年前の5重バイパスにもめげずに毎日仕事場には顔をだすという生活が2年前まで続きました。30年前に日本から来たての私にも優しくしてくれて、長年、アメリカにいる叔父さんという思いを、私は心の中で感じていたものです。
普通の意味での学歴がなかった彼は、自分で独学で経営学を学び、商品知識についても自力で勉強して
深い知識をもっていました。美しいものを愛でるという感覚も人一倍あり、忙しいさなか墨絵などもたしなんでいました。
自分か年を取っていくということは、先達も向こう岸にどんどん行ってしまうという自然の摂理ではあるのでしょうが、暖かい笑みをいつも向けてくれたMr.Nが居なくなった事は、さびしい事です。享年83歳
開戦まえに、帰国した彼を待っていたのは、強制収容所の生活で、ここでの忠誠審査では、アメリカにも日本にも忠誠を尽くさないとNO. NOと回答したNO, NO Boyでした。そして、戦後収容所から開放されたあとは、陸軍に入隊、ドイツの駐留したといいます。、除隊後就職その就職先の娘と結婚、自分でもその分野の商売をはじめ、休む間もなく、働きづめて財をなし、子供二人はJDとMBA、孫も出来たのですが、仕事が大好きな彼には、引退という言葉ななく、19年前の肝臓移植、5年前の5重バイパスにもめげずに毎日仕事場には顔をだすという生活が2年前まで続きました。30年前に日本から来たての私にも優しくしてくれて、長年、アメリカにいる叔父さんという思いを、私は心の中で感じていたものです。
普通の意味での学歴がなかった彼は、自分で独学で経営学を学び、商品知識についても自力で勉強して
深い知識をもっていました。美しいものを愛でるという感覚も人一倍あり、忙しいさなか墨絵などもたしなんでいました。
自分か年を取っていくということは、先達も向こう岸にどんどん行ってしまうという自然の摂理ではあるのでしょうが、暖かい笑みをいつも向けてくれたMr.Nが居なくなった事は、さびしい事です。享年83歳
裏庭
表の庭は、花壇にペチュニア、メリーゴールド、ドルフェニアム、パンジーなど、色沢山に植え込んで、いまでは、歩道を歩いている人たちから、ときどきはお褒めの言葉を頂いたりしています。今年はカイドウも沢山花をつけて、小さな実もみえます。このほかに、鉢物でぺラゴニュームなども植えて彩りの鮮やかさもたのしんでいます。
さて裏庭ですが、今年はきゅうりは3株、トマト3種、Squash,Swiss Chardなどと植えています。この
Squashはラベルの写真をみててっきりきゅうりかと思って買って、良く見たら違うものという、私の粗忽さの結果です。Squashは小さいうちに収穫してもう食べ始めています。きゅうりはもう2週間もしたら、初収穫ができそうです。トマトはあと1ヶ月くらいくらいでしょうか。旅行に行く前にすべてDrip Sytemをやり代えておきましたので、私たちのいない間も自動灌水のため、勝手に成長していました。パティオの屋根の下にある観葉植物も暖気のせいか、どんどん成長しています。ここでは、手動ですが、霧を噴霧する装置もつけていますので、気温も多少調節できます。
果樹のほうも、長十郎、20世紀、フジはもう実がついて、見るごとに大きくなっていっています。レモンは昨日収穫しましたが、200個くらいできていました。これをどう処理するか、いま考えています。ジュースを絞って、冷凍するというのがいいアイデアかと今はおもっています。薩摩みかんは、花が終り小指の先ほどの実がついています。去年はワイフが調子にのって、実のついた枝も差別無く大量に剪定したという「事件」があり、今年は彼女に、はさみを持ってこの木には近づいてはいけないと言い渡しております。
科学肥料は使うので、有機農法とはいえませんが、殺虫剤は0の栽培ですから、普通の店で買うよりも、健康的といえるかもしれませんね。また、やはり弦や木で熟した果実というのは、やはりおいしさが違うように思います。毎日、サラダをお昼の弁当に持っていくワイフは、自家栽培の野菜、果物には目が無くなってきているようす。私の釣ってくる虹鱒も調理のあと、このサラダの実となっていて、よくも飽きずに毎日、虹鱒がたべられるものだと、私は感心しています。
さて、今週末にはまたPerchingに出かける予定です。あの湖の虹鱒はシーズンも終りに近づいています。通年で虹鱒の放流はしていますが、夏の間は水温の低い深場ですごすため、遠投距離の範囲からはずれてしまいます。7月から9月までは鯰の放流がありますが、この釣りについては、現在検討中です。鯰はどうも釣り味がちがいちょっとなあと素直に踏み出せない部分があります。
さて裏庭ですが、今年はきゅうりは3株、トマト3種、Squash,Swiss Chardなどと植えています。この
Squashはラベルの写真をみててっきりきゅうりかと思って買って、良く見たら違うものという、私の粗忽さの結果です。Squashは小さいうちに収穫してもう食べ始めています。きゅうりはもう2週間もしたら、初収穫ができそうです。トマトはあと1ヶ月くらいくらいでしょうか。旅行に行く前にすべてDrip Sytemをやり代えておきましたので、私たちのいない間も自動灌水のため、勝手に成長していました。パティオの屋根の下にある観葉植物も暖気のせいか、どんどん成長しています。ここでは、手動ですが、霧を噴霧する装置もつけていますので、気温も多少調節できます。
果樹のほうも、長十郎、20世紀、フジはもう実がついて、見るごとに大きくなっていっています。レモンは昨日収穫しましたが、200個くらいできていました。これをどう処理するか、いま考えています。ジュースを絞って、冷凍するというのがいいアイデアかと今はおもっています。薩摩みかんは、花が終り小指の先ほどの実がついています。去年はワイフが調子にのって、実のついた枝も差別無く大量に剪定したという「事件」があり、今年は彼女に、はさみを持ってこの木には近づいてはいけないと言い渡しております。
科学肥料は使うので、有機農法とはいえませんが、殺虫剤は0の栽培ですから、普通の店で買うよりも、健康的といえるかもしれませんね。また、やはり弦や木で熟した果実というのは、やはりおいしさが違うように思います。毎日、サラダをお昼の弁当に持っていくワイフは、自家栽培の野菜、果物には目が無くなってきているようす。私の釣ってくる虹鱒も調理のあと、このサラダの実となっていて、よくも飽きずに毎日、虹鱒がたべられるものだと、私は感心しています。
さて、今週末にはまたPerchingに出かける予定です。あの湖の虹鱒はシーズンも終りに近づいています。通年で虹鱒の放流はしていますが、夏の間は水温の低い深場ですごすため、遠投距離の範囲からはずれてしまいます。7月から9月までは鯰の放流がありますが、この釣りについては、現在検討中です。鯰はどうも釣り味がちがいちょっとなあと素直に踏み出せない部分があります。
ホーバート
仕事はしなくてはいけない。鱒も釣らなくてはいけない。Perchもつらなくてはいけない。息子の帰国の予定変更の手伝いをしなくてはいけない。 まあ、というわけでよく遊び、よく働く?生活を最近は楽しんでいます。釣りで歩く距離がかせげたせいか、最近の検診では血圧 79-115と体調もいいです。しかし、心は若者でも、体はやはり寄る年波のせいで、先週の末にふくらはぎの肉離れを起こしてしまいました。坂を駆け上がっている途中に突然コブラ返しのきつい奴がやってきたという状態で、びっこをひきひき車までもどったのですが、もういけませんでしたね。さいわい、左足でしかも軽症のようで、毎日回復にはむかっています。
さて、ホーバートですが、ここでは4泊しました。泊まったのはこの町の山の手にあるBed & Breakfastでしたが、うしろのBはなにもありませんでした。ワイフがインターネットで調べて予約をして、料金も支払済みでした。さて、この町にシドニーからやってきて、エアポートシャトルにのって、近くでおろしてもらったわけですが、暗くはなるし、スーツケースは持ったままだし、タクシーは見えないしということで、若干の問題がありました。ようやくタクシーを拾ってついたら、鍵がLock Boxにはいっている、そのコードはこれというメモがあり、鍵を入手して自分達の部屋にやっとたどりつきました。宣伝文句では町まで10分ということでしたが、これは下山の場合で登山の時には20分歩度かかります。うそではないが100%正直でもないというのが本当のところでしょうね。
まあ、次の日にみたら、外に大きな看板がたっていて、売り家であることもわかり、どうも商売も最後だから、できるだけ手をかけないでという雰囲気がいっぱいでしたね。
ここでの思い出といえば、Wineglass Bayという上から見たらワイングラスのような形をした入り江ともう一つは土曜日のマーケットとPort Arthurです。Wineglass Bayは若いお兄ちゃんがガイドのバックパッカーむけの津アでトヨタのハイエースのマイクロバスで出かけました。年齢でいうと私たちの次に若いのは30代の前半という幅のあるグループ。あちこちのハイキングが盛り込まれているのですが、一番最後のは、途中で勘弁してもらいました。ホーバートから130キロくらい車で行くのですが、このフリーウエイの道端は野生の動物の屍骸で死屍累々、50体くらいはあったと思います。カラスがつついていたりして、あんまり気持ちがいいものではなかったのですが、これは夜行性の動物で、車の直前の飛び出してこられると避けきれないで轢いてしまうということのようです。私たちも帰り道のワロビーが車の前の飛び出してきて危うく轢きそうになりました。
Port Arhturは19世紀のイギリスがつくった、一大矯正施設のあとです。囚人がこの国に本国から送られてきたわけですが、その中で札付きのなると、この施設に送られるという制度であったそうです。アメリカの制度で言うとMaximum Security Prisonというものに匹敵すすかとおもいます。この施設が注目に値するのは、「囚人の矯正そして社会復帰」と言う概念にそってつくられた世界初めての施設がここであったと言う事です。脱獄が困難な、ほぼ島といっていいように本島とのつながりがくびれているここでは、産業革命という後押しもあって、製材所、鉱山、造船所といった囚人を労働力とする工場、施設がありました。
囚人達は刑期が満了しても、本国に帰ることはできずに、オーストラリアに自由人として留まる事が要求され、本国にかえるには、刑期満了のほかに、完全な恩赦(Complete Pardon}が必要であったと言います。ハンカチを結んで島流しというような記述をみると、時代が違うとは言えちょっとやりきれない思いもしました。ここは、Greylineのツアーで行きました。
土曜日の野天の市場は、まあそんなにすごいと思うようなものではありませんでした。San JoseのFree
Marketのほうが見ごたえがあるかと、そんな感じでした。地元で生産している、炭酸飲料やお菓子などの
味見もしてみましたが、おいしいけど、ダントツと言う感じはしませんでした。
前のツアーで顔なじみになった人とまた違うツアーで会うというようなことがオフシーズンの小さな町の観光ではおきるのですが、私たちは日本からやってきた、若い女性二人連れと話をする機会があり、彼女たちはバースでのWorking Holidayのあとの旅行中で数日後には帰国するというようは話でした。彼女達と話をしてみて、日本の若い女性たちがどんどん外国のでるというのは、日本の将来にとってとてもよいことのように思いました。経験の総和の量が日本の外国を見る目の質を転化する日がいつか来ると思いたいところです。
さて、ホーバートですが、ここでは4泊しました。泊まったのはこの町の山の手にあるBed & Breakfastでしたが、うしろのBはなにもありませんでした。ワイフがインターネットで調べて予約をして、料金も支払済みでした。さて、この町にシドニーからやってきて、エアポートシャトルにのって、近くでおろしてもらったわけですが、暗くはなるし、スーツケースは持ったままだし、タクシーは見えないしということで、若干の問題がありました。ようやくタクシーを拾ってついたら、鍵がLock Boxにはいっている、そのコードはこれというメモがあり、鍵を入手して自分達の部屋にやっとたどりつきました。宣伝文句では町まで10分ということでしたが、これは下山の場合で登山の時には20分歩度かかります。うそではないが100%正直でもないというのが本当のところでしょうね。
まあ、次の日にみたら、外に大きな看板がたっていて、売り家であることもわかり、どうも商売も最後だから、できるだけ手をかけないでという雰囲気がいっぱいでしたね。
ここでの思い出といえば、Wineglass Bayという上から見たらワイングラスのような形をした入り江ともう一つは土曜日のマーケットとPort Arthurです。Wineglass Bayは若いお兄ちゃんがガイドのバックパッカーむけの津アでトヨタのハイエースのマイクロバスで出かけました。年齢でいうと私たちの次に若いのは30代の前半という幅のあるグループ。あちこちのハイキングが盛り込まれているのですが、一番最後のは、途中で勘弁してもらいました。ホーバートから130キロくらい車で行くのですが、このフリーウエイの道端は野生の動物の屍骸で死屍累々、50体くらいはあったと思います。カラスがつついていたりして、あんまり気持ちがいいものではなかったのですが、これは夜行性の動物で、車の直前の飛び出してこられると避けきれないで轢いてしまうということのようです。私たちも帰り道のワロビーが車の前の飛び出してきて危うく轢きそうになりました。
Port Arhturは19世紀のイギリスがつくった、一大矯正施設のあとです。囚人がこの国に本国から送られてきたわけですが、その中で札付きのなると、この施設に送られるという制度であったそうです。アメリカの制度で言うとMaximum Security Prisonというものに匹敵すすかとおもいます。この施設が注目に値するのは、「囚人の矯正そして社会復帰」と言う概念にそってつくられた世界初めての施設がここであったと言う事です。脱獄が困難な、ほぼ島といっていいように本島とのつながりがくびれているここでは、産業革命という後押しもあって、製材所、鉱山、造船所といった囚人を労働力とする工場、施設がありました。
囚人達は刑期が満了しても、本国に帰ることはできずに、オーストラリアに自由人として留まる事が要求され、本国にかえるには、刑期満了のほかに、完全な恩赦(Complete Pardon}が必要であったと言います。ハンカチを結んで島流しというような記述をみると、時代が違うとは言えちょっとやりきれない思いもしました。ここは、Greylineのツアーで行きました。
土曜日の野天の市場は、まあそんなにすごいと思うようなものではありませんでした。San JoseのFree
Marketのほうが見ごたえがあるかと、そんな感じでした。地元で生産している、炭酸飲料やお菓子などの
味見もしてみましたが、おいしいけど、ダントツと言う感じはしませんでした。
前のツアーで顔なじみになった人とまた違うツアーで会うというようなことがオフシーズンの小さな町の観光ではおきるのですが、私たちは日本からやってきた、若い女性二人連れと話をする機会があり、彼女たちはバースでのWorking Holidayのあとの旅行中で数日後には帰国するというようは話でした。彼女達と話をしてみて、日本の若い女性たちがどんどん外国のでるというのは、日本の将来にとってとてもよいことのように思いました。経験の総和の量が日本の外国を見る目の質を転化する日がいつか来ると思いたいところです。
メルボルン
ここでは5泊しました。まえにもお話したように、ここでの泊まりはInternational House(College)のなかの、New Buildingと呼ばれる建物のなかにある来客用のアパートでした。50平方メートルの1Bedroomで、台所つき、居間には応接セットもあり、なかなか快適でした。Bathroomは車椅子でも入れるようにつくられ、広々としたものでした。息子が住んでいる寮の建物とは目と鼻の先であるいて30秒、便利なところです。この寮のほかの学生と話す機会がありましたが、やはりこの留学生の両親が尋ねてきた時にはこのアパートを活用したそうです。私たちの泊まったもののほかに2-Bedroomのもっと広いものもあるようです。
ワイフが一番楽しみにしていたのは、やはり息子の元気な姿をみることで、飛行場からバスに乗りその市中のターミナルで迎えに来た息子と再会しました。スポーツをしていないせいかすこし肉がついたようでした。意気軒昂な様子で、これまでの体験などの話を交換しつつ大学に市電でたどりつきました。この大学は市内ですがはずれの方にあり(キャンパスは複数)彼のCollegeはキャンパスから歩いて10分くらい離れたところにあります。300人くらいの学生が一緒に住み、食事をする学生集団の単位のCollegeとしては、新参者で、1953年の創立だそうです。息子が住んでいるのは円筒形の建物で、外側が部屋になっていて、中心に近いところはエレベーター、階段、トイレ、バスの間取りです。息子の部屋はたたみの単位だと7畳くらい、一人部屋でした。部屋に小さなシンクがついているのは六本木のIH(国際文化会館)と同じでした。
学生が40000人いると言うUniversity of Melbourneは確かに大型の大学でした。敷地が平べったいので、感じとしてはUC Davis風かとも思いましたが、新旧の建物が混在してるものの、ゆったりとしているのが印象的でした。ここの学生会館でも食事をしましたが、なかなかの美味でした。敷地の両側の道に市電が走っているので、通学にはとても便利なところのようです。この大学は3年制で、留学生の人気専攻は商学、経営学、工学と言ったところ、インドネシア、中国、マレーシアあたりから華僑の子弟を中心として、大量の学生が留学しているそうです。一説には、大学は独立採算のために、高額の授業料を徴収できる
留学生を積極的に勧誘しているとか、、、、
息子によると、交換留学生にたいしても大学から、移民申請についてのお知らせがあり、ポイント制の移民選抜をしているこの国では、他の大学はどうかしりませんが、Uni 似限って言えば、留学生は移民リクルートの対象なのかもしれません。
さて、大学以外のお話としては、見物先は二つでしょうか、一つはクイーン ヴィクトリア マーケット
これは大きいです。2000店が出店しています。食料から衣料まで、暇つぶし、お土産探しには最適です。もう一つは、Phillip Islandのペンギン マーチ。これは数日の漁のあと夜、仲間と砂浜に帰ってくる親ペンギンの見物です。身長30センチほどのペンギンたちが波間からあらわれて、雛のまつ巣までヨチヨチ歩く姿を見る事ができますが、見る方はスポーツ観戦の階段状の席にすわり、静かに、静かに見守ります。あとは移民博物館も見ごたえがあります。
Ossieは、人懐っこいと言われているようですが、私もこれを体験しました。この町を流れている川があり、その橋の上では、移民たちの歴史と出身国のデータの恒久的な展示物があります。日本からは5000人強の人たちが移民しています。さて、ちょうど夕刻の帰宅時にこの国別のアイルランドの掲示を見ていたら、私と年恰好のかわらない人が話しかけてきて、1780-- Convicts記載を指差して、「これが俺のご先祖」「Irishは社会の一番下から這い上がらなきゃならなかったんだ。」との言。私が「アメリカの歴史のなかでも同じような経験をしたようですね。」と言うと「でも今じゃ平等さ。」" I am glad to meet you."と握手をして去っていきました。
もう一件は、繁華街で息子の写真をとろうとした瞬間に通りがかりのカップルの男のほうが、息子の隣にたちどまり、肩をくんで「はいチーズ」。仕立てのいいコートを着たパワーカップルと見受けられましたが、ひょうきんなところがありますね。
この町からうけた私の感じは、アジア系の人たちがおおい、学生を大事にする町。University of Melbouneは、いい加減にもMelbourne University とも呼ばれていて、市民の間の略称ではUni(ユニ)ですね。今はどうか知りませんが、私が学生のころの昔は京大に電話をすると、「大学です」と交換手がこたえたといいます。それと同じ感覚でしょうか。準備がいりますが、日本からの留学先として、一考の余地があるようにも思います。
ワイフが一番楽しみにしていたのは、やはり息子の元気な姿をみることで、飛行場からバスに乗りその市中のターミナルで迎えに来た息子と再会しました。スポーツをしていないせいかすこし肉がついたようでした。意気軒昂な様子で、これまでの体験などの話を交換しつつ大学に市電でたどりつきました。この大学は市内ですがはずれの方にあり(キャンパスは複数)彼のCollegeはキャンパスから歩いて10分くらい離れたところにあります。300人くらいの学生が一緒に住み、食事をする学生集団の単位のCollegeとしては、新参者で、1953年の創立だそうです。息子が住んでいるのは円筒形の建物で、外側が部屋になっていて、中心に近いところはエレベーター、階段、トイレ、バスの間取りです。息子の部屋はたたみの単位だと7畳くらい、一人部屋でした。部屋に小さなシンクがついているのは六本木のIH(国際文化会館)と同じでした。
学生が40000人いると言うUniversity of Melbourneは確かに大型の大学でした。敷地が平べったいので、感じとしてはUC Davis風かとも思いましたが、新旧の建物が混在してるものの、ゆったりとしているのが印象的でした。ここの学生会館でも食事をしましたが、なかなかの美味でした。敷地の両側の道に市電が走っているので、通学にはとても便利なところのようです。この大学は3年制で、留学生の人気専攻は商学、経営学、工学と言ったところ、インドネシア、中国、マレーシアあたりから華僑の子弟を中心として、大量の学生が留学しているそうです。一説には、大学は独立採算のために、高額の授業料を徴収できる
留学生を積極的に勧誘しているとか、、、、
息子によると、交換留学生にたいしても大学から、移民申請についてのお知らせがあり、ポイント制の移民選抜をしているこの国では、他の大学はどうかしりませんが、Uni 似限って言えば、留学生は移民リクルートの対象なのかもしれません。
さて、大学以外のお話としては、見物先は二つでしょうか、一つはクイーン ヴィクトリア マーケット
これは大きいです。2000店が出店しています。食料から衣料まで、暇つぶし、お土産探しには最適です。もう一つは、Phillip Islandのペンギン マーチ。これは数日の漁のあと夜、仲間と砂浜に帰ってくる親ペンギンの見物です。身長30センチほどのペンギンたちが波間からあらわれて、雛のまつ巣までヨチヨチ歩く姿を見る事ができますが、見る方はスポーツ観戦の階段状の席にすわり、静かに、静かに見守ります。あとは移民博物館も見ごたえがあります。
Ossieは、人懐っこいと言われているようですが、私もこれを体験しました。この町を流れている川があり、その橋の上では、移民たちの歴史と出身国のデータの恒久的な展示物があります。日本からは5000人強の人たちが移民しています。さて、ちょうど夕刻の帰宅時にこの国別のアイルランドの掲示を見ていたら、私と年恰好のかわらない人が話しかけてきて、1780-- Convicts記載を指差して、「これが俺のご先祖」「Irishは社会の一番下から這い上がらなきゃならなかったんだ。」との言。私が「アメリカの歴史のなかでも同じような経験をしたようですね。」と言うと「でも今じゃ平等さ。」" I am glad to meet you."と握手をして去っていきました。
もう一件は、繁華街で息子の写真をとろうとした瞬間に通りがかりのカップルの男のほうが、息子の隣にたちどまり、肩をくんで「はいチーズ」。仕立てのいいコートを着たパワーカップルと見受けられましたが、ひょうきんなところがありますね。
この町からうけた私の感じは、アジア系の人たちがおおい、学生を大事にする町。University of Melbouneは、いい加減にもMelbourne University とも呼ばれていて、市民の間の略称ではUni(ユニ)ですね。今はどうか知りませんが、私が学生のころの昔は京大に電話をすると、「大学です」と交換手がこたえたといいます。それと同じ感覚でしょうか。準備がいりますが、日本からの留学先として、一考の余地があるようにも思います。
Perching
また行ってきました。結果は晩御飯、4回は刺身がいけると言うものでした。いつもの香港からの相棒と一緒のつりでした。釣り場は前回と同じ砂浜でしたが、今回は崖下の砂浜まで降りていくのに、舗装された遊歩道ではなく、釣り場にちかい素人作りの道をとりました。私はここで釣りを始めたときには、この谷間の道しかなかったので、階段のあとは倒木の下の獣道のような小道を、辿ったものでした。ためしにこの入り口にいってみると、” Trail Washed Away, Do Not Enter " の看板がありました。
こういうときに引き返すかどうかで、その人の心の持ち方、大人加減というものが現れるのでしょうが、私たちは二人とも、体はオジン、心は少年ですのでもちろん、この道を降りていきました。急な坂には土をけづって造った階段もあり、その段差が10センチくらい違うところもあるというのが愛嬌でした。砂浜に出るところでは、30年前からあった、鉄製の階段がありましたが、寄る年波には勝てず、真ん中はさびていまって踏み抜きそうと言う状態でしたから、端をそろそろとおりて、最後の50センチは飛び降りて無事砂浜に着地です。
浜におりると、晴天で海の色は真っ青でしたが、風がつよく帽子が飛ばされそうでした。餌になる、Sand Crabを集め始めたら、どうも大型の脱皮したてのものがすくなく、小さなものだけ沢山あつまりました。この作業は、6インチx6インチx24インチの目の細かい金網をつけたかごを波が来るごとに水にいれたり、引き潮の時に引く波がカゴを通るようにむけておき、その前でツイストを踊って砂をほって下に隠れているCrabをかごに流し込むという「重労働」でなれない人は必ず、たまに来る大波にまで注意が及ばずに足元をとられて転倒するとい作業です。次の波が来る寸前にカゴを引き上げて、中身をたしかめ、脱皮したてのものをより分けて餌箱に入れます。
この餌集めが終わったのが、ちょうど満潮の2時間半くらい前で、さっそく投げ釣りをはじめると一投目から当たりがあり、幸先がよさそうでした。あとの1時間半くらいは入れ食いで、小さい魚も食いつくので、針にかからないものも多かったのですが、鱸が2匹(12インチと16インチ、法定の最小型 18インチ)をふくめて25匹の釣果、そのうちもって帰ったのは型のいい7匹でした。最後のほうは、もう満足度充分という感じで、希少な愉快、愉快の釣りを楽しむことができました。
人口500万人をこえる都市集中地区がら1時間少しのところにこんな釣り場が30年たっても色あせずにあるというのは、ちょっと驚きです。アウトドアーの経験をしてみると、遠隔地にいくほど、人々の自然に対するマナーがよくなるという傾向があるように思います。それと同じように、ウエイダーを身につけて、
20分のハイキングをして、波を被りながらの釣りをするという人たちの釣りマナーとして、将来の釣り資源を守りながら釣りをするという自律的な態度があると思いたいところです。
そういえば、マナーの話で思い出したのですが、あの湖でこんな事件があったそうです。それは、最近の虹鱒はなぜか早朝の暗いうちに餌に飛びつくという傾向があり、それに釣られて、釣り人も早朝出勤をはじてていましたが、この公園では夜10時から朝の5時までは「立ち入り禁止時間」です。ところが、この規則を守らずに4時半くらいから釣りをしていた不届きものがいて、ついに御用となったと言う事です。私も5時以降の釣りはしていたので、この御用になった釣り人たちが6時過ぎに帰る姿を見ているのですが、同情の念はゼロですね。きまり、約束をまもってするのがスポーツフィッシングですからね。
さて今日は、このくらいで。
こういうときに引き返すかどうかで、その人の心の持ち方、大人加減というものが現れるのでしょうが、私たちは二人とも、体はオジン、心は少年ですのでもちろん、この道を降りていきました。急な坂には土をけづって造った階段もあり、その段差が10センチくらい違うところもあるというのが愛嬌でした。砂浜に出るところでは、30年前からあった、鉄製の階段がありましたが、寄る年波には勝てず、真ん中はさびていまって踏み抜きそうと言う状態でしたから、端をそろそろとおりて、最後の50センチは飛び降りて無事砂浜に着地です。
浜におりると、晴天で海の色は真っ青でしたが、風がつよく帽子が飛ばされそうでした。餌になる、Sand Crabを集め始めたら、どうも大型の脱皮したてのものがすくなく、小さなものだけ沢山あつまりました。この作業は、6インチx6インチx24インチの目の細かい金網をつけたかごを波が来るごとに水にいれたり、引き潮の時に引く波がカゴを通るようにむけておき、その前でツイストを踊って砂をほって下に隠れているCrabをかごに流し込むという「重労働」でなれない人は必ず、たまに来る大波にまで注意が及ばずに足元をとられて転倒するとい作業です。次の波が来る寸前にカゴを引き上げて、中身をたしかめ、脱皮したてのものをより分けて餌箱に入れます。
この餌集めが終わったのが、ちょうど満潮の2時間半くらい前で、さっそく投げ釣りをはじめると一投目から当たりがあり、幸先がよさそうでした。あとの1時間半くらいは入れ食いで、小さい魚も食いつくので、針にかからないものも多かったのですが、鱸が2匹(12インチと16インチ、法定の最小型 18インチ)をふくめて25匹の釣果、そのうちもって帰ったのは型のいい7匹でした。最後のほうは、もう満足度充分という感じで、希少な愉快、愉快の釣りを楽しむことができました。
人口500万人をこえる都市集中地区がら1時間少しのところにこんな釣り場が30年たっても色あせずにあるというのは、ちょっと驚きです。アウトドアーの経験をしてみると、遠隔地にいくほど、人々の自然に対するマナーがよくなるという傾向があるように思います。それと同じように、ウエイダーを身につけて、
20分のハイキングをして、波を被りながらの釣りをするという人たちの釣りマナーとして、将来の釣り資源を守りながら釣りをするという自律的な態度があると思いたいところです。
そういえば、マナーの話で思い出したのですが、あの湖でこんな事件があったそうです。それは、最近の虹鱒はなぜか早朝の暗いうちに餌に飛びつくという傾向があり、それに釣られて、釣り人も早朝出勤をはじてていましたが、この公園では夜10時から朝の5時までは「立ち入り禁止時間」です。ところが、この規則を守らずに4時半くらいから釣りをしていた不届きものがいて、ついに御用となったと言う事です。私も5時以降の釣りはしていたので、この御用になった釣り人たちが6時過ぎに帰る姿を見ているのですが、同情の念はゼロですね。きまり、約束をまもってするのがスポーツフィッシングですからね。
さて今日は、このくらいで。
シドニー
ここでは、6泊しました。着いてから3泊、そして他を廻ってから3泊です。人口4.2百万の都市です。ホテルはSheraton by the parkという処で、見物には便利な立地でオペラハウスまで徒歩20分くらいのダウンタウンにあります。ちょうど、新宿の伊勢丹の向かいがホテルと言う感じて、ワイフもこの繁華街での体験を楽しんでいたようです。観光客がおおいのか、両替店がおおいのに驚きました。
たまたま、紀伊国屋書店がホテルから徒歩6,7分のところにあったので、行ってみましたが。日本語の書籍の値段はこちらの50%増し位の値段でした。日本からの輸入品の値段はこの50増しというのがルールのようで、ほかの品物でも同じような価格差がありました。
交通機関のパスを購入して、観光客用の周遊バス(乗り降り自在)に乗っては、あちこちを見て廻りました。この町は人口のわりに面積が大きいので、地上の交通機関のほかに、フェリー網が発達していて、専用の波止場からは、ラッシュ時には2.3分おきに船が出ているようでした。船の両方が舳先になっていて、スクリューも舵も前後にそろっているというフェリーもあり、波止場からはYターン無しで出発していきます、また、Water Taxiというボートも走っています。
色いろみたなかで、思い出の深いのが2箇所あり、一つはオペラハウスで、シドニーのシンボルマークともいえる帆の重なったような屋根をもつArt Centerです。ここでは、案内のついたツアーに参加して、内部も見て廻りました。この建築は壮大な、リスクの多い事業であったそうですが、これをやり遂げた先見の明というのはたいしたものだと感心しました。時代も、事業内容もちがいますが、日本では、時代の先取りと批判の中での建設と言う意味では後藤新平の国道の建設といったものが匹敵するかと感じました。
もう一つは The Rockとよばれる地区で、ここでも案内つきのツアーに行き、シドニーで一番古い集落の跡(現在でも建物は使用)の歴史を学びました。現在では、この地区は歴史遺産として保存されていますが、この保存を勝ち取るためには、州、市政府の再開発に反対する、学生、市民、労働組合の大衆運動があったといいます。労働党の議員もデモに参加して逮捕されるという事件もあり、1970年代のなかば、この国もゆれていたようです。
また、この湾岸の町は湾の両岸を結ぶ端がかかっていて、この橋の鉄骨の上をあるいて渡ることができます。路面のうえの放物線上になっている鉄骨をみると、引率された観光客の団体がみえます。私たちはこれには挑戦しませんでしたが、根元にある塔にはのぼりました。
オゾンの帯が薄いせいか、空の青さがぐんと濃いようにみえました。観光客向けのガイドブックをみると
日焼け止めクリームとつばの広い帽子は必携との注意がありましたが、いってみるとOssieたちは、クリームはわかりませんが、帽子を被っている人はあまり居ませんでした。学校では、校庭で遊んでいる生徒がこれは、例外なく野球帽のような制帽をかぶっていました。紫外線のダメージは子供の時のものが、大人になってからあらわれるのでしょうか。
このブログでは写真を使わないで、文字だけでなんとかやっていきたいと思っているのですが、旅行の話となるとなかなか難しいものですね。
たまたま、紀伊国屋書店がホテルから徒歩6,7分のところにあったので、行ってみましたが。日本語の書籍の値段はこちらの50%増し位の値段でした。日本からの輸入品の値段はこの50増しというのがルールのようで、ほかの品物でも同じような価格差がありました。
交通機関のパスを購入して、観光客用の周遊バス(乗り降り自在)に乗っては、あちこちを見て廻りました。この町は人口のわりに面積が大きいので、地上の交通機関のほかに、フェリー網が発達していて、専用の波止場からは、ラッシュ時には2.3分おきに船が出ているようでした。船の両方が舳先になっていて、スクリューも舵も前後にそろっているというフェリーもあり、波止場からはYターン無しで出発していきます、また、Water Taxiというボートも走っています。
色いろみたなかで、思い出の深いのが2箇所あり、一つはオペラハウスで、シドニーのシンボルマークともいえる帆の重なったような屋根をもつArt Centerです。ここでは、案内のついたツアーに参加して、内部も見て廻りました。この建築は壮大な、リスクの多い事業であったそうですが、これをやり遂げた先見の明というのはたいしたものだと感心しました。時代も、事業内容もちがいますが、日本では、時代の先取りと批判の中での建設と言う意味では後藤新平の国道の建設といったものが匹敵するかと感じました。
もう一つは The Rockとよばれる地区で、ここでも案内つきのツアーに行き、シドニーで一番古い集落の跡(現在でも建物は使用)の歴史を学びました。現在では、この地区は歴史遺産として保存されていますが、この保存を勝ち取るためには、州、市政府の再開発に反対する、学生、市民、労働組合の大衆運動があったといいます。労働党の議員もデモに参加して逮捕されるという事件もあり、1970年代のなかば、この国もゆれていたようです。
また、この湾岸の町は湾の両岸を結ぶ端がかかっていて、この橋の鉄骨の上をあるいて渡ることができます。路面のうえの放物線上になっている鉄骨をみると、引率された観光客の団体がみえます。私たちはこれには挑戦しませんでしたが、根元にある塔にはのぼりました。
オゾンの帯が薄いせいか、空の青さがぐんと濃いようにみえました。観光客向けのガイドブックをみると
日焼け止めクリームとつばの広い帽子は必携との注意がありましたが、いってみるとOssieたちは、クリームはわかりませんが、帽子を被っている人はあまり居ませんでした。学校では、校庭で遊んでいる生徒がこれは、例外なく野球帽のような制帽をかぶっていました。紫外線のダメージは子供の時のものが、大人になってからあらわれるのでしょうか。
このブログでは写真を使わないで、文字だけでなんとかやっていきたいと思っているのですが、旅行の話となるとなかなか難しいものですね。
夏休み -GREの準備
交換留学のため、学期にズレがあるので息子が期末のテストを終えるのが6月の中旬、このため今年はいつもより1ヶ月遅れの夏休みとなります。夏休みのリサーチプロジェクトの申請を大学にしていましたが、これは残念ながら、却下されました。そこで、プラン Bの一昨年までしていた、市のサマーキャンプのカウンセラーをするかということになり、担当者に連絡したところ、戻ってこれるなら採用すると言うことになりました。
メルボルン大学の公表された学期の予定では、6月の3日から28日までが期末テスト期間となっていたため、出発時に手配した帰りの飛行機は6月29日の便、しかし、彼の履修科目の最後のテストは実際には11日とわかったので、帰りの飛行機の予定を繰り上げて、サマーキャンプの初日に間に合うように調整しようと息子はしていました。
切符の手配をしたのは私たちで、その変更は息子がするというわけで彼から問い合わせ事項などがあり、電話で話しをしました。その会話の中で、GREの準備の話がでて、それもしなきゃということになり、いろいろ相談の結果、この夏の主眼はGREの対策ということになりました。そこで、かたやInternetで調べながら電話で相談して、結局はKaplanのGRE準備コースをとるということになり、登録、支払いをしてしまいました。一ヶ月のあいだに23時間の授業があり、1200ドル。オンラインのものもありますが、怠け者の息子は教室に缶詰にしたほうが良いと思いましたし、本人もそれを認めていました。
そこで、虫のいい話ですが、市のほうへはパートでいかがでしょうと、礼儀正しくお願いをするという仕儀となりました。
メルボルン大学の公表された学期の予定では、6月の3日から28日までが期末テスト期間となっていたため、出発時に手配した帰りの飛行機は6月29日の便、しかし、彼の履修科目の最後のテストは実際には11日とわかったので、帰りの飛行機の予定を繰り上げて、サマーキャンプの初日に間に合うように調整しようと息子はしていました。
切符の手配をしたのは私たちで、その変更は息子がするというわけで彼から問い合わせ事項などがあり、電話で話しをしました。その会話の中で、GREの準備の話がでて、それもしなきゃということになり、いろいろ相談の結果、この夏の主眼はGREの対策ということになりました。そこで、かたやInternetで調べながら電話で相談して、結局はKaplanのGRE準備コースをとるということになり、登録、支払いをしてしまいました。一ヶ月のあいだに23時間の授業があり、1200ドル。オンラインのものもありますが、怠け者の息子は教室に缶詰にしたほうが良いと思いましたし、本人もそれを認めていました。
そこで、虫のいい話ですが、市のほうへはパートでいかがでしょうと、礼儀正しくお願いをするという仕儀となりました。
快挙
息子の友達が新聞に載っていたので、記事を読んでみたら、驚きでした。彼は息子より学年が一つ上でPrincetonに進学しました。ことし卒業となるのですが、この彼が$250000のFellowship(研究者に与えられる奨学金)をある財団から獲得したと言う記事でした。
Biology専攻で、MathematicsのCertificateもありといった卒業のようですが、今後はMITの大学院でApplied Mathematicsの研究をする事になるそうです。お父さんもお母さんも大喜びだと思いますね。
高校では首席の卒業でしたが、Princetonのなかでも優秀な成績だったと聞いています。高校のときには
Medical Schoolに進学するのが彼の夢だったのですが、どうもBeautiful Mindの影響か数学者の道を
歩み始めるようです。
頭がいい上に努力家の彼は、成功するだろうと私も見込みをつけていましたが、この快挙、私までも嬉しくなりました。
Biology専攻で、MathematicsのCertificateもありといった卒業のようですが、今後はMITの大学院でApplied Mathematicsの研究をする事になるそうです。お父さんもお母さんも大喜びだと思いますね。
高校では首席の卒業でしたが、Princetonのなかでも優秀な成績だったと聞いています。高校のときには
Medical Schoolに進学するのが彼の夢だったのですが、どうもBeautiful Mindの影響か数学者の道を
歩み始めるようです。
頭がいい上に努力家の彼は、成功するだろうと私も見込みをつけていましたが、この快挙、私までも嬉しくなりました。
Backpackers in 5 star hotel
まずは私たちの旅にしかたについて、お話をしたいと思います。ツアーにはいろいろなPackageがあるわけですが、私の希望で一箇所に4日は滞在したいというものがあり、押し型のようなPackageでは収まらないので今回は航空券、ホテル、周遊クーポンなど自分達(ワイフが95%ですが)で用意をしました。正直なはなし息子の大学費用もあり、この旅行につかえるお金も限りがあり、前もって予算を計上しての旅行となりました。私の心積もりの金額と、実際に使った金額がほぼ一致していますので、上手くできた方だと思っています。
私たちは二人とも、贅沢なしの生活に慣れていますから、学食でたべるのも平気、学生の行く日本の定食屋風のレストランでも平気ですから、気楽なものです。大抵の食事をする場所では、私たちが一番年をとっていたと感じました。アメリカのモールにあるような、フードコートがあちこちにあり、これが、アメリカと違っておいしい処で、随分と活用しました。またここでは、夕方の4時過ぎには半額になり、夕食代二人で10ドルなんて日もありました。タクシーの代わりに路面電車や、シャトルやバスをつかったり、また歩いて随分あちこち廻りました。訪問した先の町は、中心街が比較的小さかったので、この方式で大丈夫でした。
まあ、だいたいの旅行の様式というのはこれでお分かりに成ったと思います。基本的には、25歳のBackpackerと変わらない旅で、泊まりだけが高級ホテルであったわけです。正直にいって、年をとると、寝袋は野外以外は勘弁してほしい、寝心地のいいベッドで寝たいという欲求がでてきます。
観光地向けの近距離ツアーにも数回参加しましたが、これは、年相応のGrayline Tourも行きましたし、 Backpakerむけの、私たち以外は息子と同じ年のような若者と一緒のTourにも行きました。これはハイキングも若者向けのコースで標高差100メートルくらいの登山道を何回も上がったり降りたりするものもあり、思っても見なかった「年寄りの冷や水」と言う言葉が頭の裏のほうで少しだけちらちらしました。ほんの少しだけです。でも、若者達は私たちに親切でとてもよくしてくれました。ヨーロッパからきている若者が多く、会話も興味深いものが多かったと思います。デンマークとオーストラリアの大学教育の違いといったような題材ですが、、、、このような、マイクロバスのツアーというのは、当たり外れがあるそうですが、ワイフのリサーチのおかげで楽しいものにあたりました。
シドニーでは、観光客向けのPassを買い求め、見物先のたずねました。3日間のものでしたが、最初の一日で元が取れたと言う優れものでした。また、この町では、電車とバスのPassも買い、結構使いでがあったと思います。
泊まったのは、ホテルのほかに、建前はB&Bですが、うしろのBはなしという宿泊所、また大学の訪問者用のアパート(築3年50平方m)というところで、B&Bの立地がすこし不便と言う事を除けば、どこも室内は大変快適なものであったと思います。
ひとつ持っていって本当に良かったと思ったのは、速乾性の下着です。パンツはシャワーのついでに洗っておくと次の日の朝には乾いていると言うわけで、この2着には重宝しました。REIで売っています。
US ドルが下落して、どうしようもなかったので、少し現金で置いておいた円をもっての旅行でした、でしたが、旅行の途中でこの円もAuドルに対して値下がりをしたようなので、為替については、予定換算率からみて差損がすこしといった調子でしょうね。
もしも読者の方の中でオーストラリアの観光旅行をしたいと言うご希望がある方がいらっしゃるなら、もし可能であれば、オフシーズンの5月はなかなかいいと思いました。飛行機代を筆頭として、色いろなところでディスカウントがあるし、行列もありません。気候的には、私たちの比喩でいえば、サンフランシスコの
気候にこの時期は似ているようです。
では今日をこの辺で
私たちは二人とも、贅沢なしの生活に慣れていますから、学食でたべるのも平気、学生の行く日本の定食屋風のレストランでも平気ですから、気楽なものです。大抵の食事をする場所では、私たちが一番年をとっていたと感じました。アメリカのモールにあるような、フードコートがあちこちにあり、これが、アメリカと違っておいしい処で、随分と活用しました。またここでは、夕方の4時過ぎには半額になり、夕食代二人で10ドルなんて日もありました。タクシーの代わりに路面電車や、シャトルやバスをつかったり、また歩いて随分あちこち廻りました。訪問した先の町は、中心街が比較的小さかったので、この方式で大丈夫でした。
まあ、だいたいの旅行の様式というのはこれでお分かりに成ったと思います。基本的には、25歳のBackpackerと変わらない旅で、泊まりだけが高級ホテルであったわけです。正直にいって、年をとると、寝袋は野外以外は勘弁してほしい、寝心地のいいベッドで寝たいという欲求がでてきます。
観光地向けの近距離ツアーにも数回参加しましたが、これは、年相応のGrayline Tourも行きましたし、 Backpakerむけの、私たち以外は息子と同じ年のような若者と一緒のTourにも行きました。これはハイキングも若者向けのコースで標高差100メートルくらいの登山道を何回も上がったり降りたりするものもあり、思っても見なかった「年寄りの冷や水」と言う言葉が頭の裏のほうで少しだけちらちらしました。ほんの少しだけです。でも、若者達は私たちに親切でとてもよくしてくれました。ヨーロッパからきている若者が多く、会話も興味深いものが多かったと思います。デンマークとオーストラリアの大学教育の違いといったような題材ですが、、、、このような、マイクロバスのツアーというのは、当たり外れがあるそうですが、ワイフのリサーチのおかげで楽しいものにあたりました。
シドニーでは、観光客向けのPassを買い求め、見物先のたずねました。3日間のものでしたが、最初の一日で元が取れたと言う優れものでした。また、この町では、電車とバスのPassも買い、結構使いでがあったと思います。
泊まったのは、ホテルのほかに、建前はB&Bですが、うしろのBはなしという宿泊所、また大学の訪問者用のアパート(築3年50平方m)というところで、B&Bの立地がすこし不便と言う事を除けば、どこも室内は大変快適なものであったと思います。
ひとつ持っていって本当に良かったと思ったのは、速乾性の下着です。パンツはシャワーのついでに洗っておくと次の日の朝には乾いていると言うわけで、この2着には重宝しました。REIで売っています。
US ドルが下落して、どうしようもなかったので、少し現金で置いておいた円をもっての旅行でした、でしたが、旅行の途中でこの円もAuドルに対して値下がりをしたようなので、為替については、予定換算率からみて差損がすこしといった調子でしょうね。
もしも読者の方の中でオーストラリアの観光旅行をしたいと言うご希望がある方がいらっしゃるなら、もし可能であれば、オフシーズンの5月はなかなかいいと思いました。飛行機代を筆頭として、色いろなところでディスカウントがあるし、行列もありません。気候的には、私たちの比喩でいえば、サンフランシスコの
気候にこの時期は似ているようです。
では今日をこの辺で
戻りました。
現在、時差調整中です。今回の旅はQuantasの飛行機のせいかあまり疲れませんでした。エコノミーの席が747の機内で3+4+3と並んでいて、今までより一席すくなく、前の席とのスペースも広く、個人スペースがすこし広いようでした。
ワイフが私たちは”Backpackers in 5 star hotel"ね、と言っていましたが、まさにそのようなスタイルの旅でした。観光先やそこで見たものといったものについては、機会があるごとにお話していきたいと思います。
シドニー、メルボルン、ホーバート(タスメニア)の三箇所をたずねましたが、私が持った一番の感想は、私が見た限りのこの国では、若者が元気なところだと言う事です。また、豊かさから来るゆとりが、いろいろなところで見られ、なかなか民度の高い国だというのが実感です。
アメリカと比べると、歴史的に奴隷制度という影が無かったせいか、全体により明るい社会という感じがします。もちろん、アボロジニーの人たちと、ヨーロッパ人たちとの葛藤の歴史は、北海道のアイヌの人たちと和人、アメリカの入植者とNative Americanといった関係と近似したものがあります。しかし、この国ではアボロジニーにたいして、政府が陳謝し、「正常化」にむけて歩みはじめているそうです。
シドニー、メルボルンでは、アジア系の人たちが多いことに驚きました。話している言葉もお国の言葉が多く、一世達あるいは、訪問者、留学生たちが多いのでしょう。観光地にいくと、掲示板の言語は英語、中国語(北京)ハングルそして日本語でした。
オーストラリア英語は、べつにそんなに変わらないじゃないかというのが、私の感想です。私にとっては、耳がなれたら、Texanと同じくらい聞き難いというか、理解するのはそんなに難しくないといった程度のちがいでした。How you going? =How you doring?というのが挨拶ですが、このくらいは想像力の範囲以内ですからね。
面白いと思ったのは、息子がオーストラリアの言い回しを知らずに身につけてしゃべるので、笑ってしまったことでした。また、彼によると、Ossieの学生が、アジアからの留学生とつきあっていると、その英語の方言的な言い回しの影響をうけて、その言い方で話すようになるとか。文化の波というのは、相互作用をするようですね。
今日はこれくらいにして、続きは次回に。
ワイフが私たちは”Backpackers in 5 star hotel"ね、と言っていましたが、まさにそのようなスタイルの旅でした。観光先やそこで見たものといったものについては、機会があるごとにお話していきたいと思います。
シドニー、メルボルン、ホーバート(タスメニア)の三箇所をたずねましたが、私が持った一番の感想は、私が見た限りのこの国では、若者が元気なところだと言う事です。また、豊かさから来るゆとりが、いろいろなところで見られ、なかなか民度の高い国だというのが実感です。
アメリカと比べると、歴史的に奴隷制度という影が無かったせいか、全体により明るい社会という感じがします。もちろん、アボロジニーの人たちと、ヨーロッパ人たちとの葛藤の歴史は、北海道のアイヌの人たちと和人、アメリカの入植者とNative Americanといった関係と近似したものがあります。しかし、この国ではアボロジニーにたいして、政府が陳謝し、「正常化」にむけて歩みはじめているそうです。
シドニー、メルボルンでは、アジア系の人たちが多いことに驚きました。話している言葉もお国の言葉が多く、一世達あるいは、訪問者、留学生たちが多いのでしょう。観光地にいくと、掲示板の言語は英語、中国語(北京)ハングルそして日本語でした。
オーストラリア英語は、べつにそんなに変わらないじゃないかというのが、私の感想です。私にとっては、耳がなれたら、Texanと同じくらい聞き難いというか、理解するのはそんなに難しくないといった程度のちがいでした。How you going? =How you doring?というのが挨拶ですが、このくらいは想像力の範囲以内ですからね。
面白いと思ったのは、息子がオーストラリアの言い回しを知らずに身につけてしゃべるので、笑ってしまったことでした。また、彼によると、Ossieの学生が、アジアからの留学生とつきあっていると、その英語の方言的な言い回しの影響をうけて、その言い方で話すようになるとか。文化の波というのは、相互作用をするようですね。
今日はこれくらいにして、続きは次回に。