CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

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文藝 2020 冬
 
前から気になっていた。
この雑誌のタイトルに惹かれていた。
いや、違うな。この系統の雑誌を一度は買ってみたかった。それがおそらく正直な気持ちだろう。だけども、長い間、購入は控えていた。雑誌を購入するということは自分の中では少しハードルが高いものだった。雑誌というものは、ある概念の総称だ。漫画だったら少年週間ジャンプだったりマガジンだったりアフタヌーンだったりといった大きなくくりの中で一つにまとめるものが雑誌だ。そのひとまとめになったものからさらに抽出すると個別の作品となる。ファッション雑誌もまたしかり。文芸に興味があってもその雑誌を買うべきとは至らず、その中にある一つの本を買った方がいいのだろうと思っていた。本は装丁も含めて本となる。雑誌もおそらくそうであろうし、僕にとっては本はインテリアの一つであったので、雑誌も必然的にそう考えられていた。◯月号という背表紙はどうしてもインテリアとしてブサイクに見えていた。もちろん、数冊、数十冊連続ものとして購入すれば室内を彩るにふさわしいよそおいを見せてくれるかもしれない。でも、本当にそれほどの冊数を購入するのか、甚だ疑わしい。ということで、雑誌を買うことを逡巡していた。また、どこに焦点を定めればいいのかわからなかった点も購入に待ったをかけていた理由だ。スバルか、文藝か、文春か。多すぎる選択肢は購入意欲を失わせるものだ。そんな風に数年もの長い間、本当に心を落ち着けて自分の心の中を覗くと、”買いたいなぁ”という心が向こう側からも自ずと語りかけてくるのだが、理屈を並び立てて抑圧していた。昨日、その文藝を購入した理由はなんだったのだろう。いっときの気の迷いとしか言いようがない。とはいえ、気の迷いというものは人間を人間たらしめるもので、それが故に人間は予想以上の動きができるといっても過言ではないだろう。失敗は成功の母。急がば回れ。ちょっと違うか。まぁいい。とにかく、僕はこの雑誌を人生で初めて購入した。
 
文藝なので、当然文藝が掲載されているわけだが、掲載される文章が引用でない限り、この文藝とは現代文藝と表するのがいいだろうと僕は思う。もちろん、文学でもいいのだけど。おっと、文藝と文学の違いはまたどこかで議論しないといけないだろうけども今回の主旨はそこではないので省かせてもらう。現代文藝と言うからには、それに対するものが存在する。現代とは当然ある時系列を区分したものの一部であるとみなされるため、近代、中世、古代などと分類される。文藝・文学と芸術と科学や医学とでは、現代と近代の境目はばらけているだろうし異なって当然だ。文藝としての区分はいつか僕は無教養のためわからないが、文学としては夏目漱石、谷崎潤一郎などの大正が区切りかと思っている。しかし、現代の中でも川端康成や安部公房と、水と礫の作者などは同じ区分にカテゴライズしていいかと言われると言葉に詰まる。そうすると現代をさらに細分化して戦後現代とでも称しましょうか、それとも超現代か。この区分けを俯瞰するとこういったことは科学でも似たようなことだと思う。
とにかく、文藝には現代文藝が掲載されていたのであって、間違っても近代ではない。その中で「水と礫」、「星に帰れよ」「おもろかったらええねん」の三部を二日間の間に読んだ。読んだ順番も記載の通りである。
現代文学は深みがない。これは僕がずっと考えていることである。しかし、深みを持たせるには時間が必要である。ある程度文字数とも相関する。文字数が多ければ、それだけ深みを持たすことができる。文字数が少ないにもかかわらず深みを伴わせることができていれば僕はその著作を大層立派だと判定するだろう。文字数が短くなれば、それだけ表現できることが減るからだ。
水と礫は、クサーバとその家族に焦点を絞った構成になっていた。本人の話。息子、孫、父、祖父に至るまで話を掘り深めていた点が興味深い。しかし、掘り深めるといってもその深度が浅かった。繰り返される内容は読者を飽きさせないような配慮を感じたが、しかし、それでも飽き飽きするものだった。この家系図を彷彿とさせる物語は当然マルクス・ガブリエルの百年の記憶であり、それを簡単に想起させる。この感想自体は痛く平凡だろう。文章構成が輪唱のように重なり、しかし、それぞれが少しずつ異なる。その効果によって、僕ら読者は本の世界に入りやすくなったと思われる。ただ、浅い。内容が浅い。大体どんな本を読んでも感想というか何かを考えさせてくれるのだが、こういった現代作家はそれが浅い。東京と町の対比。旅と停留の対比。うーむ。よくわからない。
とごたごたと悪評しながら、「星に帰れよ」に移った。ひどい。これは文章になっていない。と僕は読み始めから読む気力を失っていた。読み終わった後も高校生が初めて作った文章を読んだ後のような、頑張って書いたねと、それを褒めるような気分になった。
多様性と順応性?いまどきの若者ってこんな感じなのかな、こういったことを書けるのも今を生きるものだけだからかなと肯定的に捉えようとするがそれが真実ではないことは明白のように僕には思う。なぜ、1300年前の李白の科白が胸を打つのか、いつの時代も同じだと何百年も前の文章を読んでも思う。そこから知ること、学ぶことがある。この超現代は本当にこれまでの1300年の人類史を覆すほど異端な感情を持って生活しているのか。もし、僕の感覚がおかしくて、現在を生きる高校生がこのような感情で生活しているとすれば、ここ数年の間で感情系に大きな変化が起きたということになりそうだ。そんなことあるのだろうか。やはり、悲しいことは悲しい、理解できないものは理解できない、それを表出するかしないかそこが異なるだけ。感想としては、登場人物が生きていないように見えた。
三作目、「おもろかったらええねん」。これはいい出来だった。
芸人を目指す二人。笑いを取る人というのは、「楽しさ」の象徴である。しかし、当然、楽しさだけでは人は構成されず、その裏側に「面白くなさ」もしっかりと存在している。むしろ、その面白くなさを隠すように面白さを前面に押し出す。強がりというか。この感情はおそらく普遍的で全員が持っている。特に「楽しい」の象徴に近い芸人を引き合いに出すのはいい技だ。僕は、自分がテレビに出演した時に水道橋博士がテレビの印象とは真逆に怖かったことが非常に印象に残っているし、もうかなり年をとったので、芸人もただの人だということは理解しているし、最近は象徴化は少し下火なように思う。でも、その象徴化された人間というものは世の中にたくさんいるし、日常生活ではむしろ顕著である。まるまるさんは面白いよね、いい人だよね、頑張ってるよね、賢いよね、人は人をこのような安易な言葉で括る。この点は「星に帰れよ」でも同じことを主張しようとしていると思う。このようなカテゴリー化に対抗できる人とできない人がいる。対抗できる人は、この暴力的な区分から勝手に逃れて、新たなカテゴリーに属したり、どこにも属さないという選択肢を取ることができる。だが、大部分は属してしまう。そして抜け出せない。何にも面白いことがないけれど、自分自身では生み出すことができないけれど、他人と協調して予想外なことを行うことで面白さを表現できる人間もいれば、自分自身で生み出す何かが面白い人間もいる。それらは異なる面白さなのだが、面白いカテゴリーでは同じになってしまう。そういった印象。


さて、話は逸れた。戻そう。
 
アンナ・カレーニナはアンナとヴロンスキー、リョービンとキティといった対比された二組に重きが置かれているといってもおかしくない。この二項対立は当然、僕があらゆる名著で指摘している刹那的肉体的である野蛮な本能による享楽と永続的精神的であり神聖な理性による満足の対立である。前者はアンナとヴロンスキーであり、後者はリョービンとキティである。さらに、トルストイはこの対立の中に男性と女性の対立を描きいれる。この男性論と女性論は今の時代からすると前時代的で、少しファミニズムの反論を買いそうであるが、女性らしさの優位点を特にキティによるニコライの臨終の世話に見ることができる。実は、それよりも前に男性のみ(カレーニン、ペスツォフ、オブロンスキー、コズヌイシェフ、トゥロフツィンなど)でフェミニズムについて議論しているシーンがある(P371-374)。ここにきちんと「問題はただ、婦人たちがはたしてこの義務を遂行する能力があるか、どうかにかかっていうようですね」とカレーニンが指摘しており、僕もそのように思うし、ただ単にフェミニズム推進を唄われるよりもよっぽど心に響く。そして、老公爵(誰のことだろう)の「わしは、産院に乳母として採用してもらえんので、かえって、圧倒され、屈服させられておるんですよ」とみんなを笑かし議論は終わる。しかし、この最後の発言も非常に身に沁みるのではないか。これこそ、僕が言いたかったことそのままだと思う。つまり、フェミニズムは女性の権利を主張するが一方男性が権利を虐げられている部分もあるのだ。こういった議論や思想を、登場人物を変えてトルストイは紹介してくれ、ドイツのビルディングス・ロマンと同じ形式だと思う(僕は教養小説といいたかったが意味が違う)。(だからこそ、本じゃなく映画でいいという阿保には辟易するのだ。どうして映画でこの教育を受けることができようか)さらに、トルストイの秀逸な手口はこういった机上の議論と対比して、この場合、フェミニズム理論と展開し男性とは女性とはということを論じる一方、実存する愛による男女の融合をキティとリョービンを用いて示してくる。さらに、二人のコミュニケーションを頭文字だけでやってのけるという表現は「議論の無益さ」を象徴しているように思い、より感動を覚える。そうして自分の頭の中は、論理が実践へとおきかわり、反対意見も同様に寛容に受け入れることができるようになる。これは、確かに魔の山でも同じように議論を盛り込んでいたし有効な手と思う。ベーコンの止揚と同じ概念に思えるからだ。また、対をなすものとしてさっと思い浮かぶのがドストエフスキーの地下室の手記、それからサルトルの嘔吐であり、それらは一人称によって議論を自分の中でのみ行う。これは反対意見もその中で挙げ連ねるのだが、いかんせん結局は自分の意見なので、僕は彼らに賛同するか反対するかという立場を負わさせることになる。
物語は中盤でリョービンとキティの結婚、そしてその後の生活に目が向けられるのだが、鍵括弧による心情の説明がきによって、見事にリョービンとキティの物事の受け取り方の違いを描き出し、これはニコライの死のシーン、それから夫婦喧嘩の発端も説明される。
 
死について、これは避けることができないテーマなのだろう。ニコライは結核で死んだんだっけと思いつつ、魔の山でも取り上げられた死、死はやはり至上の命題なのだろう。それが僕の生涯の研究テーマなんて本当に素晴らしいと思う。僕は、自分の著書でも死について書いているし、いろいろなところで死についてを考えてもいる。P271から始まるニコライの死の前触れを受けたリョービンの感情を受け、僕は死を区別しなければいけないのではないかと何となく思った。
それは他人の死と親愛なる人の死は違うということだ。
これは言われると当たり前である。他人の死は正直どうでもいいと言っても過言ではないし、憐憫の情を示す人は大勢いるけどもそれは欺瞞なのではないだろうか。と言いつつ、どこかの歌で「ブラウン管の外側で人の死を聞いて泣いた」という言葉を思い出し、これは自己内面の希薄性に伴った、感覚受容の拡大なのではないかと実は思っていた。技術者にはありがちなことであるが、例えば、長い棒を持ってかまどの中の茶碗の位置などを調整しているとまるで手が伸びたように感じ、長い棒の先の感覚を頭が認識することがある。これは、内視鏡手術や腹腔鏡手術でも同様であるし、動物実験時にピンセットでマウス脳の海馬を取り出している時も同じ感覚を感じる。このことは確かどこかで書かれていたはずだが身体の感覚受容の拡大というのではなかったか。そして、昔は告白とか人に意見をするとかいった大事なことは携帯電話やパソコンといった画面を通じて行うことは不適切のように感じていたけども、この拡大によって、電子機器の画面が身体の一部として認識されることもあるのではないかと思うのだ。つまりは携帯電話で、Lineで告白を受けても真の愛情を受け取ったように錯覚することができるのではないかということで、だからこそ、たかだか、ブラウン管の外側であっても他者を自己と認識しうるのではとも思うわけである。とはいえ、多くの人にはまだこの論説は受け入れられないだろうから、やはり、他人の死はあくまで他人なのだとしてみる。医療従事者に主眼を置くと、僕らは一般の人々と異なり、数え切れないほどの死に直面している。多くは老人であるが若い人もいる。長い時間をかけて死への準備が進んだ人もいれば、予期せず荼毘に付される人もいる。僕らは、彼女彼らを見て、当初は同情して悲しみ涙を流すが、長いこと同じ仕事を続け、前例を見つけるにつれ、予防線を貼るようになる。つまり、「この患者は死ぬ可能性がある」と自分に認識させ、なるべく準備期間を多く設けるのだ。そうすると、馴化反応が生じ、いざという時が来てもそれほどショックには受け取らない。馴化も僕の好きな理論の一つだが、不条理文学に代表されるペスト(今年はカミュのペストが売れたらしい。喜ばしいことだ。読んだ人とディスカッションしてみたい。と言いつつ個人的にはデフォーのペストの記憶の方が興味がある)でも馴化が事細かに記され、まさに今コロナウイルスのパンデミックの中で若者は馴化してしまっている。そのため、馴化という過程を経ることができない場合、悲しみは非常に大きくなることが想像される。アンナ・カレーニナの中では、実際に死亡したのはニコライしかまだいないが(下巻に譲るが)、アンナとヴロンスキーも死に瀕したことを記載しないといけない。しかし、ニコライの死の前触れは絶対的なものであり何か神聖な感情を受けるのにたいし、アンナとヴロンスキーは非常に浅薄に記されている、と僕は受け取った。
アンナの死の前触れは、医師(他人、しかもこの本では医師の権力はあまり強く書かれていない、つまり医師もわからないことがあること、予後を見誤ることが多く書かれている)の発言で「産褥熱だから99%助からない」と言っており、彼女は熱とうわ言と意識不明の状態で、脈拍さえほとんど絶えてしまったという描写がある。その前のアンナのカレーニンに対する饒舌はせん妄だろうしうわ言も特に死亡に影響はしないし、意識障害も同様なので、脈拍低下だけが気にかかるが、これはよくわからない。なぜなら、産褥熱はおそらくはブドウ球菌やレンサ球菌と言った皮膚常在菌による感染症だったであろうから、基本的に頻脈になるはずだからである。そのためこの脈拍が触れないということは血圧低下によるショック状態を意味する。とはいえ、橈骨動脈は大体収縮期血圧が80mmHgを超えないと触れないとされており、確かにこれより下の値はショックといい多臓器不全に至る可能性があるが、若い女性では元々低血圧の者もおり、なんともいえない。何れにしてもこの記載の数行後、翌朝になり、彼女は活気付いていることから、医学的観点からいえば、感染症の病態が治りつつあることを感じるのだ。これは、結核に侵されたニコライとは違う。ニコライの結核は当時治る見込みはほとんどなく、衰弱していくと思われるからだ。そして、面白いことは、この後のヴロンスキーのピストル自殺未遂である。僕は、この瞬間まで、否、中巻の終盤まで、彼のことをよく思っていないため、むしろ早々に死んで退場した方がいいと思っていた。しかし、お笑い種のように彼はこれに失敗し、元気な姿で逃避行するのだ。しかも、このピストル自殺を試みたことなど忘れてしまったかのようで、その後遺症もなければ何も普段と変わらない様子である。彼は彼女のために行なったこの行為を聖なるものと自分自身でもみなしていないようで、後半ではアンナを美しいと思いつつも鬱陶しさを感じていることを明確に示している。
さらに、このアンナとヴロンスキーの死への直面の前に、ニコライを描いていることが非常に美しい。そして、終盤で実際にニコライが息を引き取る時の描写がすごい。一番関心したのは、「まして病人の状態をくわしく調べてみようなどとは、とても考えもつかなかった。つまり、毛布の下に、兄のからだがどんな風に横たわっているのか、あのやせ細った脛や、腰や、背を、どんな風に曲げて寝ているのか、どうしたらそれをもっとぐあいよくすることができるのか、」こういった考えが全く思い浮かばなかった。というシーンである。この表現をできるか。しかし、これはまさに今でも多くの人が臨終に際した親族をみたときに思っていることに近いのではないかと思うのだ。僕ら医療従事者はその死に近い身体を診察することが常なのでこの考えは思い浮かぶし、そして実行するわけだが、確かに、「怖さ」が先に立つことが起こってもよく、さらにこれがリョービン(男)というところも興味深い。周知のように、この後、キティが彼ができないことをいとも簡単にやってのけ、死についての知識はないくせに死について誰よりも分かっているとというリョービンの記載からもキティの死への感じ方の格好よさを感じる。「神はその御業を賢者に隠して、幼児と知恵なきものに顕したまえり」P628で示される。
上巻を通じて、アンナとヴロンスキーに嫌悪感を覚えつつ、対してリョービンとキティを応援したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、徐々にアンナとヴロンスキーにも感情が移入されていっているようにも感じる。これも馴化なのか、いや、ヴロンスキーの中にも苦悩が見えるからだ。しかし、未だにアンナは僕にとって理解できない得体の知れないものである。いやいや、アンナを理解できないヴロンスキーに共感しているとも言える。女性目線でもそうなのか、女性には何か重要な視点があるのではないか、なんとなく、アンナはフェミニズムの魁のようにも見えるためそう思えてならない。そうそう、ヴロンスキーは将来を期待された青年だったという背景を蔑ろにせず彼のことを考察すると、これはアンナがファム・ファタルだといっても差し支えがないようにも感じる。まぁ、二人、ともに堕落するのはどうなのかとも思うが。
いずれにしても、僕の中でオススメ書物の上位にランクインしそうな印象は否めない。

 

アップしようとしたら、文字数オーバーだった。
考察の前の感想のようなもの
 
読書という習慣がつくにつれ、ものの考え方というものを考えるようになった。
小説を書くという趣味が高じるにつれ、文の作り方自体にも目がいくようになった。
自分を構成している大部分は生まれつきに、言い換えれば遺伝的に変えようがない根本原理としてもともと備わっているのではなく、環境要因によって型作られているのだろうという感情が非常に強くなる。これは、自分の研究にも追従することであろうし、そして、事実だと思う。遺伝性疾患の克服が為されれば、そのあとに多因子疾患、環境要因などによる影響を加味した研究が進められるのではないかと、もう数年以上考えているし、僕が今着手している酸素・グルコースにおける神経変性過程の解明というのは、環境要因の中で最もクリティカルかつ重要であることは言うまでもない。なぜ、この発想を自分の中の好きな定理の一つとして位置づけているのか、たまたま低酸素・低グルコースというテーマを与えられたからだろうか。いや、違う。テーマに固執したのは自分だ。
そして、この感覚の原因と考えは、記載した新世紀エヴァンゲリオンの考察に譲る。
とにかく、これまでに出会ってきた物事の多くに自分自身が影響を与えられていることは疑いがない。 これは承認論というらしい。
ちはやふるの中に、人生の主人公である君達もきっと誰かの物語のパーツだという原田先生の発言は、この他が自分に与える影響について、他に主眼を置いて論じたに過ぎない。
 
タイトルのアンナ・カレーニナは中巻でカレーニンに別れを告げ、離婚という当時のロシア社会では女性の立場を危うくする行為との間に揺れ、カレーニンはアンナの出産時の危篤を受け、離婚はせずに彼女を許している。そして、アンナは愛するヴロンスキーとともにモスクワから逃げるように去り、世界の名所を巡りながら生活をする。文学とは数多くの情報を有しているもので、僕らはトルストイの説明を読むことで自然と当時のロシアの社会や生活、考え方の基盤ということを知ることができる。当然、これらの情報は膨大である場合もあり受け取り方も様々で人それぞれの心の中に残るかどうか、それは不明である。また、この観点からの文学評論では、文学の役割というものは映画や観劇でも代替が可能となってしまう。アンナ・カレーニナを後輩に勧めた時、彼女は映画なら家にありますと言った。なんて浅薄で思慮の足りない人だろうと僕は心の中で思った。文学の良さをわかっていない人は本当にかわいそうだと心から思う。とはいえ、現代は文学離れが進んでおり、このコロナウイルスが流行した2020年、不要不急の外出が自粛され、テレワークが推奨され、自宅で過ごす時間が相対的に増加した、にもかかわらず、電子媒体を含む書籍の販売金額は前年度と比較して102%となっている。これは、増加していないと僕は受け取った。この媒体を書籍、雑誌、コミックと分けてくれているため、書籍のみの割合を計算すると、2019年の上半期は3,792億円、2020年の上半期は3,708億円とむしろ減っていることが分かる(電子書籍の方が安価な可能性はあるが結局差はないのだろう)。このことから、2020年、コロナウイルスの流行は全くもって人の本への欲求を高めなかったことがわかる。反対に、テレビ、YouTube、NetflixやAmazon primeなどの動画配信サービスなどが増加しているかどうかを調べる必要があるだろうが、おそらくは増加しているのではないだろうか。人々の本離れが進み、僕は時代に逆行して読書を永続的に行うことを心に決めているわけであるが、つい先日、同僚と読書について話した時に面白い意見を聞いた。僕は主に小説を彼に勧めていたのだが、彼は「小説を読むのは時間がかかる割に、得られるものが少ない」と語った。確かに彼の指摘の通り、小説は読むのに時間がかかる。現在読んでいるアンナ・カレーニナに絞ると大体10分で20ページぐらいを読むことができる。アンナ・カレーニナは三巻に渡る長編で、1900ページ程度あるので大体早く読んでも16時間程度の時間をさいている事になる。
 
彼に言わせると、この16時間に論文を読んだりしたほうが身のためになるというのだ。この指摘は正しい。そして僕は、人に本を勧めた時に返答される「読んだほうがいいのはわかるけど、読む時間がない」という自己弁護の発言よりも彼に澄んだ好意を抱いたのだ。自己弁護を進んで行う人々は僕に嫌われることを避け自分の心も偽り読むつもりもないのに時間のせいにしている。これは間違っていて、僕自身読む時間がないと常々思うわけであるが、物事に優先順位をつけなんとか読む時間を作る。夜、何をしているか。テレビを見ている時間がないか。他人の家庭をうかがい知ることができないので実際のところを知らないが、少なくとも僕は家に帰ると部屋の明かりをつけ、テレビの電源を入れ、なんの気もなしに賑やかな声に満たされるように部屋の空間を作る。そして、その無益な番組をこれまたぼんやりと意味もなく眺めるのだ。テレビはそれでも意味があるようにクイズ番組や教養を与えている、ないしは日頃の疲れを癒すように笑いを授けようと僕らの空虚な心に侵入し、囲い、縛り、小一時間はテレビの前から動けなくするのだ。僕の好きだった先生が二年前に逝去された折、先生の葬式で先生はこれまでテレビもろくに見る時間がなく忙しく過ごしていた、お亡くなりになる前の病院でこんなにテレビを見ることは初めてだと語られていた。その言葉に僕は感激し、努力する重要性を見出したわけだ。そして、この読書という時間はテレビをつけなければいいだけであることも知った。僕は、それ以外にも運動をしたりダンスの練習をしてみたりとここに記載する以上に本に費やす時間を取れていないことが事実で、実際に、1月1日からアンナ・カレーニナ(中)を読んでいると思うが、読み終わったのが24日ということがその証拠だ。この間に、違う本に浮気をすることもあるし、英語の勉強も挟んでいるしと趣味の時間の大半を読書に使用しているわけではないが、少なくとも上の計算からはたかだか6時間しか読んでいないことが推察される。すなわち、平日はほとんど読んでいないと言っても過言ではない。できれば、もっと持続的に時間を使用したいのだが、それは仕事などの関係上やはり難しい。とはいえ、おもに三年前から読書感想文ないしは考えを書くようになり、さっとEvernoteを見返すと2017年7月16日に「考え方」を書いたのが初めのように思われる。同年8月31日「ティファニーで朝食を」の感想を書いている。ここに、共依存について記載されており、また実存主義について書いていることが大変興味深い。そう思うと、約三年と半年、本の感想やら何やらを書いているのだろうと思い、継続は力なり、それこそが才能という金言に基づいて、これを続けようと思う。
 
アンナ・カレーニナ
レフ・トルストイ著
木村 浩 訳
 
2020年12月31日、医局で当直の傍、お気に入りのブックカバーにおさめられたこの文庫本を読んでいた。
ほんの数日前にディケンスの大いなる遺産を読み終わり、クリスマスの日に自分への何かのご褒美としてアンナ・カレーニナを上中下巻セットで購入した。買ったけど読まなくなるかもしれないというネガティブな感情はほとんど持ち合わせておらず、トルストイといえど読破できるだろうと勝手に思っていたし、立ち読みした時に数ページを一気に読めたので尚更そう思った。
読書メーターでは俗物のようと書かれている感想もあったし、ロシアの文豪というのにも興味があった。
ロシア文学はトルストイ、ドフトエフスキー、ツルゲーネフあたりが多分有名で、僕はドフトエフスキーの地下室の手記を日本語で読んで、ラダーシリーズでBrothers in Karamazovを読んだ程度しか知らなかった。どこかで、ロシア文学は冗長であると聞いたことがあるし、それはトルストイの戦争と平和のことだったように思う。あと、思い入れがあるのはウラジミール・ナボコフで、最初はおそらく、「テヘランでロリータを読む」だと思うけども、このロリータを映画で見て、いつか読んで見たいと思っている。まだそこには行き着いていないけども。
アンナ・カレーニナは英語で読む村上春樹というNHKのラジオ番組で紹介された村上春樹の著書、これも記憶はないのだけどおそらく「眠り」だと思うが、そこで辛島ディビットが紹介していたと思う。眠りに出てくる主人公の女性が深夜車で外に出て行き、車内でアンナ・カレーニナを読む。その時にはその意味をなんら感じることはできなかった。
だが、今はなんとなく意味があることを感じる。
さてと、大晦日という日は日本人にとって重要な日であることは間違いがない。記念日を大事にする僕にとってはそれはもう重要な日であり、年に一度しか実家に帰らない自分としては、本当に何もせずにゆっくりする時間であると思う。丁度の年越しの時間には例年本を読んでいるように最近は感じているけども、しかし、テレビという大衆娯楽と姪っ子という不変的な幸せを感受しつつ日々の疲れを癒すということになろう。今年は例年とは違う年だった。それは、仕事に関してということが最もであろう。
どこかの日記で書いてるかどうかわからないので、今ここに振り返らせていただくと、自分は研究を続ける中で新しいことを知ることが楽しいと感じ、どのようなメカニズムで働いているかを究明することに喜びがあることがわかった。しかしながら、今を持ってしても研究者として大成するかは不明であるし、論文を書くことは簡単であるかと思うけども重要な研究ができるかは自信がない。そうはいっても、恩師のいうことは正しく、要求は高く厳しい。僕はそれをのらりくらりとやり過ごす術を手に入れてしまっているのだけども、立派な研究者になりたいと思う一方、本とか美術とかプライベートに好きなことも同じようにやりたいと思ってしまう。しかし、医者としてあくせく働かされた2019年と比較すると明らかに2020年の方が充実していたと思うし、2019年はくだらない一年だったようにしか思えない。勉学よりも雑務に押しつぶされただけで自分自身成長した感じがなかったからだ。それに目標は全く達成されなかったし、つまらなかった。それも知的作業はほとんどなく、本当の雑務、生産性のない労働を強いる、それも、そういった労働が社会人として必要であるかのように上は主張するのだ。辟易している。2020年、しがらみが少なからず減ったが、それでも無駄なしがらみを強いてくるのが世の常で、そもそも彼らは後輩の心理を理解しようという感情は働いていないし、紋切り型の対応しかしない。使役だ。奴隷のようだ。その間僕は本当に奴隷のように何も考えずに時間が立つことを願っている。
対して、研究。これは非常に面白いことになってきている。というのも、僕は大学院生である一方、大学院生以上のことをしているように思うし、早々と論文はかける。当然、論文を書くことではなく良い研究をすることが目的であり、普遍的に末広がりでシンプルな研究がいい。それにはまだまだ自分は知識不足ということが事実ではあるが、それでもみちは見えてきている。問題は論文のintroductionやdiscussionなどをもっと書きたいが、戸惑っているのが現状である。
さて、今年の勉学のことはまた次回にする。年明け、明日か明後日か研究室にいる時にすることにして、本書である。
 
アンナ・カレーニナの出だしは、有名な「幸福な家庭は全て似通ったものであり、不幸な家庭は何かしら問題がある」といったセンテンスで始まる。その時点で僕の心を鷲掴みにしてしまった。浮気をして”しまった”オブロンスキーと妻ドリーの確執から始まる物語であるが、ヒロインは題名から分かる通りアンナなのだろうと思われる。そして、キティとそれを取り巻くリョーヴィンとヴロンスキーが登場する。僕はリョーヴィンとキティが好きだと思う一方、上巻の最初から最後までヴロンスキーを嫌いなままだった。なんというか、彼は享楽を追い求める頭が腐った世俗的人間にしか見えなかったからだ。同時に僕はヴロンスキー的人間として世の中にのさばっているほとんど全ての人間を毛嫌いしているのだと理解する。どの文学作品も精神か肉体か、享楽か敬虔か。この二項対立を持ち出し、常に僕は自分の信じるものを応援してしまう。ヴロンスキーを弁解、保護するとすれば、この時代のロシアの社交界、生活、男女の権利や階級、政治について考えを持っていなければいけないし、そういった時代背景の勉強を通じてヴロンスキーが悪いのではなく、その時代が女性を蔑ろにする環境を作り上げていると結論づけるかも知れないからだ。つまり、システムが悪く実行役の個人は悪くないのだ。この上巻では、最終章でキティが出会ったワーレンカによってフェミニズムとその対抗を見て取ることができた。僕は世俗的、刹那的、大衆的なものを否定しつつ、その世俗性の定義をしていなかったけれども、言語化するとそれは誰が見ても明らかなように単純だった。恋愛と肉体関係だったのだ。そのため、アンナとヴロンスキーの二人をけがらわしく野生的に感じ、とりわけアンナの行動と思想には辟易し恐ろしく感じたのだ。しかし、なぜ、これまでの文学でアンナのような人を見たという記憶がないのだろうか。これはバイアスによるものなのだろうかと考えてみる。類推するに、外見的に美しく処女性のある女性やファムファタル、男性の視点からみると魅力的だという女性、その側面しか見てなかったのかもしれない。当然、男性キャラクターを読むときには、女を手ごまにしてやろうという悪い側面と真に愛しているという精神の二つの側面を同時に見いだし、行間を読み、裏を感じることができていたのだろう。それはひとえに自分が男性だからである。しかし、女性については違った。おそらく女性については、その文章から表される事柄を表面的に言葉の意味通りにしか理解できていなかったのだろう。これは現実にも全く矛盾なく当てはまりそうだ。自分は女性が実際に表してくれる外面的なことしか理解していないということだ。言ってくれなきゃわからない状態なのだ。しかし、アンナ・カレーニナ(トルストイ)は二重括弧で内面を全てさらけ出すことによって、女性がどう考えてどう動いているかを描出してしまったので、僕はアンナが女がいかに醜いかということをしかと理解した。
そのために、女性に対して嫌悪感を抱いたのだ。こう書きながら矛盾というか一つの懸念が頭をよぎったので、それも書くことにする。トルストイは男性であり、すべからくこの世の生き物は男性と女性とどちらかの側面しか持たない(LGBTが例外という主張もあるだろうが、その時々で心はどちらかに傾いているだろう)、そのため、トルストイが書いた女性像は真の女性像かがわからない。それが問題だと思う。これを解決するためには、誰かトルストイを読んだことのある女性に意見を聞くことだ。普遍的女性の意識を知りたい。そう思っている。
ということで、アンナが夫に自分のブロンスキーヘの恋心を語るシーンなどは相当に気持ちが悪い得体の知れない怖さを僕は感じた。しかし、これも一つのテーゼであって、もしもこのシーンが男女逆であったらどうなのだろう。男性の潔さを感じることもあるのではないだろうか。なぜ、ジェンダーによってここまで受け取り方に違いが出るのだろうか。そう思った時にやはり背景が違うんだと感じた。そして、これこそフェミニズムの局面であり、このアンナ・カレーニナはロシア文学の恋愛小説である一方、女性解放の礎であるようにも読めた。もちろん、まだこれで三分の一なので、今後の展開がどうなるかによって話は変わってくる。
自分としてはキティが大変好きなのだが、それは、彼女の屈託のない明るさと処女性、彼女の世界への希望を感じるからであり、悩みながらも成長する彼女を応援したくもなるのである。しかし、それも変わってくる予感がなんとなくしている。
この作中に出てくる登場人物はどこかおかしいと思うところが実はあるが、オブロンスキートかカレーニン公爵とか。なぜその思想に至る乗っているところもドロドロした不倫物語のようにも思うけども、まだ回収されていない伏線(オブロンスキーの浮気相手、ワーレンカの元彼、アンナの妊娠と二人がどうするか(これは正直見たくない。嫌な気持ちしか湧きそうにない)。)があるので、後半は楽しみである。とは言いつつ、アンナの不倫性が自分の気持ちを沈め、女性への不信感をいただかせるので年越しにひたすら読む本として選んだのは間違えだったなあと後悔もしている。

 

勢いに乗って書いてしまい、過激になっていることを自覚しています。
 
久しぶりの新書。最後に新書を読んだのはいつだったか、記憶がないくらい。
ケーキを切れない非行少年とか、コロナ関連とか、応仁の乱とか、読もうかと思う本はあるけども、どれも陳腐で非凡性が見えなくて足が遠のいていた。この本もおそらくは自分一人では手に取ることすらなかったと思う。
いや、手にはとっていただろう。というのも、身近な問題に対する本というのは機会があれば読んだらいいと思われるからだ。だから、フランス文学評論のようなものからゲノム編集やら認知症やらは読んでもいいけど?と思うわけである。膨大なテーマがある中で、新書は二つに分けられる。自分の専門を簡易に記した本と、自分の専門ではないのに勝手気ままに感想を書いた本。前者は大部分において、自費出版というか、自分が書きたくて書いた本ということで熱意に溢れ、ショーペンハウアからすれば読むべき本。後者は書けと言われて書いた本で読むべきでない本。
 
僕はこの違いを区別することはできないので、誰かから勧められるという行為を大切にしている。
本とは、単純に知識を増強する媒体ではなく、本にある考え方を通して自分を高めるものだと考えているからだ。そのためには雑多なものを読む、つまり、自分に興味がないものも読む必要があるのだが、自分の世界に閉じこもっているとそういうわけにもいかず、選択された本はバイアスによっているため、他人の存在は非常に有用である。ということで、教えてもらった本。まず、本屋で見た時に、それでも買おうと思ったのは、彼女への好意でもあるし、交通新聞社新書という出版社に影響したところが多い。つまり、交通新聞社がだす本なのだから、熱意溢れた本だろうと、しかも、テーマは関西と阪急なので、この対象は関西人、特に阪急を利用する阪急沿線、神戸から京都までの住民なのだから、自分は、そのベン図にしっかり組み込まれているのである。さて、というわけで購入に至った。
著者は伊原薫という方で、この著者によって読み方を変えるという考え方は唾棄すべきである。これは、ナボコフがそう言っていたし、自分もそう思う。なんの背景もなく純粋にこの著書を楽しめるか、その観点で読むべきだ。つまり、彼が、ただの鉄道マニアなだけなんてことは気にする必要はないのだ。
そして、まっさらな状態で読み進めたのだが、、、
第一章の小林一三の考え方と阪急の発展についてはよくかけていた。当然彼の自伝に沿っているので、彼の考え方がきちんと記され、感動を引き起こし、阪急に対する理念と細やかな気遣いが描かれていた。しかし、伊原の著述力は驚くほど低く、また、装丁の仕方も悪い。阪急をなぜ特別と思うかという点に「乗客第一」を掲げるのだが、伊原は全く「読者第一」を掲げていない。挿入される写真は文章と関係がないところもあるし、関係があってもどれを指し示しているかわからないものもある。数字の羅列、漢字の羅列が多くてパッと頭に入って来ないし、新参者の関西居住者の僕にとっては名称はどうでもいい。むしろ、宝塚歌劇団のの発展、動物園のエピソードなどはかなり阪急の地域住民への愛情を感じ、それを思い起こすに十分たるだろうので、それを描き切るべきだ。が、それも叶っていない。
と言いつつも、第2章まではまだ許せる。彼の文を読んでいる間に気づくのは、彼の情報源が乏しすぎるということだ。彼は客観的に得られたデータと自分の背景からしか話していない。あくまで新聞の切り抜きをまとめただけのように感じる。
人という重要なファクターが第二章以降抜けている。これも彼の情報源の乏しさによると思われる。
小林一三がどう考え、こうだからこうした、これは失敗だった、この考えは自伝によっていて、リアリティがあり感情がこもり、僕の心を揺さぶったが、そのあとは事実の羅列だけ、時々あるとすれば、彼のなんとなくの心情が「感慨深い」やら「考えるところがある」やら、何も述べてないに等しい感想がおまけのようにつく。全くもって伊原の感情、なぜ阪急がすごいと思うかが表されていない。
数字を述べるのならグラフ化、図示、イラスト化をといった、現在のプレゼンテーションでは至極当然となっている知識もなく、文の羅列をしているが意味はない。これは、読者を軽んじている証拠であり、分かりにくい文を作り上げて何がいいと考えているのだろう。
本のタイトルは「阪急を別格と思うのは?」という命題を呈しているにも関わらず、その答えは最後まで出ていない。
仮に自分がこの本の著者となるのであれば、どうするかということを考える。まず第一に、関西人はなぜ阪急を別格だと思うのか、それを関西人の視点で述べる。対比としてその他の地域の人をあげる。関西には大きく三つ、細かくはそれ以外の鉄道もあるが、があるので、その中でも阪急を別格と思われている根拠をまず述べる。例えば、街角アンケートだったり、阪急、阪神、JRの売り上げと乗客数、これは阪急は電車のみでないという後から来る伏線にもなるので、電車の利用と附属施設の利用を分けて描く。さらに、大きく、阪急にはこんなにも多くの附属物があると紹介する。そして、これを阪神、JRと対比する。対比はもちろん、他社が優れていても良い。ここは事実のみを述べる。
この時点で、関西人が阪急を別格と思っていなければ、お話はおしまいである。しかし、おそらくなんらかの一長一短があるので、阪急の利点は何かしらあるはずであり、それをあげれば良い。そして、僕なら、著者の指摘する患者主体のサービスをここに繋げる。
ということで、患者主体のサービスが阪急の利点であると言おう。
その中で、電車本体、付属品、附属施設と幅を広げる。逆でもいいが。それは読みやすく理解しやすいところから手がける。
当然、データなんてものは無機室で愛情を感じず、感動を芽生えさせず、かたくて面白くもなんともないのだから、小林一三だけでなく、その他の社員や技術員にもフォーカスを当てる。そのために僕であれば、社員にインタビューや内情を聞くことを怠らない。というかそれが抜けているので彼の文章には全く現実感と感動がないのだ。こんなこと、文を書く人ならやって当然じゃないのか?それがプロじゃないかと思う。村上春樹だって、地下鉄サリン事件関係者を被疑者から被害者まで調べに調べ60人を超え、ようやくアンダーグラウンドを作ったというのに、彼よりも能力が低いと想像される(だって、村上春樹は世界の村上で、ノーベル文学賞候補なのだから)のに、村上春樹より書く熱意も努力も怠って、良本ができるわけがない。
そして、幅広がりにするために、この新書はあくまでさらりと感動秘話あたりを盛り込む方が正しい。細かい数値を知りたければそちらを読んでくださいと自署を紹介するようにしよう。つまりは、この新書を書く上で基礎情報を集め、その過程でもう一つのデータ集が作られる。そちらが細かく書いていますから、そちらを読んでくださいねと熱意を見せるわけである。いわゆる成書(聖書)を参照してください、だ。
しかし、この本は人が出て来ない。それが僕にとって面白くない点だった。
こういう駄作は読まないに限るし、駄作です、書けと言われたので書いたまでです、と銘打っていただきたい。