アンナ・カレーニナ(上) | CACHETTOID

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文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

アンナ・カレーニナ
レフ・トルストイ著
木村 浩 訳
 
2020年12月31日、医局で当直の傍、お気に入りのブックカバーにおさめられたこの文庫本を読んでいた。
ほんの数日前にディケンスの大いなる遺産を読み終わり、クリスマスの日に自分への何かのご褒美としてアンナ・カレーニナを上中下巻セットで購入した。買ったけど読まなくなるかもしれないというネガティブな感情はほとんど持ち合わせておらず、トルストイといえど読破できるだろうと勝手に思っていたし、立ち読みした時に数ページを一気に読めたので尚更そう思った。
読書メーターでは俗物のようと書かれている感想もあったし、ロシアの文豪というのにも興味があった。
ロシア文学はトルストイ、ドフトエフスキー、ツルゲーネフあたりが多分有名で、僕はドフトエフスキーの地下室の手記を日本語で読んで、ラダーシリーズでBrothers in Karamazovを読んだ程度しか知らなかった。どこかで、ロシア文学は冗長であると聞いたことがあるし、それはトルストイの戦争と平和のことだったように思う。あと、思い入れがあるのはウラジミール・ナボコフで、最初はおそらく、「テヘランでロリータを読む」だと思うけども、このロリータを映画で見て、いつか読んで見たいと思っている。まだそこには行き着いていないけども。
アンナ・カレーニナは英語で読む村上春樹というNHKのラジオ番組で紹介された村上春樹の著書、これも記憶はないのだけどおそらく「眠り」だと思うが、そこで辛島ディビットが紹介していたと思う。眠りに出てくる主人公の女性が深夜車で外に出て行き、車内でアンナ・カレーニナを読む。その時にはその意味をなんら感じることはできなかった。
だが、今はなんとなく意味があることを感じる。
さてと、大晦日という日は日本人にとって重要な日であることは間違いがない。記念日を大事にする僕にとってはそれはもう重要な日であり、年に一度しか実家に帰らない自分としては、本当に何もせずにゆっくりする時間であると思う。丁度の年越しの時間には例年本を読んでいるように最近は感じているけども、しかし、テレビという大衆娯楽と姪っ子という不変的な幸せを感受しつつ日々の疲れを癒すということになろう。今年は例年とは違う年だった。それは、仕事に関してということが最もであろう。
どこかの日記で書いてるかどうかわからないので、今ここに振り返らせていただくと、自分は研究を続ける中で新しいことを知ることが楽しいと感じ、どのようなメカニズムで働いているかを究明することに喜びがあることがわかった。しかしながら、今を持ってしても研究者として大成するかは不明であるし、論文を書くことは簡単であるかと思うけども重要な研究ができるかは自信がない。そうはいっても、恩師のいうことは正しく、要求は高く厳しい。僕はそれをのらりくらりとやり過ごす術を手に入れてしまっているのだけども、立派な研究者になりたいと思う一方、本とか美術とかプライベートに好きなことも同じようにやりたいと思ってしまう。しかし、医者としてあくせく働かされた2019年と比較すると明らかに2020年の方が充実していたと思うし、2019年はくだらない一年だったようにしか思えない。勉学よりも雑務に押しつぶされただけで自分自身成長した感じがなかったからだ。それに目標は全く達成されなかったし、つまらなかった。それも知的作業はほとんどなく、本当の雑務、生産性のない労働を強いる、それも、そういった労働が社会人として必要であるかのように上は主張するのだ。辟易している。2020年、しがらみが少なからず減ったが、それでも無駄なしがらみを強いてくるのが世の常で、そもそも彼らは後輩の心理を理解しようという感情は働いていないし、紋切り型の対応しかしない。使役だ。奴隷のようだ。その間僕は本当に奴隷のように何も考えずに時間が立つことを願っている。
対して、研究。これは非常に面白いことになってきている。というのも、僕は大学院生である一方、大学院生以上のことをしているように思うし、早々と論文はかける。当然、論文を書くことではなく良い研究をすることが目的であり、普遍的に末広がりでシンプルな研究がいい。それにはまだまだ自分は知識不足ということが事実ではあるが、それでもみちは見えてきている。問題は論文のintroductionやdiscussionなどをもっと書きたいが、戸惑っているのが現状である。
さて、今年の勉学のことはまた次回にする。年明け、明日か明後日か研究室にいる時にすることにして、本書である。
 
アンナ・カレーニナの出だしは、有名な「幸福な家庭は全て似通ったものであり、不幸な家庭は何かしら問題がある」といったセンテンスで始まる。その時点で僕の心を鷲掴みにしてしまった。浮気をして”しまった”オブロンスキーと妻ドリーの確執から始まる物語であるが、ヒロインは題名から分かる通りアンナなのだろうと思われる。そして、キティとそれを取り巻くリョーヴィンとヴロンスキーが登場する。僕はリョーヴィンとキティが好きだと思う一方、上巻の最初から最後までヴロンスキーを嫌いなままだった。なんというか、彼は享楽を追い求める頭が腐った世俗的人間にしか見えなかったからだ。同時に僕はヴロンスキー的人間として世の中にのさばっているほとんど全ての人間を毛嫌いしているのだと理解する。どの文学作品も精神か肉体か、享楽か敬虔か。この二項対立を持ち出し、常に僕は自分の信じるものを応援してしまう。ヴロンスキーを弁解、保護するとすれば、この時代のロシアの社交界、生活、男女の権利や階級、政治について考えを持っていなければいけないし、そういった時代背景の勉強を通じてヴロンスキーが悪いのではなく、その時代が女性を蔑ろにする環境を作り上げていると結論づけるかも知れないからだ。つまり、システムが悪く実行役の個人は悪くないのだ。この上巻では、最終章でキティが出会ったワーレンカによってフェミニズムとその対抗を見て取ることができた。僕は世俗的、刹那的、大衆的なものを否定しつつ、その世俗性の定義をしていなかったけれども、言語化するとそれは誰が見ても明らかなように単純だった。恋愛と肉体関係だったのだ。そのため、アンナとヴロンスキーの二人をけがらわしく野生的に感じ、とりわけアンナの行動と思想には辟易し恐ろしく感じたのだ。しかし、なぜ、これまでの文学でアンナのような人を見たという記憶がないのだろうか。これはバイアスによるものなのだろうかと考えてみる。類推するに、外見的に美しく処女性のある女性やファムファタル、男性の視点からみると魅力的だという女性、その側面しか見てなかったのかもしれない。当然、男性キャラクターを読むときには、女を手ごまにしてやろうという悪い側面と真に愛しているという精神の二つの側面を同時に見いだし、行間を読み、裏を感じることができていたのだろう。それはひとえに自分が男性だからである。しかし、女性については違った。おそらく女性については、その文章から表される事柄を表面的に言葉の意味通りにしか理解できていなかったのだろう。これは現実にも全く矛盾なく当てはまりそうだ。自分は女性が実際に表してくれる外面的なことしか理解していないということだ。言ってくれなきゃわからない状態なのだ。しかし、アンナ・カレーニナ(トルストイ)は二重括弧で内面を全てさらけ出すことによって、女性がどう考えてどう動いているかを描出してしまったので、僕はアンナが女がいかに醜いかということをしかと理解した。
そのために、女性に対して嫌悪感を抱いたのだ。こう書きながら矛盾というか一つの懸念が頭をよぎったので、それも書くことにする。トルストイは男性であり、すべからくこの世の生き物は男性と女性とどちらかの側面しか持たない(LGBTが例外という主張もあるだろうが、その時々で心はどちらかに傾いているだろう)、そのため、トルストイが書いた女性像は真の女性像かがわからない。それが問題だと思う。これを解決するためには、誰かトルストイを読んだことのある女性に意見を聞くことだ。普遍的女性の意識を知りたい。そう思っている。
ということで、アンナが夫に自分のブロンスキーヘの恋心を語るシーンなどは相当に気持ちが悪い得体の知れない怖さを僕は感じた。しかし、これも一つのテーゼであって、もしもこのシーンが男女逆であったらどうなのだろう。男性の潔さを感じることもあるのではないだろうか。なぜ、ジェンダーによってここまで受け取り方に違いが出るのだろうか。そう思った時にやはり背景が違うんだと感じた。そして、これこそフェミニズムの局面であり、このアンナ・カレーニナはロシア文学の恋愛小説である一方、女性解放の礎であるようにも読めた。もちろん、まだこれで三分の一なので、今後の展開がどうなるかによって話は変わってくる。
自分としてはキティが大変好きなのだが、それは、彼女の屈託のない明るさと処女性、彼女の世界への希望を感じるからであり、悩みながらも成長する彼女を応援したくもなるのである。しかし、それも変わってくる予感がなんとなくしている。
この作中に出てくる登場人物はどこかおかしいと思うところが実はあるが、オブロンスキートかカレーニン公爵とか。なぜその思想に至る乗っているところもドロドロした不倫物語のようにも思うけども、まだ回収されていない伏線(オブロンスキーの浮気相手、ワーレンカの元彼、アンナの妊娠と二人がどうするか(これは正直見たくない。嫌な気持ちしか湧きそうにない)。)があるので、後半は楽しみである。とは言いつつ、アンナの不倫性が自分の気持ちを沈め、女性への不信感をいただかせるので年越しにひたすら読む本として選んだのは間違えだったなあと後悔もしている。