アンナ・カレーニナ(中)の1 | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

 

アップしようとしたら、文字数オーバーだった。
考察の前の感想のようなもの
 
読書という習慣がつくにつれ、ものの考え方というものを考えるようになった。
小説を書くという趣味が高じるにつれ、文の作り方自体にも目がいくようになった。
自分を構成している大部分は生まれつきに、言い換えれば遺伝的に変えようがない根本原理としてもともと備わっているのではなく、環境要因によって型作られているのだろうという感情が非常に強くなる。これは、自分の研究にも追従することであろうし、そして、事実だと思う。遺伝性疾患の克服が為されれば、そのあとに多因子疾患、環境要因などによる影響を加味した研究が進められるのではないかと、もう数年以上考えているし、僕が今着手している酸素・グルコースにおける神経変性過程の解明というのは、環境要因の中で最もクリティカルかつ重要であることは言うまでもない。なぜ、この発想を自分の中の好きな定理の一つとして位置づけているのか、たまたま低酸素・低グルコースというテーマを与えられたからだろうか。いや、違う。テーマに固執したのは自分だ。
そして、この感覚の原因と考えは、記載した新世紀エヴァンゲリオンの考察に譲る。
とにかく、これまでに出会ってきた物事の多くに自分自身が影響を与えられていることは疑いがない。 これは承認論というらしい。
ちはやふるの中に、人生の主人公である君達もきっと誰かの物語のパーツだという原田先生の発言は、この他が自分に与える影響について、他に主眼を置いて論じたに過ぎない。
 
タイトルのアンナ・カレーニナは中巻でカレーニンに別れを告げ、離婚という当時のロシア社会では女性の立場を危うくする行為との間に揺れ、カレーニンはアンナの出産時の危篤を受け、離婚はせずに彼女を許している。そして、アンナは愛するヴロンスキーとともにモスクワから逃げるように去り、世界の名所を巡りながら生活をする。文学とは数多くの情報を有しているもので、僕らはトルストイの説明を読むことで自然と当時のロシアの社会や生活、考え方の基盤ということを知ることができる。当然、これらの情報は膨大である場合もあり受け取り方も様々で人それぞれの心の中に残るかどうか、それは不明である。また、この観点からの文学評論では、文学の役割というものは映画や観劇でも代替が可能となってしまう。アンナ・カレーニナを後輩に勧めた時、彼女は映画なら家にありますと言った。なんて浅薄で思慮の足りない人だろうと僕は心の中で思った。文学の良さをわかっていない人は本当にかわいそうだと心から思う。とはいえ、現代は文学離れが進んでおり、このコロナウイルスが流行した2020年、不要不急の外出が自粛され、テレワークが推奨され、自宅で過ごす時間が相対的に増加した、にもかかわらず、電子媒体を含む書籍の販売金額は前年度と比較して102%となっている。これは、増加していないと僕は受け取った。この媒体を書籍、雑誌、コミックと分けてくれているため、書籍のみの割合を計算すると、2019年の上半期は3,792億円、2020年の上半期は3,708億円とむしろ減っていることが分かる(電子書籍の方が安価な可能性はあるが結局差はないのだろう)。このことから、2020年、コロナウイルスの流行は全くもって人の本への欲求を高めなかったことがわかる。反対に、テレビ、YouTube、NetflixやAmazon primeなどの動画配信サービスなどが増加しているかどうかを調べる必要があるだろうが、おそらくは増加しているのではないだろうか。人々の本離れが進み、僕は時代に逆行して読書を永続的に行うことを心に決めているわけであるが、つい先日、同僚と読書について話した時に面白い意見を聞いた。僕は主に小説を彼に勧めていたのだが、彼は「小説を読むのは時間がかかる割に、得られるものが少ない」と語った。確かに彼の指摘の通り、小説は読むのに時間がかかる。現在読んでいるアンナ・カレーニナに絞ると大体10分で20ページぐらいを読むことができる。アンナ・カレーニナは三巻に渡る長編で、1900ページ程度あるので大体早く読んでも16時間程度の時間をさいている事になる。
 
彼に言わせると、この16時間に論文を読んだりしたほうが身のためになるというのだ。この指摘は正しい。そして僕は、人に本を勧めた時に返答される「読んだほうがいいのはわかるけど、読む時間がない」という自己弁護の発言よりも彼に澄んだ好意を抱いたのだ。自己弁護を進んで行う人々は僕に嫌われることを避け自分の心も偽り読むつもりもないのに時間のせいにしている。これは間違っていて、僕自身読む時間がないと常々思うわけであるが、物事に優先順位をつけなんとか読む時間を作る。夜、何をしているか。テレビを見ている時間がないか。他人の家庭をうかがい知ることができないので実際のところを知らないが、少なくとも僕は家に帰ると部屋の明かりをつけ、テレビの電源を入れ、なんの気もなしに賑やかな声に満たされるように部屋の空間を作る。そして、その無益な番組をこれまたぼんやりと意味もなく眺めるのだ。テレビはそれでも意味があるようにクイズ番組や教養を与えている、ないしは日頃の疲れを癒すように笑いを授けようと僕らの空虚な心に侵入し、囲い、縛り、小一時間はテレビの前から動けなくするのだ。僕の好きだった先生が二年前に逝去された折、先生の葬式で先生はこれまでテレビもろくに見る時間がなく忙しく過ごしていた、お亡くなりになる前の病院でこんなにテレビを見ることは初めてだと語られていた。その言葉に僕は感激し、努力する重要性を見出したわけだ。そして、この読書という時間はテレビをつけなければいいだけであることも知った。僕は、それ以外にも運動をしたりダンスの練習をしてみたりとここに記載する以上に本に費やす時間を取れていないことが事実で、実際に、1月1日からアンナ・カレーニナ(中)を読んでいると思うが、読み終わったのが24日ということがその証拠だ。この間に、違う本に浮気をすることもあるし、英語の勉強も挟んでいるしと趣味の時間の大半を読書に使用しているわけではないが、少なくとも上の計算からはたかだか6時間しか読んでいないことが推察される。すなわち、平日はほとんど読んでいないと言っても過言ではない。できれば、もっと持続的に時間を使用したいのだが、それは仕事などの関係上やはり難しい。とはいえ、おもに三年前から読書感想文ないしは考えを書くようになり、さっとEvernoteを見返すと2017年7月16日に「考え方」を書いたのが初めのように思われる。同年8月31日「ティファニーで朝食を」の感想を書いている。ここに、共依存について記載されており、また実存主義について書いていることが大変興味深い。そう思うと、約三年と半年、本の感想やら何やらを書いているのだろうと思い、継続は力なり、それこそが才能という金言に基づいて、これを続けようと思う。