アンナ・カレーニナ(中)の2 | CACHETTOID

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一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
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さて、話は逸れた。戻そう。
 
アンナ・カレーニナはアンナとヴロンスキー、リョービンとキティといった対比された二組に重きが置かれているといってもおかしくない。この二項対立は当然、僕があらゆる名著で指摘している刹那的肉体的である野蛮な本能による享楽と永続的精神的であり神聖な理性による満足の対立である。前者はアンナとヴロンスキーであり、後者はリョービンとキティである。さらに、トルストイはこの対立の中に男性と女性の対立を描きいれる。この男性論と女性論は今の時代からすると前時代的で、少しファミニズムの反論を買いそうであるが、女性らしさの優位点を特にキティによるニコライの臨終の世話に見ることができる。実は、それよりも前に男性のみ(カレーニン、ペスツォフ、オブロンスキー、コズヌイシェフ、トゥロフツィンなど)でフェミニズムについて議論しているシーンがある(P371-374)。ここにきちんと「問題はただ、婦人たちがはたしてこの義務を遂行する能力があるか、どうかにかかっていうようですね」とカレーニンが指摘しており、僕もそのように思うし、ただ単にフェミニズム推進を唄われるよりもよっぽど心に響く。そして、老公爵(誰のことだろう)の「わしは、産院に乳母として採用してもらえんので、かえって、圧倒され、屈服させられておるんですよ」とみんなを笑かし議論は終わる。しかし、この最後の発言も非常に身に沁みるのではないか。これこそ、僕が言いたかったことそのままだと思う。つまり、フェミニズムは女性の権利を主張するが一方男性が権利を虐げられている部分もあるのだ。こういった議論や思想を、登場人物を変えてトルストイは紹介してくれ、ドイツのビルディングス・ロマンと同じ形式だと思う(僕は教養小説といいたかったが意味が違う)。(だからこそ、本じゃなく映画でいいという阿保には辟易するのだ。どうして映画でこの教育を受けることができようか)さらに、トルストイの秀逸な手口はこういった机上の議論と対比して、この場合、フェミニズム理論と展開し男性とは女性とはということを論じる一方、実存する愛による男女の融合をキティとリョービンを用いて示してくる。さらに、二人のコミュニケーションを頭文字だけでやってのけるという表現は「議論の無益さ」を象徴しているように思い、より感動を覚える。そうして自分の頭の中は、論理が実践へとおきかわり、反対意見も同様に寛容に受け入れることができるようになる。これは、確かに魔の山でも同じように議論を盛り込んでいたし有効な手と思う。ベーコンの止揚と同じ概念に思えるからだ。また、対をなすものとしてさっと思い浮かぶのがドストエフスキーの地下室の手記、それからサルトルの嘔吐であり、それらは一人称によって議論を自分の中でのみ行う。これは反対意見もその中で挙げ連ねるのだが、いかんせん結局は自分の意見なので、僕は彼らに賛同するか反対するかという立場を負わさせることになる。
物語は中盤でリョービンとキティの結婚、そしてその後の生活に目が向けられるのだが、鍵括弧による心情の説明がきによって、見事にリョービンとキティの物事の受け取り方の違いを描き出し、これはニコライの死のシーン、それから夫婦喧嘩の発端も説明される。
 
死について、これは避けることができないテーマなのだろう。ニコライは結核で死んだんだっけと思いつつ、魔の山でも取り上げられた死、死はやはり至上の命題なのだろう。それが僕の生涯の研究テーマなんて本当に素晴らしいと思う。僕は、自分の著書でも死について書いているし、いろいろなところで死についてを考えてもいる。P271から始まるニコライの死の前触れを受けたリョービンの感情を受け、僕は死を区別しなければいけないのではないかと何となく思った。
それは他人の死と親愛なる人の死は違うということだ。
これは言われると当たり前である。他人の死は正直どうでもいいと言っても過言ではないし、憐憫の情を示す人は大勢いるけどもそれは欺瞞なのではないだろうか。と言いつつ、どこかの歌で「ブラウン管の外側で人の死を聞いて泣いた」という言葉を思い出し、これは自己内面の希薄性に伴った、感覚受容の拡大なのではないかと実は思っていた。技術者にはありがちなことであるが、例えば、長い棒を持ってかまどの中の茶碗の位置などを調整しているとまるで手が伸びたように感じ、長い棒の先の感覚を頭が認識することがある。これは、内視鏡手術や腹腔鏡手術でも同様であるし、動物実験時にピンセットでマウス脳の海馬を取り出している時も同じ感覚を感じる。このことは確かどこかで書かれていたはずだが身体の感覚受容の拡大というのではなかったか。そして、昔は告白とか人に意見をするとかいった大事なことは携帯電話やパソコンといった画面を通じて行うことは不適切のように感じていたけども、この拡大によって、電子機器の画面が身体の一部として認識されることもあるのではないかと思うのだ。つまりは携帯電話で、Lineで告白を受けても真の愛情を受け取ったように錯覚することができるのではないかということで、だからこそ、たかだか、ブラウン管の外側であっても他者を自己と認識しうるのではとも思うわけである。とはいえ、多くの人にはまだこの論説は受け入れられないだろうから、やはり、他人の死はあくまで他人なのだとしてみる。医療従事者に主眼を置くと、僕らは一般の人々と異なり、数え切れないほどの死に直面している。多くは老人であるが若い人もいる。長い時間をかけて死への準備が進んだ人もいれば、予期せず荼毘に付される人もいる。僕らは、彼女彼らを見て、当初は同情して悲しみ涙を流すが、長いこと同じ仕事を続け、前例を見つけるにつれ、予防線を貼るようになる。つまり、「この患者は死ぬ可能性がある」と自分に認識させ、なるべく準備期間を多く設けるのだ。そうすると、馴化反応が生じ、いざという時が来てもそれほどショックには受け取らない。馴化も僕の好きな理論の一つだが、不条理文学に代表されるペスト(今年はカミュのペストが売れたらしい。喜ばしいことだ。読んだ人とディスカッションしてみたい。と言いつつ個人的にはデフォーのペストの記憶の方が興味がある)でも馴化が事細かに記され、まさに今コロナウイルスのパンデミックの中で若者は馴化してしまっている。そのため、馴化という過程を経ることができない場合、悲しみは非常に大きくなることが想像される。アンナ・カレーニナの中では、実際に死亡したのはニコライしかまだいないが(下巻に譲るが)、アンナとヴロンスキーも死に瀕したことを記載しないといけない。しかし、ニコライの死の前触れは絶対的なものであり何か神聖な感情を受けるのにたいし、アンナとヴロンスキーは非常に浅薄に記されている、と僕は受け取った。
アンナの死の前触れは、医師(他人、しかもこの本では医師の権力はあまり強く書かれていない、つまり医師もわからないことがあること、予後を見誤ることが多く書かれている)の発言で「産褥熱だから99%助からない」と言っており、彼女は熱とうわ言と意識不明の状態で、脈拍さえほとんど絶えてしまったという描写がある。その前のアンナのカレーニンに対する饒舌はせん妄だろうしうわ言も特に死亡に影響はしないし、意識障害も同様なので、脈拍低下だけが気にかかるが、これはよくわからない。なぜなら、産褥熱はおそらくはブドウ球菌やレンサ球菌と言った皮膚常在菌による感染症だったであろうから、基本的に頻脈になるはずだからである。そのためこの脈拍が触れないということは血圧低下によるショック状態を意味する。とはいえ、橈骨動脈は大体収縮期血圧が80mmHgを超えないと触れないとされており、確かにこれより下の値はショックといい多臓器不全に至る可能性があるが、若い女性では元々低血圧の者もおり、なんともいえない。何れにしてもこの記載の数行後、翌朝になり、彼女は活気付いていることから、医学的観点からいえば、感染症の病態が治りつつあることを感じるのだ。これは、結核に侵されたニコライとは違う。ニコライの結核は当時治る見込みはほとんどなく、衰弱していくと思われるからだ。そして、面白いことは、この後のヴロンスキーのピストル自殺未遂である。僕は、この瞬間まで、否、中巻の終盤まで、彼のことをよく思っていないため、むしろ早々に死んで退場した方がいいと思っていた。しかし、お笑い種のように彼はこれに失敗し、元気な姿で逃避行するのだ。しかも、このピストル自殺を試みたことなど忘れてしまったかのようで、その後遺症もなければ何も普段と変わらない様子である。彼は彼女のために行なったこの行為を聖なるものと自分自身でもみなしていないようで、後半ではアンナを美しいと思いつつも鬱陶しさを感じていることを明確に示している。
さらに、このアンナとヴロンスキーの死への直面の前に、ニコライを描いていることが非常に美しい。そして、終盤で実際にニコライが息を引き取る時の描写がすごい。一番関心したのは、「まして病人の状態をくわしく調べてみようなどとは、とても考えもつかなかった。つまり、毛布の下に、兄のからだがどんな風に横たわっているのか、あのやせ細った脛や、腰や、背を、どんな風に曲げて寝ているのか、どうしたらそれをもっとぐあいよくすることができるのか、」こういった考えが全く思い浮かばなかった。というシーンである。この表現をできるか。しかし、これはまさに今でも多くの人が臨終に際した親族をみたときに思っていることに近いのではないかと思うのだ。僕ら医療従事者はその死に近い身体を診察することが常なのでこの考えは思い浮かぶし、そして実行するわけだが、確かに、「怖さ」が先に立つことが起こってもよく、さらにこれがリョービン(男)というところも興味深い。周知のように、この後、キティが彼ができないことをいとも簡単にやってのけ、死についての知識はないくせに死について誰よりも分かっているとというリョービンの記載からもキティの死への感じ方の格好よさを感じる。「神はその御業を賢者に隠して、幼児と知恵なきものに顕したまえり」P628で示される。
上巻を通じて、アンナとヴロンスキーに嫌悪感を覚えつつ、対してリョービンとキティを応援したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、徐々にアンナとヴロンスキーにも感情が移入されていっているようにも感じる。これも馴化なのか、いや、ヴロンスキーの中にも苦悩が見えるからだ。しかし、未だにアンナは僕にとって理解できない得体の知れないものである。いやいや、アンナを理解できないヴロンスキーに共感しているとも言える。女性目線でもそうなのか、女性には何か重要な視点があるのではないか、なんとなく、アンナはフェミニズムの魁のようにも見えるためそう思えてならない。そうそう、ヴロンスキーは将来を期待された青年だったという背景を蔑ろにせず彼のことを考察すると、これはアンナがファム・ファタルだといっても差し支えがないようにも感じる。まぁ、二人、ともに堕落するのはどうなのかとも思うが。
いずれにしても、僕の中でオススメ書物の上位にランクインしそうな印象は否めない。