文藝 2020 冬 | CACHETTOID

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Art is long, life is short.
一人の人生で得ることのできる知識や経験は、ひどくちっぽけなものですが、僕らは巨人の肩の上に立つことにより、遥か彼方まで見渡すことができます。
文学、芸術、神経科学、哲学、思考などを自由に展開していくブログです。

 

文藝 2020 冬
 
前から気になっていた。
この雑誌のタイトルに惹かれていた。
いや、違うな。この系統の雑誌を一度は買ってみたかった。それがおそらく正直な気持ちだろう。だけども、長い間、購入は控えていた。雑誌を購入するということは自分の中では少しハードルが高いものだった。雑誌というものは、ある概念の総称だ。漫画だったら少年週間ジャンプだったりマガジンだったりアフタヌーンだったりといった大きなくくりの中で一つにまとめるものが雑誌だ。そのひとまとめになったものからさらに抽出すると個別の作品となる。ファッション雑誌もまたしかり。文芸に興味があってもその雑誌を買うべきとは至らず、その中にある一つの本を買った方がいいのだろうと思っていた。本は装丁も含めて本となる。雑誌もおそらくそうであろうし、僕にとっては本はインテリアの一つであったので、雑誌も必然的にそう考えられていた。◯月号という背表紙はどうしてもインテリアとしてブサイクに見えていた。もちろん、数冊、数十冊連続ものとして購入すれば室内を彩るにふさわしいよそおいを見せてくれるかもしれない。でも、本当にそれほどの冊数を購入するのか、甚だ疑わしい。ということで、雑誌を買うことを逡巡していた。また、どこに焦点を定めればいいのかわからなかった点も購入に待ったをかけていた理由だ。スバルか、文藝か、文春か。多すぎる選択肢は購入意欲を失わせるものだ。そんな風に数年もの長い間、本当に心を落ち着けて自分の心の中を覗くと、”買いたいなぁ”という心が向こう側からも自ずと語りかけてくるのだが、理屈を並び立てて抑圧していた。昨日、その文藝を購入した理由はなんだったのだろう。いっときの気の迷いとしか言いようがない。とはいえ、気の迷いというものは人間を人間たらしめるもので、それが故に人間は予想以上の動きができるといっても過言ではないだろう。失敗は成功の母。急がば回れ。ちょっと違うか。まぁいい。とにかく、僕はこの雑誌を人生で初めて購入した。
 
文藝なので、当然文藝が掲載されているわけだが、掲載される文章が引用でない限り、この文藝とは現代文藝と表するのがいいだろうと僕は思う。もちろん、文学でもいいのだけど。おっと、文藝と文学の違いはまたどこかで議論しないといけないだろうけども今回の主旨はそこではないので省かせてもらう。現代文藝と言うからには、それに対するものが存在する。現代とは当然ある時系列を区分したものの一部であるとみなされるため、近代、中世、古代などと分類される。文藝・文学と芸術と科学や医学とでは、現代と近代の境目はばらけているだろうし異なって当然だ。文藝としての区分はいつか僕は無教養のためわからないが、文学としては夏目漱石、谷崎潤一郎などの大正が区切りかと思っている。しかし、現代の中でも川端康成や安部公房と、水と礫の作者などは同じ区分にカテゴライズしていいかと言われると言葉に詰まる。そうすると現代をさらに細分化して戦後現代とでも称しましょうか、それとも超現代か。この区分けを俯瞰するとこういったことは科学でも似たようなことだと思う。
とにかく、文藝には現代文藝が掲載されていたのであって、間違っても近代ではない。その中で「水と礫」、「星に帰れよ」「おもろかったらええねん」の三部を二日間の間に読んだ。読んだ順番も記載の通りである。
現代文学は深みがない。これは僕がずっと考えていることである。しかし、深みを持たせるには時間が必要である。ある程度文字数とも相関する。文字数が多ければ、それだけ深みを持たすことができる。文字数が少ないにもかかわらず深みを伴わせることができていれば僕はその著作を大層立派だと判定するだろう。文字数が短くなれば、それだけ表現できることが減るからだ。
水と礫は、クサーバとその家族に焦点を絞った構成になっていた。本人の話。息子、孫、父、祖父に至るまで話を掘り深めていた点が興味深い。しかし、掘り深めるといってもその深度が浅かった。繰り返される内容は読者を飽きさせないような配慮を感じたが、しかし、それでも飽き飽きするものだった。この家系図を彷彿とさせる物語は当然マルクス・ガブリエルの百年の記憶であり、それを簡単に想起させる。この感想自体は痛く平凡だろう。文章構成が輪唱のように重なり、しかし、それぞれが少しずつ異なる。その効果によって、僕ら読者は本の世界に入りやすくなったと思われる。ただ、浅い。内容が浅い。大体どんな本を読んでも感想というか何かを考えさせてくれるのだが、こういった現代作家はそれが浅い。東京と町の対比。旅と停留の対比。うーむ。よくわからない。
とごたごたと悪評しながら、「星に帰れよ」に移った。ひどい。これは文章になっていない。と僕は読み始めから読む気力を失っていた。読み終わった後も高校生が初めて作った文章を読んだ後のような、頑張って書いたねと、それを褒めるような気分になった。
多様性と順応性?いまどきの若者ってこんな感じなのかな、こういったことを書けるのも今を生きるものだけだからかなと肯定的に捉えようとするがそれが真実ではないことは明白のように僕には思う。なぜ、1300年前の李白の科白が胸を打つのか、いつの時代も同じだと何百年も前の文章を読んでも思う。そこから知ること、学ぶことがある。この超現代は本当にこれまでの1300年の人類史を覆すほど異端な感情を持って生活しているのか。もし、僕の感覚がおかしくて、現在を生きる高校生がこのような感情で生活しているとすれば、ここ数年の間で感情系に大きな変化が起きたということになりそうだ。そんなことあるのだろうか。やはり、悲しいことは悲しい、理解できないものは理解できない、それを表出するかしないかそこが異なるだけ。感想としては、登場人物が生きていないように見えた。
三作目、「おもろかったらええねん」。これはいい出来だった。
芸人を目指す二人。笑いを取る人というのは、「楽しさ」の象徴である。しかし、当然、楽しさだけでは人は構成されず、その裏側に「面白くなさ」もしっかりと存在している。むしろ、その面白くなさを隠すように面白さを前面に押し出す。強がりというか。この感情はおそらく普遍的で全員が持っている。特に「楽しい」の象徴に近い芸人を引き合いに出すのはいい技だ。僕は、自分がテレビに出演した時に水道橋博士がテレビの印象とは真逆に怖かったことが非常に印象に残っているし、もうかなり年をとったので、芸人もただの人だということは理解しているし、最近は象徴化は少し下火なように思う。でも、その象徴化された人間というものは世の中にたくさんいるし、日常生活ではむしろ顕著である。まるまるさんは面白いよね、いい人だよね、頑張ってるよね、賢いよね、人は人をこのような安易な言葉で括る。この点は「星に帰れよ」でも同じことを主張しようとしていると思う。このようなカテゴリー化に対抗できる人とできない人がいる。対抗できる人は、この暴力的な区分から勝手に逃れて、新たなカテゴリーに属したり、どこにも属さないという選択肢を取ることができる。だが、大部分は属してしまう。そして抜け出せない。何にも面白いことがないけれど、自分自身では生み出すことができないけれど、他人と協調して予想外なことを行うことで面白さを表現できる人間もいれば、自分自身で生み出す何かが面白い人間もいる。それらは異なる面白さなのだが、面白いカテゴリーでは同じになってしまう。そういった印象。