数時間で2014年が終わる。
今年も、たまに自分を甘やかしつつも、トータルとしては倦まず弛まず、努力できた
有休も、病気、手術、自己研鑽(セミナーなど)、友人の帰省など以外、バカンスなどに利用したことはない。

体調も、ほんの少しの成長も出来たのかも知れない。
もちろん、それは「自分が意識した部分」についてであって、
見えていない部分は、成長が滞っている可能性が高い。


ただ、残件は「睡眠」だけだと、体がハッキリ言っているのが感じ取れる。
食べ物も、加工品を食べると体が拒否するのも分かる。
腰痛防止のためにコーヒーを淹れるも、ほぼ飲めずに捨てる日々が続いた。
緑茶の方が断然美味しく感じる。
ただ、カフェインのせいか寝不足気味になるようなので、麦茶に変えた。



この、麦茶が、感動すら憶えるほど、美味しく感じるようになった

例えるならば、6年前に良く飲んでいたスタバのキャラメルマキアート並みに美味いのだ。
味覚が、脳内ホルモン/神経伝達物質 が本能を取り戻したかのように思う。
(実際、年越し蕎麦を数年ぶりに食ったら頭痛がした。低血糖症の典型症状だ)

幸せは遠くには決してない。足下に、必ずあるのだ。


そして、どうだろう。
この集中力・意欲・意見をハッキリと具申できる様。

もう一人の自分に引っ張られるかのように 日々感じながら
生活している


生きている


と、言える。


今の力は、
本当に、努力をした人への、神様からのプレゼントなのかもしれない
(もちろんオカルトでもないし、宗教など信じない。迷信も。)


ところで、頑張ろうとしてたときの曲を、久しぶりに聴くと涙が出そうになる。
体は憶えているんだなぁ・・・と。


休職したのが12月なのでこの時期はどうしても思うことがあるのだが、
年の瀬に一年を振り返るのも、今年で終わりにしたい。


長くなりましたが、御覧下さりありがとうございました。
皆様、どうぞ 良いお歳を・・・
最近、素敵な選TAXIというドラマを楽しく観ています

タイムトラベルものが好きなんですね。
昔はロス:タイム:ライフというドラマを観ていました。
BTTFにもハマりました。
時をかける少女も好きでした。

時間を取り戻すのは人類の永遠の夢であり
それを叶えるにはフィクションの中でさえ
相当な対価を必要とします。

習慣を変えて、未来を変える、とは
それに準ずるくらいの対価を必要とするのかもしれませんね

ちょっとヒトリゴトでした
※ちょっと抽象論になります。 結論もあるようでありません。
 ほとんど自分への備忘録というものかもしれません。
 読み流して貰えると幸いです


あるがままの世界を言葉に置き換えようとすると当然情報は欠落する。
(あるがままの世界→自分としての認識→意見・感想など)
そのフィルタリングのプロセスを(正確ではないのは承知の上で) 考えてみると・・・

-----------------------------------
加算無限の情報(数学記号でいう∀、アレフゼロ、∞) e.g.) 目の前に広がる大自然
 ↓ 感情・重要度・前知識などのフィルタリング
いくつかの情報(数学記号でいう∃、N )         おおざっぱに「自然公園」と捉えるなど
 ↓ 言葉・価値観・決めうち など
ひとつの情報(数学記号でいう∃!、1 or n)      自分好み/好みではない など
-----------------------------------
※ N:大きな数
   n:小さな数

という具合だろうか。


言葉を捨てること(しばらく使わないと決めるだけ)で、より目の前の現実に忠実になれることもある。

「考えるな、感じろ」とはこのことかも知れない。

新皮質/論理 で考えるのではなく、辺縁系/本能 で受け止めるようなものかも。

難しく考えるのではなく、本能のまま感じることで2度目のフィルタリングは小さくなるだろうし、
あるがまま受け止めようとおもうと2番目の情報量も増えるかもしれない。

物事をジャッジしないということは大切なのかもしれない。

本来、我々人間はもっと自由だったし、本能を引き出すには余り考えないことが大事かもしれない。

頭でっかちから脱却することで、むしろ賢くなれるということもあるのかも。

大切なのは2段階目を繰りかえすということではないかと。
例えば最寄り駅前に何があったか思い出すとうまく答えられない。
実際最寄り駅に行って観てみるとだいぶ予想と違う (極端にモノが少ない場合を除く)

日常生活でも同じように思う。
繰り返し「観よう」という意識が働いて観ない限り、2つめの情報欠落は抑えられない。
何度か観ているうちに情報が補完される。
スピードが速い人はセンスがあるように見えて、実際何も観られていないのではないだろうか
と思う。

俺は知人友人から「そんなことを考えてたのか」とか「その視点は無かった」と言われることがあるけれど、それは単に繰り返し、観察作業をしているだけ。トライアンドエラーのように。
それで2つめ(N)の情報が多く入手できてるにすぎないのだ。

これが自分と関係ないものであればどうと言うことはないけれど、
仲間や大事な人対象となると、、、困ったことにならないかと思う。

何度も注意して観る、相手の立場になって考えてみる、見方を変えてみる・・・
等をすることで、情報欠落が補完されないだろうか。








他人を攻撃する人がいる。
それは大抵自分に自信が無い人。
他人を攻撃することで「少なくともオレはあいつよりは優れている」と思いたい。
卵が先か鶏が先か…そういう人は絶対に強くなれない。
そういう手段に訴える限り。

そしてそれは
その人がちょっとクセがあるとか、悪い(悪そうに見える)人だとか、攻撃しても良い人(?)人だからということはなく、その攻撃する人は誰に対してもそうだろう。
特定の人だけを徹底して攻撃するのに他の人に攻撃しないのは何らかの理由があるからというだけ。
汚い自分を出せる、ワガママを出せる相手に遠慮なく出すだけで、決してその相手が特別な存在であるということに限らない。

なぜなら「生き方」(根っこ)がそうだから
「生き方」(根っこ)という根ざした問題だから。
そしてここからが肝心なところだが、それは
「甘え」と「他者依存」ということ。
(「いじめ」はそのさいたるものだろう)

「虐める人は、元いじめられっ子」とは千田琢哉氏の言葉。
まさにその通りだと思う。(甘え・他者依存・自己責任の回避・向上心の無さ・攻撃できる人に攻撃するなど…)


さて、ここからが本題。
自分がミスをしたとき、相手が悪いと思うだろうか。
例えば、まずは記録を付けて、それをゆっくりできる時間に読み直すような振り返りをきちんとできているだろうか。
理由を探し、遡るような手続きをしているだろうか。
そうするとミスから自分を見つめ直す事もできる


ところで、
うつに対して、うつのみにアプローチする人は、本質にたどり着かないように、周りを見ていて思う。


病気は、「そこがたまたま表出しただけで、全体的な疲労・生活習慣が根本にある」と考えるべきではないだろうか

全体的な悪い部分を残らず治せば良くなるはず…
と気付いた人だけが、治せているように思う。

俺の場合は 悪い部分を治そうと色んなモノに手を出して、自分の欠点が多く見つかった。それらを排除する過程において、うつがいつの間にか消えていた、と言う方が正しいように思う。
うつは、うつに対するアプローチだけでは治らない。

病気の9割は生活習慣
それは水平展開できる。
ミスも同じ。
自分の弱さに気付くことも同じ


小林弘幸先生の著書「自律神経を整える あきらめる健康法」
において、先生は「他者を責めることをあきらめることで、真のあきらめない勇気を手に入れられる」のように書かれている。
今、その意味が少しだけ分かったように思う。
また、今話題の「嫌われる勇気」という本の中で「全てのコミュニケーションの主導権は自分が握っていることに気付く」と書いてある。そうなのだ、自分こそが全てのスタート地点なのだ


健康・勇気・コミュニケーション 
全ての主導権は自分にあるような気がしてならない。

「甘え」や「他者依存」を捨てるとは、真に自分を見つめ直す事だと俺は考える。それができたときに初めて、新しい人生、否、自分(だけ)の人生が始まるのではないだろうか











スキルにせよ何にせよ 何かをマスターするとき、イメージとしては0→+。
それは産物としてスキルを、副産物として何かを学ぶ

一方、病気を克服するとき、イメージとしては-→0。
(生活習慣で+→0→-という状況が先にあるが)
しかし同じように、産物として健康を副産物として(病気を経験していない人は知ることのない)何かを学べる(「生老病死」の再定義も含め)
ように思う。

そこに気づけたら、闘病はとても意味/意義深いモノとなるのではないか、
と振り返って思う。

ある資格試験の勉強方法が、他の資格試験への応用が利くように、
-を0にしただけ・・・と思いがちな病気の克服にも他への応用ができる何かを得るのでは無かろうか。

後講釈・後知恵・結果論・合理化と言われるかもしれない。
しかし、もがき苦しんで闘病中に見つけたことは、俺にとって かけがえのない財産になっていのは事実なのだ。
(少なくとも俺自身にとっては)

「下積み時代」という言葉があるが、それに近いイメージさえ抱いてしまう。

ある人に言わせると「ピンチはチャンス。これはピンチになってもがき苦しむとき視点が変わり、今までには全く見えなかったものが見えるようになるからだ」とか。

そう、おそらく我々は気付かないうちに自分オリジナルの「強力な武器」を作り上げているのだ。

それは目に見えないから実感はないかもしれない。
しかし、無意識は(まるで土の中にある根がいくら伸びても目に見えないように)恐ろしいくらいに成長しているのだ。

「星の王子さま」の中に「かんじんなことは目に見えないんだよ」という言葉が出てくる。
まさにこのことではないか。

  余談だが、目に見えるモノに我々は振り回されすぎている様に思う。
  だから本当に大切なはずの目に見えないものに重み付けできず
  人生に迷ってしまうのではないかと考える。

闘病を通して本人が人間的に成長する。
闘病を通して家族が一丸となる。家族も成長する。
闘病を通して人間関係が変わる。

不謹慎と思われるかも知れないが、俺自身にとっては
病気は、神様からの試練(贈り物)だったのかも知れない。
自分を見つめ直し、それ(ある意味でスランプ)を乗り越えたとき
ご褒美として以前には無かった本当の意味での強さ(自分を丸ごと受け入れるということ)・知恵を授けられたように感じる。

仕事を通して、人格が磨かれ、仲間意識が強固になるように
困難は人を変える。
 ただし、良い方向にも、悪い方向にも・・・
 それさえも問われているのではないか、とも思う

もう、うつは99%(医者が驚くほど)完治し、悪化する予感も全くないが、
「直し続ける」気構えでいこうと思う。


治った感情と味覚で 新茶を愉しみながら・・・

つい愚痴を言いたくなることがある。
それはどんなときか頭が冷えた段階で客観的に考えてみた。

理由の一つとして
本当に困っていないから」が挙げられると思う。
もっと言えば
(他人を頼りにするなどして)「当事者のこととして問題を捉えていない
のではないかと。

本当に困ったなら、きちんと自分の課題と捉え、手を尽くすと思う。
だからきっと真剣に困っていないのだ。
本当に自分の課題と捉えた人は(ネット・文献問わず)調べ物をするとしても
その執筆者(ヒントをくれる人)を責めることはしないのではないか。

その人固有の課題を乗り越えるのは、本人の自助努力の他は無い

俺にとって自走している人(アクティブな人)のイメージとして
活き活きとして自分の未知をひた走ってる」事が挙げられるように思う。
逆の人は「他者に依存」している様な印象を持っている。

失敗も成功も、そのスタートもゴールさえも主役は自分として捉えPDCAを回すような人は
「終始自分ありき」のように思う。
それはあたかも自分を人生の主役にしているよう。
そこに他者依存の要素は少ない。
(その意味で他人の所為にするのは、自分を人生の主役にさせないという意味で良くないと反省した。良いオトナが自立できていないのだ。)

その成功度合いや社会的地位に関係なく、活き活きしている人は「自分の生き方」を可能な限り追求している人(例えば昼食に何を食べるかなど些細な決断(?)ですらきちんと選択するだろう)であり、(ことある毎に愚痴を言うなど)陰々滅々としている人は「他者に依存」している割合の高い人、と思われる。

余談になるが、例えば愚痴る友人知人に対して「こうした方が良いよ」と
憎まれるのを覚悟で他社目線でその原因と対策を指摘したとして、
当の本人が直そうと思わない場合があっても仕方がない。
もちろんその人が「実行する」ということはまずできない
それは本人が「本気で自分の課題と捉え」ていないからだろう。
(もちろんいきなり100%を狙うのではなく手法として
「エレファントテクニック」や「セブン・ステップ法」を用いて…
というテクニックを活用するとして・・・)
だから、下手な手助けは時間の無駄となるのだろう・・・残念ながら(´・ω・`)

それが周りの人間を不幸にするからこそ(嫌われるのを覚悟で)言ったアドバイスにしても、
本人がその自覚がない場合はどうしようもない。
けれど、それは本人の「生き方」の問題であり、関係者としてはとてももどかしいが…
仕方ないのかもしれない

猛省して、もう少し愚痴を(他人に言うとか言わないとか関係なく)呟きたくなる回数
(要は腹を立てる回数)を激減させる必要があると少し反省をした今日この頃。。。。
少し前のことですが、国家試験に合格しました。

と言っても、(多重積分とか、量子力学のような数式は全くなく) ほとんどが暗記物だったので、「興味」と「持続力」があれば誰にでもチャンスはある試験です。特別俺が頭良いことはありません。

俺は長期戦の末に「自分に勝つ」ことで「うつを克服」しました。
そして「うつを克服」することで「国試に合格」しました。
以前にこのブログで、
 「自分の気力体力」>「山の標高・険しさ」 だったからその山を登れた。
みたいなイメージをお伝えしました。
そのイメージで言うと、今回は紛れもなく
「自分に打ち勝つ努力」>「うつを克服する努力」>「うつを罹患する(?)努力」>「国試に合格する努力」 (もっと言えば>「国試」 なのかもしれません)
だったように振り返って思います(繰り返しになるけど、俺の頭がよいワケではないです)。

実際、試験が終わった後は清々しく、まだまだ気力体力とも余裕がありました。
(後日採点してみると、ほぼ満点に近い点数でした。つまりまぐれなどでなく本当に狙いを定め努力した、必然の結果でした・・・)
42.195kmを走りきった後も未だ余裕があるランナーに近いかも知れません。

それだけ
「うつを克服」することは、並大抵のことではなかったと思います。
だからこそ乗り切ってしかも未だ余裕のある結果を出せた、と。

上でしれっと「うつに罹患する努力」と書きましたが、普通の人なら誤魔化し、深入りせずに健康を維持するところをとことん深入りした(大きなマイナスを稼いだ)ということを「努力(能力)」と言わずして何と言いましょう。
そしてそれを克服する(マイナスという借金を返してしまう)ことも「努力」に違いない。それも病気を克服するという人生の一大イベント(家のローンを返し終わったみたいなもの?)。
それを乗り越えられた人は、国試に限らずこれからどんなピンチも乗り越えてチャンスにしていける経験を積んだことになると思えてならないのです。

実際、国試に受かったとはいえ、実はいま相当冷静なのです。
すくなくとも試験前と合格後での感情のアップダウンがまるで無い
思うにこれは、うつを克服するプロセスの中で、少々のことではびくともしない「強いメンタリティ」を手に入れたのかもしれません。例えるなら、「何かに対して支払う努力」が、心の中にある「メンタルエネルギーの貯蓄」に比べて相当微々たるモノだったからではないか、と
今は相当なメンタル体力がある、というふうに言い換える事が出来るかもしれません。

それでは、嬉しくないかと問われると、嬉しいのは嬉しいです。
けれど、
ここ最近の食事が美味しい(しかも食べたくて食べている)ことの方がもっと嬉しいです。
その方が(生きていく上での優先度が高いので)幸せです。
(試験対策中もモリモリ食ってました)

全く眠れない・食べられない、また、栄養療法を始めてからも調味料が使えず ともすれば吐きそうになりながらも1年間ストイックな食事を重ねる努力をしました。
これは本当に辛かった。。。今でこそ弱音を吐けますが、当時はそんなことを言ってられないくらい緊急事態でした。
今はその制限もなくなり、美味しく… 本当に美味しくご飯が食べられています
自分に驕り生活を顧みなかった結果うつに罹患したけれど、そこが大きな間違いだったと改めて猛省しております。

何かを乗り越えた今の自分だから言える。(もちろん合格の自慢とかそんな気はありません)

健康こそが、人生の宝。

健康に勝る幸せなんか無い
のだと。

食べること・寝ること・動くことの大事さ・優先度・大切さ・…それをうつ体験と、今回の成功体験から学ぶことが
(上述の不等式を、頭でなく体で)理解出来たように思うのです。
「青い鳥」ではないけれど、本当の幸せは身近なところにあるのだと再確認しています。
小さな成功体験なんかより、三食が美味しく食べられることが、涙が出そうなくらい嬉しいのですから
会話量=その人が自分を押し付ける量
かも。
聴く:話す=1:1が理想。
それを超えたら相手が自分を押し付けてきている、ということ。(相手のためのアドバイスでえる場合を含めて)
会話の量で、相手が自分をどう思ってるか、をある程度判断できる((実力の)上下関係だけでなく、信頼されてるかという側面もあるし、それは会話の質でも分かる)と、気づいた。

会話量が多いなら、ほとんどをスルーして構わない。本当に相手を思ってのことなら、必ず「どう思う?」で相手の立場や状態、状況を踏まえてピントがずれてないか確認するはずだから。会話(をはじめとするコミュニケーションやストローク全般)量ぶん、相手と距離を取って構わないのかもしれない・・・(´・ω・`)
うつになる・ならないに関係なく、人が苦しむのはアンビバレンツな戦いがあるからかと思う。

理性と本能、理想と現実、弱い自分と強がりたい自分…

自分自身を受け入れたとき、人は大きく成長できると思う。それがない限り、いつまで経っても、「幸せ」になれないと思う。

ある人の本にこんな感じで書かれていて、ハッとしたのでその文章を紹介したい。
「パワハラやセクハラは本人の好き嫌いが決める」「だから好き嫌いが激しければパワハラやセクハラを受ける可能性は高まる」「なお、パワハラ、セクハラと言う人は大抵被害妄想気味・自意識過剰だ」と。

つまり(本格的なものはさておき)グレーなものや実はほぼ白なものにさえ神経過敏になってしまっている。どう受け取るかは、今の自分の心身の状態に大きく左右されてしてしまうのだ、と俺は受け止めた。

逆に、心が統一(他人がどうあれ、自分は自分なのだとか)されていたり自己受容できたりしていれば、被害者意識は矮小化されるのではないか、と。今の自分は、本来+-両方あるもののマイナスだけを過敏にわざわざ受け取りやすい心身になってしまっていないか、と。もし自分に自信あれば、セクハラもパワハラも矮小化出来るのではないか、と。
(もちろん程度問題ですが…)

それはパワハラやセクハラに止まらず、普段のコミュニケーションも同じこと。

結局…

自信が持てないうちは、自分で自分の幸せを拒否してしまっているのではないか、と。

そして自信とは、きっと、他者からの評価でなく、絶対的な自分への信頼のことなのだと。

うつになった人は、きっと理想と現実のギャップで苦しんだはず。それを良い機会として、本当の意味で自分への自信をつけることが必要だと体で分かると思う。
そこから這い上がろうとするときに、自分にとっての幸せが何なのかが見えてくる気がしてならない。
イプシロン、とは数学用語で「非常に小さな数(量)」を表します。
「うつで乏しくなった(→これ)感情を少し吐き出したカンジ」「うつで矮小化(→これ)された自分自身を表現」「ほんの少し芽生えた(→これ)気持ち・感情をブログに書きました」…そんな意味合いで受け止めて貰えると嬉しいです。
(でも、投げやりではないです(^-^))

思えば、うつで、感情的に流されそうになったりしたのをグッと踏みとどまれたのは「ロジック(論理的な思考)」でした。物事の考え方とか、冷静に考える・分類する・自制する…すべて数学で培ったロジックだったように思います(ただし、好きだったから考える訓練をしてきただけで、文面を見ていただくと分かるように、決して頭がよい人種ではありません(´・ω・`))

そのことに感謝(?)すると共に「自分の持ち味はこれだ」という思いも込めてブログタイトルを決めました・・・