子供の頃、真夏の炎天下プールからの帰り道、旺盛に茂ったくずの葉に鳥の糞そっくりなゾウムシがいた。ごつごつした体にのっそりとした動き。子供でも簡単に捕まえることができるのでー日中の葉っぱの上に乗っかっているなんて、捕まえて下さいといわんばかり......葉っぱの裏に隠れれば影になって涼しくてさらには見つかりにくいのに。と思いつつも鳥の糞に擬態するからには葉っぱの上でなくてはまずいのか、と今になっては思うけど、実際ゾウムシかと思って鳥の糞をつまみ上げたこともあったっけ。最近そのゾウムシを見かけない。彼らのすみかのくずの葉は昔より旺盛に繁茂しているのになぜだろうか?環境にも配慮した里山に行く機会(農作業を手伝いに)もあるのだが、くずの葉をためすがめつ、葉裏をひっくり返すがいない。そーいえば葉っぱをレースのように食い荒らす、メタリックな小さいカナブンも最近見かけない。そういった小さな昆虫たちがいなくなっているような気がする。中には、すっかりと記憶から抜け落ちてしまったやつもいるかもしれないと思い、と思い出してみると最近見かけないやつが少なからずいる。あの夏の広場の地面をまるで信じられないくらいの早さで駆け回る、まるでそれは小さなホバークラフトみたいなあの甲虫。彼らはいったいどこに行ってしまったのだろう?
 普段は思い出さないが、もし彼らがいなくなってしまったとしたら、ある朝起きると鳥のさえずりのなくなった春がきたように劇的ではなくても、何となくしんみりと静かに寂しい。
ダグラス・アダムスの『これが見納め』(Last Chance to See)はアイアイ、シロサイ、ヨウスコウカワイルカなど絶滅に瀕する動物達にダグラス本人が合いに行くルポルタージュだ。絶滅から彼らを救うために惨状を暴き、保護の重要性を訴えるといったようなありがちのルポでは、ダグラスのことだから勿論、ない。保護運動そのものの背後にある人間中心の考えを相対化し、科学中心的な近代主義を退け、それでいて個人的経験がやがて共感できうる普遍性を獲得するが、それは決して大仰なものでなく、少しほろ苦い。ああ、ダグラスのアイロニーに満ちたこの世界をどのように説明したら良いのだろうか?
「ゾウムシがいなくなると困るの?」
「ゾウムシだって複雑な環境連鎖の一因で彼らがいなくなったことで、繊細なパズルのピースがなくなったことによって、環境が予期せぬ変化をし、それが回り回って人間にも影響を及ぼさないとも......」
だから、結局は彼らのいない世界は前より、ちょっぴり暗くて,寂しくなるってこと。
これが見納め―― 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景/ダグラス・アダムス

¥3,150
Amazon.co.jp

 風さそう 花よりもなお我はまた、春の名残りをいかにとかせん
さくらの季節も過ぎようとしている。桜の花が咲くと毎年分かってはいても思わずハッと息をのんでしまう。だが、その感動も長くは続かず、春を待ちわびた人々の高揚に反するかのように気持ちは沈んでしまう。それは桜という花が、冒頭の浅野内匠頭の辞世の句に歌われたようにある種ファナチックな日本の思考を表象するか、または、希望に満ちあふれた新入学の紅潮した学生の顔や、満ち足りた保護者の顔を思い出してしまうからだろうか。
 そんなさくら花が嫌いだった頃が長く続いた。風の日は散る花びらをよけるように武蔵野の街頭を疾走し、穏やか日は舞う花びらをよけるように花見の酔客のように歩き...そんな日から長い月日が過ぎようやく「さくらっていいよね」といえる歳になった。でも、ハッと息をのみ、すぐやや忌む。未知と既知の落差が近くて大きい。そのことを考えたくなくてやはりこの季節は苦手です。
朔太郎の詩に花見を忌むものがあったかと思うが、思い出せない。書庫にも見当たらない。
萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)/萩原 朔太郎

¥840
Amazon.co.jp

 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
好きな和歌である。淵には恋もつもれば、落ち葉もつもる。少し薄暗い所もあって、静かな底から時たま顔を出したうなぎが、水面みわずかな紋を編むことがあろうとも、紋は広がらずすぐに静かな鏡のような水面みもどってしまう。水面は鏡のようだがよく見ると、内側がざわざわとうごめき映えた像を内側から喰い破ろうかとするようなこごもった力から目が離せない。
『つい暗くてニュアンスのありそうなところへ罠にかかりに行くように向かってしまう』(梨木香歩「水辺にて)
その暗闇にうごめくものは「放射能」そんなことになりつつある。風や雨や土から「ニュアンス」を駆逐しはびこるそれは、無機的なベクレルやシーベルトという単位で暗闇を照らしだし、単色の無用な空間にしてしまった。その罠にはまったら待っているのは深刻なケミカル汚染のみというSFチックな悪夢が現実のものとなってしまった。
水辺にて on the water / off the water (ちくま文庫)/梨木 香歩

¥546
Amazon.co.jp

 ドキュメンタリー映画『オオカミの護符』を観た。川崎市宮前区に伝わるオオカミのお札にまつわるドキュメタリー作品で、護符はやがて山岳信仰を背景としたオオカミ崇拝へと繋がってゆく。民俗学的問題を生活者の視点から丁寧に描いていて好感が持てた。映画の後、監督である油井英氏と、映画の語り部でプロデューサ-の小倉美恵子氏、民俗文化映像研究所の所長である姫田忠義氏のトークがあったが、その中で監督が新たに多摩川河口部の漁民の生活について新たなインタビューを行っていると聞いて合点する所があった。というのも山岳信仰はその基礎に、定住する農民の垂直な運動性が秘められているとかねてから私は考えていたからで、その垂直の運動性は山へ登る、里へ下りるといった運動性と相まって統治機構のヒエラルキーへと変容するのではないかと考えているからだ。これを日本人の心の深層の縦軸とするなら、漁民の漂流するその拡散して行く横への運動性は、心の横軸と考えている。この二つの運動が複雑に絡み合って日本人の深層的な気質を形作っているとおもうのだがどうなのだろうか?
ちなみに私は東京調布の深大寺の護符がお気に入りである。それはこんな感じである。


 ニューヨーク市場の原油価格が1バレル140ドル近辺に接近し、中東の政府系ファンドがサブプライムで青色吐息の米銀に出資し、GMが小型車の生産を強化し、資源国ロシアが勃興し、オーストラリアの海岸では鉄鉱石を積まんとするタンカーが列をなし、アフリカの辺境の地では中国マネーによるインフラ整備が続き、FRBはインフレ懸念と景気減速のジレンマの狭間で身を小さくし、得体の知れないCO2排出削減ではEUに主導権を握られ、相も変わらず自国通貨安と低金利に甘んじる日本。原油高騰は投機マネーの影響ではないと、トウモロコシを使用するバイオ燃料を推進する米国。これが、ボードリヤールの言う消費社会の末路か?悪い冗談のような世界だ。

シミュラークルとシミュレーション 新装版 (叢書・ウニベルシタス 136)/ジャン・ボードリヤール

¥2,940
Amazon.co.jp

海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)/ジョン・バンヴィル

¥1,995
Amazon.co.jp
 もし、あなたが朝起きて名前は勿論、誰も彼もが昨日までのあなたを憶えていないとしたら、あなた自身は記憶を持っていたとしてももはやあなたは自分が何者なのか分からなくなるのではないだろうか?
 『多くの人々の心の中で、人は枝分かれして、分散していく。しかも、それは永遠にはつづかず、永遠に続くことはありえない。不滅ではないのだ。わたしたちが死者の面影を胸のうちに抱えているのは自分たちが死ぬときまでで、その後は、自分たちの面影がしばらくのあいだほかの人たちに抱えられることになる。それからこんどはその人たちが倒れ、そんなふうにして想像もできない世代へと受け継がれていくのだ、わたしはアンナを覚えている。娘のクレアも彼女を覚えているだろうし、わたしのことも覚えているだろう。それからクレアがいなくなると、彼女を覚えてはいるが、わたしたちのことは覚えていない人たちが残り、そのとき私たちは最終的に消滅することになるのだろう。たしかに、わたしたちのなかには残っているかもしれない。色褪せた写真か、一房の髪、いくつかの指紋、わたしたちが最後に息を吐いた部屋の、空中にばらまかれているいくつかの原子。だが、そのどれもわたしたちではない。いまここにいる、かつてそこにいたわたしたちではない。それは塵と化した死者のかけらでしかない。』
愛する妻を亡くした、初老の男が訪れたのは、かつて少年の頃過ごした海辺の街にある夏の別荘だった。かつてそこに住んでいた人々も今はなく、家守の初老の女性が細々と家の管理をしているのだった。そこで失意の日々を、まるで亡者のように、妻の逝った世界が、死者の世界が男の現実を落ち寄せる波のように静かに侵犯していく。そんな中で男の心によぎるのはかつて少年の頃の記憶と亡き妻の記憶だった。波に抗するのはあまりに頼りないその記憶を辿ることで、失ってもなお生きるという一つの光明がかすかながらに男の今を照らすのだった。死者との生者とのたゆたいが、渚の波の戯れと、かつての少年の日々の夏の木漏れ日とにレース模様のように浮かび上がる。
『わたしはいつもあきらかに何者でもない人間であり、わたしのもっとも強烈な願いは、漠然とした何者かになることだった。』『アンナは「あなた自身になればいいじゃないの?」ー知れではなくてなれなのだー』『わたしたちがそういう人間だとほかの人が思っている人間になろうとする重荷から、(中略)彼女はわたしをその重荷から解放してくれた。』
存在を根底からささえる、記憶。ジョン•バンヴィルの『海に帰る日』の数々の珠玉の名言は、大切な何かを感じさせてくれる。
 


 家守綺譚 (新潮文庫)/梨木 香歩

¥380
Amazon.co.jp
 梨木さんに『家守綺譚』という素敵な作品がある。古い民家にヤモリがまるで家を守るかのように住み着いているというのだ。昔から私たちは家屋に住む小動物たちを、その家の守り神、ヌシとして大切にしていた。あるときは屋根裏に住み着く大蛇であったり、軒下にすむ蝦蟇だったり...そんな家に住み着く動物たちを民俗学的背景とともに紹介したのが野本寛一著『共生のフォークロア•民俗の環境思想』という本である。最近書名を改め講談社から『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』として再版された。残念なことにまだ未読なのだが、著者自らが、講談社のPR雑誌『本』の中で語っている所によると、家屋敷のヌシと言えばやはりヒキガエル、ガマガエルの類いが多くて、古語で谷蟆(たにぐく:ぐくは鳴き声のグクの変容したものとも、潜るが変化したものともいわれる)とよばれるそれは、古来『万葉集』にも詠まれるほど私たちには馴染みのものだったのであるが、近年その姿を生活の場所で見ることは少なくなった。
 私の住まいは、高台にあるので都会ではあるが夜になると遠くの水田からわずかながらに蛙の鳴き声が聞こえる。そんな声に耳を澄ますと、斉藤茂吉の 
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞ゆる
の句が思い起こされる。そんな梅雨時、数年前にみた谷蟆のことが思い出された。私の家のある高台は昔からの住人が多いためか、新興住宅地としての開発を免れた家屋敷が多いのだが、そんな屋敷も相続の関係でぽつぽつと更地にされて、数ヶ月後には土地を分割した上でハーモニカのような建て売りが建つのが昨今なのだが、そんな一軒。老夫婦がすむ日本家屋が取り壊されたある日、ユンボで引きちぎられた家屋の、まるではらわたをむしりだされたかのような惨状に、早朝出会った私は、そぼ降る梅雨の雨の中に一匹の老いた蝦蟇を見つけた。家主の名を刻んだ御影のはめ込まれた、大谷石の巨大な門柱は引き倒されその陰に、長年住み慣れた家屋を追われた蝦蟇の姿を。住人の老夫婦は既に転居し、ひとり家守、ヌシとして家屋を守ったであろう彼は、私が見ている半時あまり、ただ門柱に添うかのように、すっくと顔を持ち上げてそこにたたずんでいたのであった。
 そして、再び昼時にその家屋の前を通りがかった私は、路上にひき殺された彼の姿を見たのであった。無人となった家に殉じた彼の姿は今でも私のまぶたにくっきりと焼き付いているのであった。そして細かな雨の降るよるに、遠田の蛙の声とともにその在りし凛々しい姿が思い起こされるのだ。



生態と民俗 人と動植物の相渉譜 (講談社学術文庫 1873)/野本 寛一

¥1,313
Amazon.co.jp

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1)/シュレーディンガー

¥630
Amazon.co.jp
 幼かった頃、祖母のお墓に額ずき祖父にこう尋ねたことがある。「ねえ、おじいちゃん、おばあちゃんは死んでどこにいったの?」と。私の郷里はひどい田舎でもあるため祖母は土葬にされた。もっとも私が生まれる前に亡くなったので、それは戦後間もなくのことではあったのだが、その墓は最近になって改修されるまでは、じめじめした土まんじゅうが祖母の墓標だった。「婆様は土に還ったのさ」と祖父は答えた。
 ~死ぬと土に還る~それは肉体が消滅して、分解され最後には無機質なただの固い物質に還元される。そんな唯物的な発想の萌芽であるとともに、すべては流転し消滅と生成を繰り返す還元論、輪廻の思想を含んだ私たちになじみの深いアミニズムの思考を含んでもいる。
 コンピュータ・サイエンティストのスティーブ・グラントが『創造-生命とそのつくりかた』という本でこのように述べている。
 「子供時代のある経験を考えてみてほしい。あなたが鮮明に覚えているもの、あなたがまるでそこにいるかのように、目で見、感じ、ひょっとしたらにおいさえ嗅ぐことのできるようなものを。結局のところ、あなたはそのとき、そこにいたんじゃなかったのですか?そうでなければ、どうしてあなたはそれを思いだすことができるのか。それでは、ここで爆弾発言をしよう。実は、あなたはそこにはいなかったのだ。いまのあなたの体にある原子の一つとして、その出来事がおきたとき、そこにはいなかったのだ。・・・・・・物質はある場所から別の場所へと流れていき、束の間だけ寄り集まってあなたをつくる。」と。
 つまり、物質としての生命は、少なくともその構成要素である分子レベルで見たときは、先の祖父の言葉が暗に指し示したように、土に還るのだ。しかも、ルドルフ・シェーンハイマーの検証によると生命を作るさまざまなアミノ酸は驚くべき速さで代謝を繰り返している。そればかりかアミノ酸レヴェルではなくもっとミニマムなレヴェルでの構成元素の代謝が行われていると言う。つまりは、死者ばかりでなく生命活動を行っている生命体そのものが、激しい代謝によって生成と消滅を繰り返すことによって、その生命活動を維持しているとしたら....「婆様は土に還った」ということは、唯物論的暗喩ではなく、流転する生命の本質的な回答にはなるまいか?分子レベルで見た生成と消滅を繰り返す生命のシステムは、エントロピーの拡大、つまりはカオスへと落ち込むことからいかに秩序を保っているか?このことに量子力学の立場から答えたのが本書である。しばらく絶版になっていたが、このたび岩波文庫での再版となり読んでみた。
 1953年のワトソンとクリックのDNA構造の発見に先立ち書かれた本書は、生命の本質が遺伝子にあることを予見し、その遺伝子を構成する物質が膨大な生命を構成する分子に比べて、あまりにも少ないのにも関わらずエントロピーの拡大を免れ、秩序を維持しているのはなぜか?といった疑問に量子力学の立場から答えた優れた本である。流転する生命。それはシュレディンガーが本書のエピローグで示したように、輪廻する生命観という私たちの体に染み付いたアミニズムの生命観、そして分子生物学と量子力学という学問を横断することによってミニマムな構造とマクシマムな構造とを類似させ、宇宙観をも内包する巨大な知の世界の扉を開くのだ。


かもめの日/黒川 創

¥1,680
Amazon.co.jp
 黒川創の『かもめの日』を読んだ。某書評家の評価が高く、「今年最大の収穫」的に絶賛されていたので、第2刷、初版は品切れ、を一ヶ月近く待って購入。都会に生きる人々の様々な生き方がなんとなく繋がって...といった内容なのだが、個々のエピソードが重なれば重なるほど明度を増していき仕舞には透明なあまりに透明な印象が残る。こういった書き方をクールな、カッコいいものとして捉える気持ちは分からなくもないけど、もっと有機的な繋がり方が、あった方が物語が立ち上がるではないだろうか?もっとも物語が不在な現代にあっては、薄いフィルムを重ねるような、しかも重ねれば重ねるほど明度を増す読後感は、今に似つかわしく、作者の手管が並大抵ではないことを示しているのだけれど...
ようは好みの問題かな。


女子の古本屋/岡崎 武志

¥1,470
Amazon.co.jp
 最近ブックカフェだとか言って、おしゃれに本を読ませる喫茶店のたぐいが跋扈しているが、どーも胡散臭い。下北のとある有名店にいったのだが、おいてある本のセレクトに、本当にオーナは本好きなの?と首を傾げたくなった。で、そういった店は余り好きではないのだが、本当に本好きな人が、本が好きなあまりそれを商売にしてしまったというのが、本書。「ちくま」連載中から読んでいたのだが、いよいよ単行本化された。本が好きで好きでたまらない、むしろそれしか能がない、と言っては失礼だが、面々が開いた個性溢れる古書店の数々。女性ならではのセンス良いお店は、従来の古色蒼然とした古本屋感を変えてくれます。どの店にも行ってみたくなる素敵な本です。