今日は「すみれ色の涙」発売記念日である。39年前の今日、宏美さんにとって、そしてわれわれにとって忘れることのできないこの曲が、この世に誕生したのである。

 

 

 1981年5月、『夜のヒットスタジオ』で宏美さんの新曲が初披露されるはずの日のことである。大学の仲間が私の部屋に集まってテレビを見ていた。もちろん、そこにいるヤツらは皆、私の宏美愛はよく知っているし、このところ宏美さんがヒット曲に恵まれていないことも分かっていた。宏美さんが登場し、食い入るように画面を見つめる。歌われた「すみれ色の涙」は、それまでの宏美さんのイメージだった都会的なポップスでも、歌い上げ系のバラードでもなかった。たしかに素朴な愛らしい歌ではあった。宏美さんが歌い終わって、一瞬の沈黙があった。それを破ったのは私と相部屋のYだった。ひとこと、「売れそうもない歌だなぁ」そこに居た皆の気持ちを代弁していた。まだ誰も、この曲の真価に気づいていなかったのである。

 

 この曲の発売直後の休日(恐らく6/7)、友だち数名で上野に遊びに行った。たまたま寄ったレコード店に宏美さんのサイン入りの「すみれ色の涙」のポスターやレコードがあった。宏美さんはこの曲のプロモーションのため、全国のレコード店や有線放送などを回って挨拶をしたというから、その折りに立ち寄った店だったのであろう。

 

 「恋待草」に始まるいわゆる『草花シリーズ』は、宏美さんの7年目をラッキーセブンにするために立てられた綿密な計画・作戦だったそうだ。宏美さんは次のように言っている。「それまで、歌は好きだったが、あまり真剣に取り組んでいなかった。それが秦野喜雄さん(故人。当時芸映、後にAtoZ。西城秀樹、とんねるずの生みの親)に、〝10年、満員のコンサート会場で歌っていたかったら、今年がんばらなきゃダメだ〟と言われた。それから、もう一度初心に帰ってキャンペーンをやろうと思った」(沈黙主義者・ユキトンさんのブログを参考にさせていただきました)

 

 そして、6月25日。われわれが暮らしていた学生街の隣町で、宏美さんのコンサートがあった。もちろん足を運んだ。「すみれ色の涙」も歌われた。そこで耳を疑うMCがあった。「12位まで来ました!」会場からは大きな拍手。そのランクはオリコン調べのものであった。終了後、車を飛ばして宿舎に戻ると、まだザ・ベストテンの放送途中であった。20〜11位の紹介の時に、紛れもなく一直線急上昇中の「すみれ色の涙」があったのだ!

 

 それ以降は皆さんもよくご存知の通りである。この曲はトップテン入りを果たしロングヒットとなり、宏美さんの代表曲の一つに数えられるようになるのである。(40周年記念の際、「ロマンス思秋期聖母たちのララバイの3曲以外で、岩崎宏美の歌で一番好きなのは?」というちょっと不思議なアンケートがあったが、この「すみれ色の涙」は堂々の第1位に輝いた。)

 

 私は、この曲の成功がなければ、「聖母たちのララバイ」の大ヒットも、『レ・ミゼラブル』への出演もなかったし、何より今日まで宏美さんが歌い続けていることもなかったのではないか、とさえ思っている。それくらい「すみれ色の涙」のヒットは大きかったし、われわれファンは本当に嬉しかったのだ。宏美さんご自身も、この年のリサイタルで、「私に希望を与えてくれた歌」とこの曲を紹介している。

 

 

 この曲の発売日が忘れられない理由が、もう一つある。この日は私の20歳の誕生日だったのである。私の父は、小さい頃寝る前に創作話をしてくれたり、休みの日にあちこち連れて行ってくれたり、忙しい中で家族を大切にしてくれていた人だったと思う。ただ、(当時の父親の多くがそうであったろうが)子どもの誕生日に何かしてくれることはなかったし、自分の誕生日に娘が焼いてくれたケーキも食べず干からびさせてしまうような人だった。

 

 それが、当時実家から離れていた私が夏休みに帰省した際、母がこう言った。「あんたの誕生日の時、お父さんが珍しく、『そう言えば、今日はアイツの20歳の誕生日じゃないか?』って嬉しそうに言ってたよ」私にはそれが強く印象に残り、私の思い出の中では、直接見ても聞いてもいないこの言葉を話す父親の笑顔と、上野のレコード店で見た宏美さんのサイン入りの「すみれ色の涙」のジャケットが一体になってひとつの像を結んでいるのである。

 

 

(1981.6.5 シングル)