24枚目のシングルで、草花シリーズ第1弾。万葉集をイメージして作られたと言われ、古風な言葉を紡ぎ、和服で歌われた。作詞が伊達歩(=伊集院静)さん、作曲は小林亜星さん、編曲は松任谷正隆さん。東京音楽祭に出場し、銀賞を受賞した曲でもある。

 

 

 この少し前の「摩天楼」「胸さわぎ」の頃から、宏美さんは前髪を伸ばしてパーマをかけたりしていたが、一転して前髪を切り揃えておかっぱに戻し、日本人形のような姿になった。レコードジャケットは強烈なメイクで、私の家では「ベラ」(『妖怪人間ベム』の主人公のひとりである女性)などと揶揄された。

 

 この「恋待草」の頃、何の用があったのか忘れたが、地方からわざわざ出てきて当時赤坂にあったファンクラブに顔を出したことがある。用は足りなかったのだが、遠くから出向いたことを気の毒に思ったのか、ファンクラブの方が、帰りがけに大判の「恋待草」のポスターをくださった。レコードジャケットと同じ着物だが、少し横を向いているせいかジャケットほどどぎつい印象ではなく、宏美さんらしい表情で梳っているものである。他にもたくさん持っていたポスターと共に、引越しの折りに処分してしまったことが、今更ながらに悔やまれる。

 

 

 さて、当然と言えば当然だが、この曲は発売当初から賛否両論が巻き起こった。どなたか忘れてしまったが、ラジオのパーソナリティで、発売当時の番組で「岩崎宏美は何もしなくても第一線で10年活躍できる逸材。変にいじるな。スタッフの焦りを感じる。スタッフが悪い」と怒りを露わにして酷評。出演していた宏美さんは、立場もあるだろうが、「今のスタッフが変わらない限り安心してついていく」とスタッフへの絶大な信頼を表明。スタッフも、パーソナリティの方も、親身になって宏美さんのことを考えてくれていることが放送を通じてよく伝わってきた。宏美さんも周囲の想いに応えようとしている律儀な姿勢が見て取れた。

 

 作曲の小林亜星さんは、私にとっては『寺内貫太郎一家』のガンコ親父として、また『狼少年ケン』『魔法使いサリー』『科学忍者隊ガッチャマン』等のテレビ漫画(当時は“アニメ”とは言わなかった)主題歌の作曲者として馴染みがあった。宏美さんがラジオで「亜星さんってとっても可愛い人。デモテープで歌ってくれているのだけど、息が続かなくて、『♪ 春は紫 恋はべ(V)に〜』って息継ぎするの」と話していたのを覚えている。

 

 結局、この「恋待草」はセールス的には前2作と同様トップ20入りを果たせず、累積売り上げも歴代シングル最低(当時)に沈んだ。ビートたけしさんにも「あんな“悪魔の手毬唄”みたいなカッコして、オレが“売れない”、と言ったらやっぱり売れなかった」などとネタにされたりもした。

 

 

 ところが、1981年5月。私の実家の近くで宏美さんのコンサートがあった。以前「トゥ・ラブ・アゲイン」の時にもお話しした宏美ファンの友だちのIも、実家に泊まってもらって一緒にそのコンサートに行った。幕が上がると、中央にスクリーン。そこには、被衣(かづき/かつぎ)をかぶった宏美さんのシルエットのみが映し出されていた。そして、にわかに琴の音がかき鳴らされ、頭サビで「♪ 春は紫 恋は真紅(べに)」と歌い出されたのだ。

(この曲は、元来頭サビの曲ではない。ただし、放送時間の関係等で、テレビで歌唱される際に、頭サビ+ワンコーラス、というパターンはあった。)

 

 テレビとはまた違う和服姿でスクリーンの後ろからしずしずと登場した宏美さんは、「恋待草」から始まり「宵待草」「女ひとり」等、和服が似合う歌を何曲か披露した。それはそれは美しかった。隣で聴いていた友だちも、「こうやってコンサートで聴くといい曲なのになぁ…」と言っていた。

 

 この「恋待草」は、失敗だったのか。私は、そんなことはなかったと思っている。長い目で見れば、「すみれ色の涙」のブログで触れた通り、草花シリーズというキャンペーンは成功したわけである。それも、いろいろな試行錯誤、チャレンジがあってこそではなかったか。

 

 阿久先生の言葉を借りれば、私にとっての「恋待草」は、「あまり売れなかったがなぜか愛しい歌」ということになろうか。2004年4月9日、町田市民ホールでのコンサートのことである。この「恋待草」をメドレーの中の1曲として、実に久しぶりに聴くことができた。その時私は、心の底から嬉しかった。「恋待草」は決して鬼っ子扱いはされていなかった。宏美さんにとって、他の曲と同じように、大切な大切な歌だったのだ。

 

(1981.3.21 シングル)