キ〇ガイの記録

キ〇ガイの記録

精神異常者のたわごと

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殯の森と同じ監督の作品。原作は未読。

 

一人でどら焼き屋を経営する千太郎だったが、あんがイマイチらしく売れ行きは芳しくない。

 

そこに徳江という老婆が雇って欲しいと現れ、自らの作ったあんを置いて帰る。

 

そのあんがすごく美味しかった事から、雇用を決定。

 

徳江は毎日、店内であんを作る。

餡って実は作った事が無いのだけど、いやー、こんな時間と手間のかかるものだったとは。

どうも千太郎は、けっこう短時間で雑に作っていたらしく、最初驚愕して見ていた。

 

徳江の餡が好評で、店は繁盛する。

しかしある日、店のオーナーが徳江が元ハンセン病患者で、その施設から来ている事を千太郎に伝え、暗に解雇を勧める。

 

一日飲んだくれた後、千太郎は彼女を解雇するどころか仕事の範囲を更に広げ、接客も任せるようになった。

しかし手が不自由である事からハンセン病の噂が広まり、店は前以上の閑古鳥に。

 

感の良い徳江は、何も言わず自ら去ってしまう。

 

「こちらには非の無いつもりで生きていても、世間の無理解に押しつぶされてしまう事もあります。」

 

そんな手紙が後から届く。

理不尽な暴力に、長い間曝されてきた事を感じさせる言葉だと思う。

 

徳江は再び、偏見によって店を追われ、千太郎もオーナーの可愛がっている親戚の息子によって店を追われた。

 

それでも持たざる者、マイノリティの悲しい末路で終わらず、屋台で一から一人で再出発し、どうやら客が来た様子で終わる千太郎、尊厳を失わず過去を受け入れ前向きに生きる徳江の姿に救われる。

 

らい予防法が廃止されたのは1996年。

 

誰もが煌びやかな光を浴びていたとされる時期、「私達も日の当たる社会で生きたい」と願いながら闇に埋もれていた。

彼らの人権が認められたのは、皮肉な事に皆が闇に埋もれた、バブル崩壊後。

 

前回に記事で、多くの人が憧れてやまないバブル期をディスった。

 

その続きになるようでしつこいと思うけど、だって「もう一度バブル期を!」とか「経済最優先」「あの頃は良かった」と言ってる勢力が、左右問わず居て、悪いけどそれについてすごくもやもやするんだもの。

 

多分、というか確実に、徳江さんみたいにゆっくりでも良いから良い物を作るとか、食べに来る女子中学生の話に相槌うったりして客と交流を持つみたいな事、バブル期にどんどん無くなっていったんじゃないかな?

 

大量消費、大量生産。紛い物でも良いから効率よく作って、とにかく儲ける。ケチつけてくる客は口八丁、手八丁で金を毟れ。

とにかく金稼げれば何でも良い。

 

今問題になっている下町ボブスレーみたいな企業、珍しくないだろうし、そういうヤクザな価値観がバブル期に肯定され、定着したんじゃないかと思う。

 

経済最優先!の成れの果てやで。

 

また、その頃は耐えれば耐える程、金が貰えた。

だからパワハラや性犯罪に耐える事が美徳とされ、生産性があれば許される、そんな価値観が定着したんじゃないかと思う。

 

金のことしか考えてなかったのではなく、金以外の事で頭がいっぱいなクセに、金の事しか考えていないと思い込んでいたし、そうする事で自分を誤魔化してたんじゃないかと。

 

今はどんなに頑張っても、耐えても金にならない。それで目を覚ました人がどんどん出てきたのでは。

 

何を言いたいかというと、道徳・倫理観低いまま経済だけ良くなっても、かえって有害って事。

バブル崩壊後を「失われた20年」と呼ぶらしいが、むしろバブル期に色々と失ったんじゃないの?

 

 

 

 

 

 

バブル期・・・不景気の中、あちこちで懐かしがられ、再来を望まれる時代。

 

私はその時代を生きていなかったので、実感としては何も言えない。

 

ただ、その恩恵を受けた人々の意見と、恩恵を受けられなかった人々の意見や、心ある人によって書き留められた著作を総括して考えると

 

いわゆる普通の日本人、社会的ハンデの無い人々にとっては、非常に良い時代で、御大臣の様な生活ができたそうだ。

 

そしてもう一つ、彼らが「良い時代だった」と思える理由は、日陰の人々に蓋をする事が、今以上に容易だった。という事があると思う。

 

当時はパソコンもガラケーすらもほとんど流通しておらず、よってSNSが今程普及していなかった。

なので、マイノリティーな差別・偏見・貧困についてほとんど知られる事も無かったのだろうと思う。

 

正に、美しい国

 

伊藤詩織さんと山口敬之の件だって、SNSが無ければここまで注目される事は無かったかもしれない。

そう考えると、SNSの流通した今がありがたい。

 

バブル期を生きた経験は無いけれども

 

「セクハラも酷かったやろうなあ・・・」

 

その時代、勤めていた女性についてしみじみと深刻に、小声で呟いているのを子供の頃聞いた事がある。

性犯罪が今以上に、酷かったんだなあと、しばらくしてから悟った。

 

LDの可能性濃厚な自殺した漫画家、山田花子も生きていたのはバブルの最中だった。

彼女が本当にLDであったかどうかが問題なわけではない。

 

普通ではない、変わった人が統合失調症にまで追い詰められ、どこにも理解者を得られず、疎まれ続け、孤独の中自殺せざるを得なかった、という事なのだ。

 

支援を受けられるまま死んでいった発達障害者の末路

 

障害者は断種されても許される時代だった

 

 

 

 

「生きていて良かったと思う事は一度も無かった」

 

刑務所で山本譲司さんが、累犯障害者そしてその家族から聞いた台詞。

 

冷静な文章ながら、全編を通して、行政による福祉の至らなさへの強い憤り、そして悲しみが伝わり、精神障害者の一人としては、寄り添って貰えたようにも思えてとても嬉しかった。

 

誰もが光の中、どんちゃん騒ぎしていた頃、人並み以上に産まれたにも関わらず、日陰の存在に身を削ってスポットを当て、共に嘆き、憤り、寄り添ってくれた。

 

そして接した事が無かったが故に、聾者の置かれる不条理な状況は衝撃的だった。

聾学校に置ける教育というのは、教育ではなく健常者社会に適合するための訓練施設だった。

 

障害者の「障害」とは、社会に在る、ハンディキャップを有する者と社会との障害を意味する。つまり、障害は社会が有するものなのだ。

 

障害増やしてどうすんの

 

 

盲の人とは何度か接した事があるが、現在もそしてバブル期も

 

盲導犬の不足に悩んでいる。

 

ガイドヘルパーという存在も居るけれど、想像してみて欲しい。やはり人間一人で動く事ができるという事への願望を。

 

バブル期、普通の日本人が御大臣の様に暮らせた時期、きっと犬を飼う人も少なくなかっただろう。

 

一体、盲導犬を持つ事のできた盲者がどれだけ居たのだろうか

 

そしてバブル期は本当の意味で豊かだったのだろうか?

 

生産能力の無い変人の、基本的人権が守られていたのだろうか?

 

 

臭い者に蓋をし続けていただけだったのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1981年のヒット作をリメイクしたもの。監督、脚本は同じ。

 

前作ファンからの評価が低いらしいが、私は前作を見ていないので比べようが無い(゚ー゚;

 

ちょうど良いグロさ、そしてスリリングだったと思う。

 

人里離れた森の家で滞在する美男美女5人。

 

精神を病み、ODが止められないミア、その兄デビッド、その恋人ナタリー、彼らの友人で看護師のオリビア、同じく友人でホモのエリック。

 

余談ですが、オリビア役の女優ジェシカ・ルーカスがとても綺麗でセクシーで印象的でした。多分、黒人と白人の混血かな?

 

そしてエリックがホモっていうのは本当です。私が勝手に言っているのではありません。

 

さて、彼ら5人はミアの薬物中毒の治療のため、療養に来ています。荒治療が必要、との事で、ミアが途中で帰りたがっても帰してはいけないらしい。

そういう訳で、外で女性の幽霊みたいなのを見たから帰りたいと主張するも、禁断症状故の幻覚であると窘められる。

 

一人で帰ろうとしたミアは、森の中でゾンビみたいな幽霊に遭遇。

この幽霊の女性がすごく綺麗で、這いずり回ってボロボロになってるミアの方がある意味幽霊みたい(;^_^A

 

幽霊の口から出てきたはらわた(?)が入っていったのは陰部であると、最初疑わなかったけど、考えてみれば「はらわた」なのだから肛門である可能性も・・・

 

そんなわけで、ミアは幽霊だか悪魔だかに憑かれてしまった。異変に気付いた一行は、彼女を病院へ連れて行こうにも大雨洪水のため通行止め。山小屋に閉じ込められた状態に。

 

ゾンビ化したミアの吐瀉物を浴びたオリビアもゾンビ化。たまたま様子見に来たエリックが、ガラスの破片や注射針で刺されたりするも、オリビアの頭を真っ二つにして、一命をとりとめる。

 

因みにこの映画、CG一切使わず特殊メイクのみ。

 

エリックの治療道具を取りに来たナタリーは、ミアの助けを求める声を聞き、彼女が正気に戻ったと思い近づくが、それは罠だった。

 

ミアに噛まれた手が原因で、ゾンビ化しかけるも自ら手を切り落として助かった・・・と思いきや、ミアにディープキスされ血を摂取させられてたからなのか、やっぱりゾンビ化。

 

ところで、ミアがナタリーを「この腐れ女!」って言ってた(和訳)んで、ナタリーは腐女子って事なんだと思います。

デビッドがエリックの手当てをしているのを見て「キャー!デビッド×エリックよー!エリックの誘い受けだわ!」とか考えてる脳内を、人外化した事でそういう能力手に入れたミアに読まれたのでしょう。

 

それはともかく、彼らがこの状態を解消する方法は、①ゾンビの四肢を切断 ②生き埋め ③燃やす のいずれかを選ばなければならない。

どれもおぞましい方法ばかりだなあ・・・そういう映画なんだけど(゚ー゚;

 

デビッドは、一度ミアを生き埋めにし、電気ショックで生き返らせる方法を思いつく。

そのために、ミアを確保するが、同時にエリック死亡。デビッドに「ずっと会いたかった!」とか色々告白してるの見て、ホントにホモなんだなあ、と確信しました。

 

ミアの蘇生は見事成功。てっきりまた悪魔の罠かと思ってハラハラしてたら、本当にミアでした。

これで終わりかと思いきや、車の鍵を取りに来たデビッドが、なぜかゾンビ化したエリックに刺される。

エリック、ゾンビの血とか浴びたりしたっけ・・・?ひょっとして、デビッドへの執念がそうさせたのか( ̄□ ̄;)?!

 

ミアに鍵を渡し、彼女を外に出したデビッドは、銃でガソリンを撃ち、小屋を炎上させる。

こうしてホモ心中で幕を閉じた・・・

二人ともイケメンなので、上映当時、きっとアメリカの腐女子達が沸いただろうなー

 

かのように見えたが、土砂降りの血の雨が降り、地面から貞子か加耶子みたいなゾンビ登場。

設定は悪魔だけど、ゾンビにしか見えないし、もうゾンビで良いよね。

 

追われるようなスリリングさを感じたいなら、ここからが本番。

車の下に忍び込み、チェーンソーでゾンビの両足を切断するも、車のタイヤに腕を取られてしまうミア。

 

自らの腕をちぎり(えー?!)手の無くなった腕に、チェーンソーをくくりつけて、ゾンビの頭を真っ二つに。

 

小屋の前に落ちていた、デビッドから貰ったペンダントを再び首にかけ、本当に終了。

 

一番最初に憑かれたミアが、まさかの一人だけ生き残りになるのは意外だったなー。

それともスプラッタ系では珍しくないのか。

 

そこそこテンポ良く進むので、そこそこ退屈せずに見れたのだけど、もうちょっとスピード感が、個人的には欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かの悪名高いアドルフ・ヒトラーが、現代ドイツにタイムスリップして来る話。

 

ドイツへは行った事も無いけれど、現代のドイツにおいて、ヒトラーという存在がマイナスのイメージを持たれるタブー的存在である事ぐらいは、聞いた事がある。

 

しかし誰が見ても「アドルフ・ヒトラー」と分かる格好をした彼を、民衆はモノマネしてる芸人と勘違いし、歓迎。

どうやらヒトラーも、その勘違いに気付いてた様子。しかしあえて強固に誤解を解こうとせず、むしろそれを利用し、昔達成できなかった野望を成就させようとする。

 

ヒトラーについて詳しく調べた事はないけど、確かにこんな感じだったろうな、と思った。

本当の意味で頭が良いというかセンスが良い。大衆が望む事を察し、心を掴む。

多分、この映画を観ていてヒトラーの人間的魅力に惹かれた人は少なくないんじゃないかと思う。

 

で、深く物事を考えない。

ナチスと言えば差別偏見が当たり前だが、彼は女性副社長のベリーニと何の疑問も感じず手を組むし、秘書で仕事仲間のザヴァツキの彼女でもあるクレマイヤーがユダヤ人と知っても、さして気にとめなかった。

 

そして意外に思うかもしれないが、こういうレイシストは珍しくない。

もちろんそうでない人もいるけど、そういう人は大概影響力が無く、保守からも馬鹿にされてるので、あまり脅威ではないのかもしれない。

 

深く考えない人は魅力的。ノリが良く、楽しい。ヒトラーが正にそれだった。

しかし、この考えなさがあれだけの悲劇を引き起こした事は忘れてはいけないと思う。

 

 

現代ドイツも、日本同様に貧困、差別、出生率低下に悩んでいるらしく、そのためかもしくは、どこも所詮人間の集まりなので、人間の本質からして違いはさして無いのか、日本との既視感を感じた。

 

ドイツの極右弱小政党、党員は、きっとネットでは威勢良いんだろうな、と思わせるような、おどおどした大人しい人達ばかり。

そして正に、桜井誠ドイツバージョンという言葉がぴったりなボスは敬愛するヒトラーに怒鳴られ、泣きべそをかいていた。

 

どうやらドイツの極右組織には、ネット弁慶タイプと武闘派(ネオナチ)が居るらしい。これについては、日本には前者しか居ないよね?いや、良い事だけど。

 

そして普通の一般人とされる人達が隠し持つレイシズム、それを利用しようと考える人々という構図も日本と全く同じ。

 

ヒトラーがタイムスリップして来なくても、魅力的なレイシストは数多く存在する。

森友学園で話題になっている籠池夫妻も、ニュースで見ただけで人間的魅力の強い人だと分かるし、橋下徹も同様だと思う。

安倍夫妻は、現在はどうか知らないけど、ちょっと前までは本当に人気があった。

 

ヒトラーがコメディアンとして大衆の心を掴むようになると、youtuberが彼をネタにし、動画サイトではヒトラーのMADが作られるようになる。

 

そんな現状について、戦時を知る認知症の祖母は「あの頃も、最初は皆笑って見ていた」と言い警鐘を鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の幽霊と、向こうの幽霊の違いという話を聞いた事があるのだけど、それを思い出した。

もちろんコメディ映画って事もあるのだろうけど。

 

日本における幽霊は大概、なかなか姿を現さない。ようやく出てきても、静か~に、暗く、そっ・・・と出てくる事が多く、逆にそれでゾッとしたりする。

人への危害の加え方も、ノイローゼにして自殺させるとかが多い。

 

海の向こうの幽霊は、呼んでもないのに煌びやかに出てきて、ゲロ吐いたりして無駄に主張し、幽霊屋敷から勝手に飛び出し、街でパレード開いたり、軍隊や政治家集めてダンスショー開催したりする。

人へ危害を加える方法も、飛びかかって窓から突き落としたりと生きてる人間とやることがあまり変わらない。

 

ただ、幽霊とは関係無いけど、古今東西変わらないと思ったところもある。

頭隠して尻隠さず。なら、尻にパンツはかせれば良い。国民は飽きやすいからすぐ忘れるって会話。

臭いものに蓋という風潮は、日本特有のものではないのだなと改めて思った。

しかし日本の幽霊はあからさまに主張する事が無いから、この映画みたいな社会問題になるわけがないだろうな~

 

ところでこの映画、アメリカで、日本で言うところのネトウヨから、フェミニズム映画としてバッシングを受けた事でも知られている。

メニニズムっていうらしい。日本でも見られる現象だけど、こういう動きがあるって事は、女性が物を言いやすい世の中になりつつあるって事なので良い傾向だと思う。

 

レイシズム運動が目立つようになるって事は、今まで声を上げて主張する必要が無い程、レイシズムが当たり前だったのに、それが覆えされつつあり、レイシストが生き難い世の中になりつつあるって事だと思う。

だからたまに、「レイシストを差別するな」とかいう訳の分からない主張が普通に在ったりもするのだけど(;^_^

 

しかしこの映画、キャストの性別逆だったら、多分コミケで高くて薄い本がいくつか出てたんじゃないかと思った。英語圏の腐女子からは、「ブロマンス」って呼ばれてるそうですね、そういうの。

 

要は今作、ちょっと百合っぽかった。

唯一男性のケヴィンはBLの女性キャラみたいな扱いで、ちょっと残念だったし。イケメンが活躍する姿も、見たかったな~・・・

 

そんな訳で、是非男女逆でもお願いしたい。別にイケメンじゃなくても十分妄想できるんで!

 

え?前作がそれだって?だいぶ昔に見たので、よく覚えてないけど今作程メンバーの人間関係はクローズアップされてなかった気がします。最後はヒロインとくっついてたし。

 

 

 

 

 

 

タイ人が「日本人、気色悪い」とか言ったりする場面、けっこう多いので、「韓国、北朝鮮、中国以外の国は皆、日本人が大好きで尊敬している」と考えている日本人が多いらしい現在、原作者が韓国人である事もあって、原作共々多くの日本人から反発買ってそうな作品だと思った。

 

しかし実際は、上映時日本国内で大ヒットだったらしい。愛国ポルノが好きな日本人て、意外に少ないのかもしれない。

 

小児性愛者を喜ばせるような作品にしないため、また出演児童への配慮から、児童の裸や性交時の様子は最小限に留め、代わりに小児性愛者のクッソ汚い裸体、ケツのアップとか、喘ぐ様子がよく出てくる。

 

宮崎あおい演じる音羽を見ていて、イラッとすると言う人は多いと思う。そして、彼女と対照的な南部に、多くの日本人、観客は共感するようにできている。

 

 

 

故に、ラストにショックを受けた人は多いんじゃないかと思う。

 

音羽は「私は自分に言い訳をしたくない」と言い、タイ語で「話して!」と言い放って南部の手を振り払う。

 

実は少年愛者である南部は、その後ろめたさ故に臓器売買を暴こうとしていたが、自分と向き合うのが嫌で、児童買春とは決して関わろうとしなかった。

記事に書く事で、二度と同じ事が起こらないようにしている。だから目前の人間を見捨てたって良いのだ、と他にも「これで良い」と何度も自分に言い訳をしていた。

 

かつて自分が贔屓にしていた少年の腕を一方的に掴み、引いていた、そして「離して」と内心拒絶されていた南部と、子供たちと互いに手をつなぎ合う音羽が対照的に映し出される。

 

原作の南部は児童性愛者ではなく、普通の正義感強い記者だが、ラストは映画とよく似ていて、「タイのこの現状はどうにもならない」と自分に言い訳をして諦め、音羽に拒絶される。

 

音羽は常に、タイの被害者と共に悲しみ、憤り、助けるために必死だが、南部に代表される我々多くの日本人はそうではない。所詮他人事と冷めた目で見ている。

なぜ南部を児童性愛者にする必要があったのか?おそらく「見て見ぬフリに言い訳してる、あんたらも同罪だよ」と言いたかったのでは。

鏡にはそういう意味があったのかもしれない。

 

 

児童売買のブローカー、チットも印象的だった。

かつて児童買春の被害者で、子供に暴力を振るうシーンが無い。昔のトラウマから、児童への暴力を見ると吐き気を催す。

南部に対して「気色悪い」「お前ら心の中で何度も殺したよ」と言う場面は、ラストに明かされる南部の性癖への伏線だったのかもしれない。

 

 

原作でも映画でも、タイの警察はマフィアと繋がってるから、警察頼っても無駄という設定だが、映画のみ児童性愛者と店の人間が逮捕されるという、ちょっと救いのある結末になっている。

辻褄が合わないけれど、映画において描きたかった事のためにも仕方なかったのかもしれない。

最後、逮捕されたチットは拘束される児童性愛者らと、自らにかけられた手錠を満足そうに眺めていた。

また、かつての被害者で教員になったナパポーンは「タイを舐めるな」と、外国人児童性愛者に言い放った。

 

 

闇の子供たち 闇の子供たち
 
Amazon

 

 

 

 

 

 

 

原作と違っている点が多い。特に事件を調べる記者の家庭、これは原作には全く書かれていないフィクション。

 

しかしその設定が、この事件の根本原因を上手く表している。

 

最後、「先生」が「私の死を最も願っているのは・・・」と記者を指差すシーン、呆然とする記者。

 

おそらく記者は世間を表わしている。

事件を追い、それを密に楽しみ、正義という大義名分で覆い隠す。目前にある老人介護を妻に押しつけ、その現実は直視しない。

 

認知症の母親の死を無意識に願っている、そんな自分と向き合う事ができないが故に、現実から目を逸らし、「先生」に自分を重ね合わせ、死を願っているという事なのだろう。

 

かつて愛し、愛された人間を見捨てる事への罪悪感。それ故の自らの一部への憎悪。

「先生」が指差したのは、観客に対してなのだろう。現実から目を逸らし、逃げ続ける世間に対して。

 

実際、この原作に描かれているような事件は、福祉がしっかりしていれば起こらなかった。至らなかったがために起こってしまった。

 

しかし拝金主義思想の蔓延する世の中、そこに目を向ける人は少ない。「先生」さえ居なくなれば・・・で済まされてしまう。

 

フィクションが入り混じるが故に、逆にリアリティのある映画だった。

 

 

 

 

 

 

昔は良かった。と言うひとは「昔」から居る。

 

多くの人が懐かしんでいる「バブル期」が始まる前に描かれた漫画、「サザエさん」でも、「昔は良かった~」とこぼす爺さんが登場する。

 

確かに、昔の方が良い思いができた人もいると思うが、世の中全体が劣化に向かっているとは思えない。

 

バブル期って、本当にそんな良い時期だったの?私の肉親でバブル期を経験した人によれば、「あんなの一部の人しか恩恵受けてない」と言う。

一部の人かどうかは分からないが、今以上に格差が大きかったのでは?

 

どちらにしろ、私がもしその時期を生きていたら、今以上にろくでもない事になっているとは察せられる。

 

支援を受けられぬまま死んでいったある発達障害者

 

ちょっと前まで、障害者の中絶・断種は当然の事とされていた。

 

 

 

この漫画では、生活指導の先生が同性愛者や性同一性障害の生徒を矯正しようとする話があり、当時の世の中を反映している。

 

そう、そういう世の中だった。性同一性障害なんて言葉すら、ほぼ知られていなかったし、同性愛と共に矯正すべき個人のワガママであるとされていた。

 

念のために、作者が偏見の強い人だと言いたいわけじゃない。むしろあまり偏見の無い方だと思った。

ただ、当時はいかんせん知識が無かった。社会全体に。

 

外国人(アジア系)への差別も、昔の方が酷いものだったと聞く。

実際、同じ外国人差別者でも若い人と老齢の人で感じが違う事が多い。

老齢の人のそれは、悪びれる様子が無いというか、本当に自然体。体に、心に馴染んでいるという感じを受ける。

 

最近、「子供の貧困」の統計が30年前より増えているとか、障害者が増加したとか聞くけど、そのものが増えたんじゃあない、当時は存在しない者とされていた。

 

差別、偏見、貧困が昔は当たり前の事だった。だから問題にすらならなかった。それが最近、ようやく問題視されるようになり、議論が起きている。進歩だと思う。

 

犯罪についても同様で、虐待や少年犯罪が増加傾向と、よく聞くが、単に検挙率が上がっただけじゃないの?

 

本当に小さい、子供の頃に見た、テレビのある視聴者投稿をいつまでも覚えている。

子供の友達が明らかに虐待されているのだが、めんどうで通報したくないという内容だった。

 

スタジオはちょっと気まずい雰囲気になったが、すぐ茶化して誤魔化して次の話題へ移り、私が知らないだけかもしれないけど、その後もそれについて、どこも誰も騒ぎにしなかったと思う。

 

そういう世の中だった。虐待は知らないフリが礼儀、貧困者は自業自得の罪人、性犯罪はされて当たり前、同性愛や性同一性障害は単なるワガママ、障害者は存在しない、企業や国は絶対的存在。これが恥ずかしげもなく常識として、まかり通っていた。

 

それに対して、最近ようやく疑問を投じる人達が増え、議論になるようになったから、良くないものが「増えた」と感じる人が多い。

 

「昔の人は元気だった、逞しかった」というCMが、ちょっと前に流れていて、そういう言論もよく聞く。

逆に言えば、元気でなく、逞しくない人は生きられなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

順番逆だけど、外道の歌に続き善悪の屑です。

 

そうです、ネットの広告で見た人も多いであろう、うんち否定おじさんになったsyamuさんが綺麗なシバターと活躍する漫画です!

 

冗談はさておき、絵が「闇金ウシジマくん」に似ていると思った人は多いと思うし、そのせいかAmazonで検索すると、一緒に出てきたり、レビューで「闇金ウシジマくんとか好きな人におすすめ」と書いてあったりします。

 

しかし読了して、内容は真逆のように感じました。私は。

 

闇金ウシジマくんは、社会的弱者への憎悪が中心です。生産能力の無い人間=罪人という拝金主義を肯定した内容。

ただ、性暴力に関しては加害者への強い怒りが表れていて、それは作者のデビュー作「スマグラー」から顕著だったので、ひょっとして作者は女性では?と疑っています。

 

作者の真鍋さん自身、かつて消費者金融の負債者であった事を映画のインタビューで話しており、それについて「恥ずかしい」と言及していた事を考えると、かつて搾取される弱者であった自分への憎悪を抱えているのかもしれません。

ただ、後期になるとそんな考えに対して寂しさを感じつつある様子が窺える。

そうとう深く考える、難儀な性質の人なんだろう。

 

まともな母親が一人も登場しなかったり、仲の良い兄弟姉妹や親子が出てこないあたり、憶測にすぎないけど成育環境に難があったのかもなあ・・・

 

そして作中の弱者が苦しそうなのは、まあ分かるけど、搾取する側も人生が楽しくなさそう。登場人物皆、人生がつまらなさそうで、常に怯えているように見える。そして皆、寂しそう。

 

たまにほのぼの話を挟もうとしているのだけど、どうしても殺伐とした哀愁ただようものになってしまっている。

 

しかし以前他の記事にも書いたように、生産能力が無い=罪人という価値観が蔓延している今、真鍋さんが抱えるであろう、こうした憎悪や寂しさは珍しくない。。故にこの漫画は売れたのかもしれない。

 

念のために、決して真鍋さんを馬鹿にしているわけではない。ここまで自分のどろどろした内面を、あからさまに描くのはかなり勇気や覚悟が要ったはず。

 

 

 

しかし同時に、そうした拝金主義に抗議する声や疑問を感じ始めた人も増えている。そんな社会を反映するかのように、漫画版syamuさんこと善悪の屑も売れたのかもしれない。

 

いや、きっかけはsyamuさんだったかもしれないけど・・・(^_^;)

 

この漫画の被害者はリアリティがあって良いと思った。

 

どういう事かと言うと、自業自得、注意が足りなかった、自己責任、等と世間からバッシング受けそうな背景を持っている。

また、依頼人が皆、攻撃し易そうな弱者である、近年疑問視され始めた被害者叩きに曝され易い人間ばかりであった。

 

しかし復讐屋は被害者の背景について、一切咎める事が無い。

 

弱者への寛容さや優しさ、被害者叩きをする世間への問いかけのように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitterで最近、少し話題になったのが、昔起きた橋下徹の出自暴露報道。

 

その報道について、批判する人達はもちろん存在した。

 

でも普段は、人権擁護派の多くがこの報道について、屁理屈こねて肯定していたのも事実だった。

 

 

差別って、要は気に入らない奴を貶めるための道具。言いがかりと言っても良い。

 

だから人は皆、レイシスト。気に入らない奴の居ない人間などいないし、嫌いな奴に言いがかりをつけたいという欲望を抑えきれる人間もいない。

 

故に、人治国家は良くない。

そして、特定の宗教により国を治めると、他の宗教への弾圧になるから、政教分離も必要なわけで、故に「神」による支配も良くない。

 

レイシストの度合いは、どれだけ人好きかで決まる気がする。

普通に考えて、言いがかりをつける相手が、気に入らない奴だからだ。

 

人好きなタイプって、差別や偏見の多い思想でも、いざ被害者と遭遇すると、意見を覆し同情する事が多い。

もちろん、思想がリベラルでも同様の人はいる。

要は、レイシストの度合いに思想は関係無い。

 

私は思想はリベラルだけど、超レイシストだと思う。

人間恐怖症なので、世の中気に入らない奴らだらけ。全ての人間に対して、内心言いがかりをつけているし、「ざまぁww」と思っている。

 

でもそれは肯定されるべきではないと思っているし、正直な話恥ずかしい。

 

だから、レイシズムを公言するネトウヨが憎たらしい。ホモのホモフォビアと同じ構造の憎しみなのかもしれない。