どうも、前回の記事からバタバタ続きで、少しだけ手が空いて無心になっている僕です。



ちょっと寝不足な状態でも心の赴くままに記事を書いています。



前回の記事にあったように「生みの苦しみ」についてのタイトル(タイトルの比喩がおかしいかな?)ですが、結構な神経を使いますって言いたかったです。



なぜなら、自分自身の明確なイメージが欠けていたりすると、それを全体に伝えた時に、いずれ全て自分に跳ね返ってくるのが明白だからです。



必要に応じて資料を作成していく中にも、細心の注意を払いながら間違ったニュアンスで伝わらないように気を付けています。



ただ、僕の資料作りには弱点があるので、僕のグループの方にそこを補強してもらう事になりました。



その弱点とは、どうしても「簡単な資料」がなかなか作れない事です。



資料の簡素化?みたいな、一般の誰にでも分かるような資料作りって言うのは、どちらかと言えば僕は苦手な方です。



こう言うところだけはクソマジメになっているのでしょうか、資料が出来上がる頃には内容がいつもモリモリになっています。



今は発想を変えて、とりあえず一通りパリっと全体を作ってみてパワーポイントデータでそのまま渡す形で、「後は修正かけて使えるところだけ抜粋しちゃって下さ~い方式」を採用しました。



昔のクセも相まって、専門用語を極力使わないようにしていても少々くらいは読む人が「ググってくれるだろう」って意識が僕の中に残っています。



だから僕は大衆に受け入れられる資料作りの感覚が分かりません。



という事は、その心が分かる人に頼めば良い事に気付いたのです。



僕にこの発想が無いという事は、それを持ち合わせる人に託す事で更に良いものが出来ます。



僕の得意分野は「何もないところから叩き台として、一気に全体を描く事が出来る事」です。



これらを役割分担式で、いくつか作っていくうちにノウハウと言いますか、一般の方(僕みたいな変人を除く方)が手に取りやすいマニュアル的なものが完成していくと思います。


マニュアル作りが苦手って事は、やっぱり僕は奇人変人の分類なのでしょうね。



どこかで誰かが僕のグループ傘下に加わったとしたら、その人にとって使いやすいガイドラインが出来あがるという次第です。



僕はあくまでも、構想のテンプレートを作ってしまえば良いのですね。



以外と神経使うんですが、これも手抜き出来ない性格だから仕方ないかなぁ。



ちなみにその反動で僕の日常生活は手抜きだらけで、だらしないです。



僕は人から「アイツ、いつも明後日の方向を見てるよな」とか、「とんでもない天然素材だな!」と言われるタイプです。



まぁ、日常生活は魂の抜け殻になっていますので、とにかく仕事だけは長年僕が描いた通りに仕上げていこうと思っています。



ぁ、ところで、いつか書いた記事にある「事業の仕掛けのプロセス」のような内容にある第一段階が埋まりそうです。


このマニュアル的なものが完成するという事は、「事業の旨味」が減ります。



だって、分かりやすい資料が多くあってやり方が整ってきて、実績を出す人が増えて人気が更に出て競争が激化して、ライバルが増えたら旨味がなくなってくるのは当然ですよね。



結局、多くの人は「無いものねだり」なんですよねぇ。



大きく稼ぎたい、または遊んでいてもお金がそこそこの安定して入ってくる本物の権利収入で自由な時間を得たいのであれば、人と違う事をしなきゃいけないでしょう。



僕は最近までずっと、ノウハウやマニュアル作りに無頓着のままでいようと思っていました。



そして、積極的に僕にどんどん問い合わせ等をぶつけてくる人にチャンスを割振ってみようと考えていました。



そのチャンスを生かすも殺すも、その人次第ですが、問い合わせのアクションを起こしてくる人は当然、人とは違う何かを持っている人だと思います。



文章のやり取りや出会っても、いきなり自分の話ばっかりしてくる人が大半の中で、逆に知識と情報に飢えているから満たすまでひたすら貪欲に吸収しようとしてくる人に会ってみたかったのです。



という事は、僕のグループの中にそういう人が現れたのかな…?。



でも、まだ見込みの段階です。



それよりも今まさにこの記事を見ている人が、僕にメッセージかコメントか何かでアプローチして来た場合、僕はどんな対応をするでしょう。



僕の場合は、チャンスだけは皆平等にあるって考え方なので、ある程度面識を持っていって、いろいろ吟味した上でその時の判断をします。



とりあえず最近は資料作りの要請・要望が無視できないので、役割分担で引き受けていますが、野心溢れる人にとってのチャンス枠が時間の経過と反比例して確実に減りますね。



参加しやすい=ライバルが増える




市場の取り合いが始まる=競争が激しくなる




だったら、やりにくい時から取り組んでシェアを広げて勉強すれば成功しやすい=正解に限りなく近いです。




それなのに、多くの人は「分かりやすい資料をくれ」、「この事業媒体や母体は大丈夫なのか?」という虚像ばかりに目を向けます。



は!?虚像ってどういう事や!??



と思われた方は、望み通りのライフスタイルを手にするのが難しいと思いますって意味です。



真っ先に「事業媒体とか母体とか、本社の大きさとか気にならんのかい??」って質問が浮かぶでしょう。



そんな質問がもしも僕に飛んできたら、僕の回答例は「YES!!」




果たして僕は変態でしょうか?




成功する人の多くはそんなところを見ません。




んじゃ一体どこ見てんの?




となりますが、その前に大きな企業が怪しくないとでも思いますか?



企業等の実績がそこまで大事ですか?




って考えて頂けると前に進みやすくなるかもしれません。




異常に思われるかもしれないですが、正解に限りなく近い発想は「膨大なリサーチ力に基づく今後の読み」なのだと思います。



あとは、代表者や発起人をよく見る事です。



創始者の考え方や心構えや人柄・その他の全ての要素を見抜く事がとんでもなく大事です。




アリババがV字回復成長を遂げる事を見抜いた孫正義はどこを見ていたと思いますか?



当時のアリババをぱっと見て、「ぉぅ、おまえの会社は赤字20億円か、ほんなら投資したるわ、ほとんどの株を所有しまっせ~」



と彼は言ってのけたのです。(簡単に言うとこんな感じね)



前者に着眼を置く人が多い中、孫正義が見ていた部分は「アリババは必ず当たる」の後者の着眼点、その一点張りでした。



孫正義が見ていた観点というのは、膨大なリサーチをする中で読みの鋭さがハイクオリティとなって、先見の明が誕生した


そして、アリババの代表者の目を見て直接いろんな角度で話をして、その考えやアイデアや構想を聞き、まっとうにやり抜く器を兼ね備えた人物で今はちょっとピンチ状況なだけである。



という判断をしたのではないでしょうか。




マクドナルドの藤田社長にいきなり会いにいった若き日の孫正義は、奇人変人と言われていました。



彼はおそらく、自分から必要な情報を取りにいっただけの事なんでしょうね。



当時の藤田社長の考え方やその他のいろんな部分を得る為に起こした行動は彼にとって当たり前の事だったのですが、一般的には非常識だったようです。



では、常識という名の「洗脳」の正体は何でしょうか?



え?



洗脳が正体なのではなくて、「洗脳の正体」って何なの???




それは「巧妙な社会の仕掛け」自体だと僕は思っています。



今日もご愛読ありがとうございました。

どうも、珍しく仕事に追われて少し息抜きしている僕です。



過去記事、特に去年に遡る事から約1年の準備を経て、ようやく事業の本格的なスタート(Xデーと称しています)を切れると思っていた矢先に、予想外の展開が起きてしまいました。



今日は時間的に長文をかけませんのでホッとして下さい(自分でも理屈っぽいキャラになりつつあるような気がしていたからホッとしてしまう)



システム構成の最終段階で、若干の想定外が起きてしまったのです。



これにより事業戦略の軌道修正が必要となりました。



細かい事はあまり書けませんが、的確な例えが「形状が少し変わった武器が完成した」という事です。



その武器とは何でも良いんですが、例えば刀であれば研ぎ澄まされていない刀という感じです。



もう少し研がないと、もうちょい納得の切れ味が出せないって感じです。



切れるんだけど、もうちょい…あぁぁぁ!!もどかしい!



という感じです。



しかし、これは僕の贅沢な悩みなのでしょうか。



何はともあれ刀は完成したのです、その事には感謝です。



だから別に不平不満がある訳ではなく、それに応じたやり方を考案し、すぐさま実践で使えるようにしていくだけの話になります。



やがて、それをグループ全体に伝える必要がある。可及的速やかに…



新ノウハウは一度確立してしまえば、それが当たり前になるのですが…生みの苦しみはありますね。



思考錯誤も必要なので、なんだか少し忙しくなってきそうです。



ぁ、順風満帆に行かないストーリーが偶然にも意図せず、現実に起きてしまいましたね。



本題や詳細が今は書けないですが、武器が完成した事による夢や希望はあります。



今日もご愛読ありがとうございます。

どうも、ありがたい事に最近はいろいろな方からのメッセージを頂き返事が遅れがちな自分が恥ずかしくなっている僕です。


元々は僕が引っ込み思案で日頃から表舞台に出ないようにしているので、ご連絡を頂く事は非常にありがたいと思っています、いつも感謝します。



そんな中、今日のタイトルは最近僕がメッセージを頂いた方と実際にお会いした出来事の話を一部抜粋してします。



その方と会話をしていく中で、僕のプロフィール的な過去のいろいろな質問があって、それらに答えていくうちに、その方から「自伝本を出版されたらどうですか?」というご意見をもらいました。



確かに僕は出生から今に至るまでにいろいろあり過ぎたので、率直にそうおっしゃって頂いた事は嬉しい気持ちになりました。



僕自身は、いつか機会があれば本を出せるものなのかな?と思っていますが、元々が控え目な性格でもありますので、ひっそりと生活するのが好きなんですよね。



だから、現段階ではこの点はあんまり深く考えてないです。



そんな事を言っても、今の時代はいつ誰かから僕をピックアップして取り上げて、僕が不意に有名になってしまってもおかしくないので、その時がきたら訳の分からん腹をくくります(笑)



まぁ、そんな事はさておき、ノンフィクションというのは僕も好きですが、「その次の段階」に価値を感じて頂ける方が多いんだなぁと感じた事です。



よく考えてみれば確かに一理あるんですよね。



順風満帆な人生を送った、成功して良い部分だけを語る話に魅力はそこまで感じません。



人生という実際の物語の中には、ヒロインの紆余曲折から恰好悪い若気の至りまでのプロセスまでが詳細に描かれたエピソードがあればある程に、人はその作品に「共感」を覚えるんですよね。



まさか、自分自身をそのように垣間見る事は無かったのですが、それ程に僕は奇人変人だという事は確定しました!(^^)!



やはり人間って直感で「腑に落ちない」か自分にとって肌に合うの事なのかのアンテナを常に持ち合わせているみたいです。



例え一時の感情の移り変わりでいろいろあったとしても(恋愛や怪しい新規ビジネス?など)、高揚感が収まり冷静に分析出来るような時期がくると、自分の中にある判定基準が鋭くなっていきます。


感性を研ぎ澄ますとは、正にこの事ですよね。


僕が独学で習得した、ある統計学で算出しきれない部分は人間という器に入っている根幹の「Soulというか魂」という表現に限りなく近い部分と、人生の修行によって境涯が変わっていく度合い、つまり「器の技量」です。



そこだけは目視をして、実際に会って話をしないと計測が出来ません。



純粋にその人を分析するという基本に返るのですが、前者は眼の中の瞳を見る事で概ね判断がつきます。



今よりまっだまだ修行の足りなかった頃の僕は、ここを完全に見抜けずに人の言葉に惑わされていました。



正しくは、情ですけどね。



僕は騙されやすいので、その人に情が移るとヤラレル側が多かったのです



怖がりだから僕は分析が多いし、理屈っぽいんですよねぇ、全くダメよ~、ダメダメ!ですが…そんな僕を嫌いになれない僕もいます(+o+)



ちなみに後者は今の僕の取り組んでいるテーマでもありますし、人を分析する上でも最も難しい分析の1つになります



統計学で算出しても、ドラクエみたいなゲームに例えるレベルみたいなものが人間に存在する事を僕は確信しています。



カッコ良い話になりますが、これって結局「人生に無駄がない根拠」になるんです。



人は旅路の果てで手にするものは様々だと思いますが、「嘘や矛盾を含めてそれも人なんです」って受け入れ、悟る人もいれば、僕のように悟っていてもダダをこねて受け入れる器の無い人もいます



別に僧侶等になって修行するだけが手段ではないので、人生の修行を乗り越えていってそのステージごとに何かを得た人は、器のレベルが上がっているので過去のその人とは違う、まるで脱皮したようになる別人になるんです。



統計学で人を植物に例えて向日葵(ヒマワリ)に分類したと仮定します。



同じ向日葵でも日陰、日向どちらの環境が望ましいかと言えば日向でしょうし、愛情という名の肥料はあればある程に良い事だと思います。



ただ、過剰に水を上げ過ぎてもいけなかったり調整が大変だったりいろいろありますが「屈強な向日葵」か「しなびた向日葵」かに分かれてきます。



そこにレベル差も生じるんです。



例えを人に戻しますと、統計学でほぼ同じ人間に分類されても、同じ人間なのに…何故こうも違う?という事になります。



考え方と心構え」がかなり密接な関わりを持っていますが、やはり鍛え方ですね。



何かを失うとばかり目を向けがちですが、同時に何かを得ているという事なんでしょうね。



過去記事にあるように、本人が気付かない事も多い。



人によって大器晩成型があるのは、そういうのも影響すると思います。



本題に戻りますと、表現や形が違えど、何か通ずるものがあると人が直感的に感じるというのは、未来を決断する上で参考となる良いデータベースになるんですね。



かと言って直感に頼り過ぎてはいけないですが、直感を適度に活用する事で無理の無い生き方が出来るようになってきます。



直感力のレベルアップ→判断力レベルアップとなるのかな?



左脳のような理論や理屈は思春期を超えたら、誰でもそれなりにたくさんのデータが蓄積されているので、残る右脳のような直感をどう生かすかで「努力のやり方や方向性」が変わってきます。



具体的に行動しなければ、具体的な答えが出ない



これも究極の一品ですよねぇ。



当たり前過ぎて、当たり前体操をしたくなります。



この枠に今日の僕のタイトルが当てはまると感じて頂いた方は「いいね!」を押して下さい。(言ってみただけです、でも本当に共感して頂いた時は感謝します)



今日もご愛読ありがとうございます。

どうも、またまだ夜中にブログを書いている相変わらずな僕です。


やっぱ夜型だなぁと感じます。



今日のタイトルは、今の僕の率直な気持ちから来ています。



自問自答している「このブログを何故更新して、いつまで続ける気か、どこかで終了させるのか?」が根底にあるのかもしれません。



結論から言うと、まだはっきりと分かっていない、見い出せていないんですね。



深層心理と言いますが、僕の場合は過去回想に加えて「アドラー心理学」の発想に基づいて再分析をかけてみます。


自分でもたまに分からない言動を取ってしまう理由は、一体どこから?



という考えは必要かもしれないですが、後者の心理学に基づく「どこへ?」



というのが結構大事だったりします。



過去を見つめるよりもまずは、今から未来を照らしているであろう方向を見るという考え方です。



照らす光の筋で例えると、その光はどこへ向かっているのか、その方向が見えたのならば、光の発生源(発生元)が分かるのではないかという事です。



一見すると本末転倒に見えますね。



「何言ってんだ、過去回想をして分からない自分の深層心理で、どうやって先を見い出すんだ?」



確かに、そういう考えも一理あるでしょう。



しかしここで今一度精神統一をしてみて、自分がどこへ行こうとしているのか、どこに向かっているのかを見つめ直してみると案外、導き出しやすいかもしれないです。



結果的に急がば回れなのかもしれません。



ある意味で、催眠療法等の真逆の発想です。



過去のトラウマを持つ人からすると混乱するかもしれません。



しかし、過去は変えられないので、今から未来を創造していくしか自分を変える手段が無いのかもしれません。



自己啓発やビジネスの場面、ダイエット等を決意した人が3日坊主でいつもの日常生活と習慣に戻る原因も、もしかすると過去回想分析方法に原因があるかもしれません。



あくまでも人によりますが、現代における大多数の人々は心に何かを抱えているような気がします。



それが何なのか、と考えるよりも逆転の発想で今が通過点と割り切ってみるのです。



今いる場所が間違いであったとしても、全ては「自分の生き方・やりがい」を見つける為の人生で大いなる終着駅へのプロセスでしかないと思います。



おそらく答えは1つじゃないので、段階的に組み立て方を間違えなければ良いと思います。



変身を遂げている←長期目標←中期目標←短期目標←安易に達成出来る小さな短期目標の連続←自分の今の状態。



僕の逆あみだくじ発想で書いてみました。



例えばダイエットにしても一週間で1キロ痩せる目標を立ててみて、達成して自分を褒めてまた一週間頑張るを繰り返す。


(食べて痩せる手法に基づいている事が前提、最低限の正しい知識は必要)



その流れを作りだして、まるで寝る前の歯磨きをするように習慣化し、一ヶ月で4キロ、3カ月で12キロ痩せるという道を辿る事。



自己啓発においても、まずは自分の身の回りを今週中に片づける。



周りの人に感謝の意を持つ、それを思い浮かべている自分の姿を鏡で見る。



今までしなかった小さな行動を繰り返す。



3ヶ月、半年、1年と変化している自分を確認する為に日記やブログを始める等。



ビジネスの分野ならば上記にある計画を更に細分化して、具体的な行動を組み立てて実践していって小さな実績を積み重ねて自信を付ける事から始める。



下積みや準備が8割以上となるので、何もなく「成るように成るさ」って思わない事。



余程のレアケースが無い限り、世の中そんなに甘くないし、それで成功するなら誰も苦労しません。



こう考えていくとやっぱ、みんな本当は分かっているのかもしれないですね。



目を背けて人のせいにして言い訳を立てたい。



自分の弱さを認めたくない、メンツもある変なプライドもある。



全てをかなぐり捨てる事が出来ない自分がいる。



出来ないんじゃなくて、単純にやらない。



何故やらないか、それはやりたくないから。



本当は変わりたくない。



変化が怖い、無関心でいたい、自分に自信が持てない→その他、無限の負のスパイラルが未来をかき消す。



勇気を挫かれずに希望を持ち、現実をしっかり見つめて足腰を鍛えてまた前進していく。


1人に見えて本当は1人じゃない、同じ心の境涯の段階の仲間に出会えてないから探しに出かける。



つながると1人じゃない事を悟り恐怖が消える。



絆とは何かに気付き、勇気を持って行動する事が出来るようになる。



それが実績を伴っていくので、少しずつ自信につながる。



自分がちっぽけだと感じる程のイケてるカッコイイ本物と出会う。



自分の変なプライドやメンツがいつの間にか違う観点に置かれるようになっていく。



消える事のない本当のプライドやメンツは、どこに置くべきか気付く。



ここに自分のプライドを賭けてメンツはここに置くって決まってくるとやがて、全てをかなぐり捨てる勇気が持てる。


正のスパイラルの上位互換として、「聖なるスパイラル」が出現してそれが無限に続く。




ざっくりと書き綴ってみましたが、いくらITが進んだとか医学や科学が進んだとしても人間の心は歴史を見ても普遍的。



操縦者は何万年前の人間と大差ない。肉体は進化しても精神構造はそこまで変わらない。



逆に操縦者がしっかりしていれば、何をやってもうまくいく。



全てが手段だと気づいているので、自分自身がコントロール出来る確信があるのだから必然的と言える。



やがてそれは運気まで上げてしまう事もある。



足元にたくさん転がっているのを拾ったら、後は顔を上げて迷わず行けよって思えてきましたね。



自分がどこへ行こうとしているかを見つめ直す事って、やはり重要ですね。



潜在意識のベクトルが変換されたら、必然的にその人の終着駅へ向かうように出来ていると思います。



心の栄養素が不足している部分が分かれば、その人はそれを解消するために新たに求め探し始めるので、必然的に先を見つめ直す事が先決で結果的に急がば回れとなるんじゃないかな。



例え途中で挫折しても、何度でも組み立て直せば良いと思います。



それらが整ってくると、人生の様々なタイミングが合ってくる気がします。



何かが噛み合う瞬間、今までのようなすれ違いが発生する事もなく、不思議な事に、そして自分でも驚く程に前進出来る瞬間が訪れる。


それも「訪れる準備が出来ている人」にだけ訪れるようになっている何か目に見えない法則があるのかもしれない。



ちょっと僕の体験談も交えましたが、サクセスロードは人の数ほどシチュエーションが違うでしょうけれど、その人なりのストーリーが予め用意されている未来が存在すると思います。



そのパラレルワールドにある未来へ移動する形を取る事も、何もせず今のまま過ごす事も、選択権は自分にあります。


例えば今日、お出かけする自分、家で過ごす自分、この2通りの未来が予め用意されているだけです。(細かく言いだしたら無限大数通りのパラレルワールドが存在しますよね)



何か腑に落ちない、しっくりこないなら、しっくりと合うまで違う角度で何度でもトライし続けるという流れがどこかで生まれる時があります。



今の決められたレールの先にそれが見つけられないと分かった時は、自ずと違うレールに乗っていこうとするでしょう。



ただし、足腰立たない間に大きなジャンプも出来ませんよね。



僕が意識しているアカシックレコードが見え隠れしますが、あんまり書くとクレイジーかただのオカルトになってしまうので今は割愛します。


自分の魂が何光年も先へ進んで、また時系列を巻き戻して転生し、人生をやり直している気がする時もあります。(僕は頭おかしいのかな)



パラレルワールドを楽しむ自分がいるのかもしれない自分もいます(良い病院があれば・・・w)。



それにしても人生は日々、修行なのでしょうかねぇ(@_@;)いろいろありますねぇ。



このように書いているうちに何だか少しですが、僕も改めて先がぼんやり見えた気がします。



見えているつもりの自分が怖いです。


自分の驕り高ぶりを制御する事を忘れてはいけない気がする。


常に再点検と分析を繰り返さないといけない僕の性分から、何か少し解消したかもしれないと感じました。



また長文になっちゃいましたが、今日もご愛読ありがとうございます。


どうも、今日はハローウィーンなので早めにブログも早めに更新しようとしている僕です。



タイトルにある金融緩和の時期は仕掛け側として、またサプライズというパフォーマンスを持ってして小さな成功事例の1つだと感じました。



経済市場にとって今日は、まるで僕がよく例えて使う「Xデー」みたいな感じです。



今日までの水面下でどれだけの動きがあったのか、魅せ方は異例だと言われていますが、全て必然だと思います。



東京オリンピックの背景があるから、ある意味で当然の流れですね。



僕にとってはサプライズでもなく、そろそろ起こり得る事だと予測していました。



昔の円安はそのまま景気につながっていましたが、昨今の急激な円安には産業空洞化した現代にとって歪みを生じるリスクを伴います。



その反対派を押し切ったのは、消費税10%を決定しなければならない理由からくる現実的な問題なのでしょう。



あまり政治に意見しない僕ですら、日銀総裁と首相の仲良し度合いから予測を立てた程です。



今、消費税を10%にしないと首相が提唱している「3本の矢」の1つが折れてしまう事になる。



総裁の立場で見ても、緩和を今実施しないと増税後の経済失速リスクを回避出来ないと判断したものと考えられます。



僕の個人的な意見ですが、今が適切なタイミングだなぁと思いました。



出口なき金融緩和とかって、一部マスメディアが言っているけど急激な変化に対応しきれない人々の反感を買わない為、そして同調を誘う為の謳い文句かなって感じました。



いつの時代にも、対応しきれない人もいれば変化にチャンスを見出して成功する人もいます。



百数年前くらい前に遡ってその歴史の一部を、時系列順に産業革命、農業革命、IT革命という節目で捉えても同様です。



それらの節目で、多くの人々は岐路に立たされてきたと思います。



いつの時代も、時代に取り残されるか生き残るか、自由な発想で先取りで乗るか等に分かれてきました。



ところで、真相に迫ってみる?ってタイトルにしたのは、僕にとってはサプライズな出来事だと感じなかった理由として、僕が仕掛け側の観点で分析したからって言う意味です。



みなさんはどう感じたでしょうか。



今日もご愛読ありがとうございます。

どうも、気温差で体調を崩して気管支炎で悶絶していた僕です。



今日のタイトルは、現代社会で大きなウェイトを占める人間の防衛本能に触れてみました。



現代は情報化社会と言われる故に、自分自身が混乱しない為に多くの人はこのようになっていくと思います。



しかし、この処理の仕方を誤り、見極め方をマスターしないと常に仕掛けられる側になってしまうかもしれません。



つまり、ここに付け込んだものがビジネスの仕掛け側のコツという事になります。



思考力を麻痺させる原因は他にも様々にあるので、一概には言えませんが考える事を辞める事は危険な事かもしれないです。



そして、この状態が慢性的に続くと、何に対しても洗脳化しやすくなると思います。



自覚ある洗脳は無いので、これは誰にでも注意するべき事なのかもしれないですね。



都合の良い部分しか情報を抽出しない性質を利用したものがいかに多いか、数えきれないくらいです。



ここを意識出来る人は、第一段階は脱しているかもしれないです。



でも、第二段階から少し難しくなってきます。



第一段階の人の事がよく見えるので、自分は大丈夫と思う過信がそうさせます。



客観的に物事を見て、考える事や自己工程の前の分析等に至るまでのプロセスになかなか踏み出せません。



第三段階にある情報の咀嚼に至っては、より高度な分別処理能力となってくるかもしれないです。



そうしていくつかの段階を経て、経営者以上に必要な瞬間的な判断力や分析力が見に付くと思います。



ローマは一日にして成らず、とは良く言ったものです。




仕掛け側の観点に立って、このテーマに触れましたが、自分のビジネスや他の事がうまく進まなくなった時はここを原点とすれば良いかなと思っています。



実はこれ、非常に重要な話をしているかもしれないです。




特にビジネスの世界は仕掛けるか、仕掛けられるかしかないという前提で、綺麗事はないと思っていますので、シビアに意識する事が応用力につながってくると思います。



どのターゲットの何パーセントがどのような段階であり、どこに対してどんなアプローチをすべきか、そのハードルの高さを設定し・・・



これ以上は、自分で考えてみて下さい。



僕も毎日、ずっとぐるぐる思考し続けています。



時代に合わせて変化に対応しないと意味ないですから。



何かの参考にと思い、ブログに書いてみました。



今日もご愛読ありがとうございます。


どうも、朝からブログを書いたので台風を呼び寄せてしまった僕です。



総点検をしているうちに、このタイトルが頭によぎりました。



奇抜なアフィリエイトっていう部分も、紙一重になります。



もし、僕自身に何の実績もなかったら単なる前者になっていたでしょう。



基礎を積み上げた上でオリジナルを追求する事と、最初から我流で勝手に基礎も無くやるのとでは全く違ったものとなります



基本的には何でも後者じゃなければ、どの分野でも実績を残す事は極めて困難だと思っています。



基礎を積み上げる為の期間は人それぞれですが、遅咲きする人は若干有利なのかもしれません。


何を持って基礎と定義付けるかも様々ですが、ジャンルに応じた基礎と呼べる、または相当する要素の全て(経験や知識やスキルや他たくさんの事)が大まかに定義となってくるのではないでしょうか。



何かを始めるのに遅いって事を考える事自体、時間と労力がもったいない事です。



蓄積された経験や知識は、本人が気付かぬうちに基礎となっている事が多いです。



それらがいろんな作法の基本となり、蓄積されていく中で自然と出来るようになっていくでしょう。



礼儀作法もそうです。



他にもいろんな場面で作法が試される事が多いです。



ジャンル別でスポーツに例えるなら、野球は素振りの型に相当すると思いますし、相撲では足腰の鍛錬である「四股を踏む」等も、作法と呼んでも良いのかなと思えたりします。


練習というのは行儀、礼儀作法に始まるところも多いと思います。



きっと何かに通ずるんでしょうね。



アフィリエイトならば、ジャンルは様々ありますよね。


トレンドアフィリ・ブログ型アフィリ・SNS型アフィリ・サイト型アフィリ等と一口に言ってもいろいろやり方は分かれていますが、「情報を発信する事」は共通するので、ライティングやプログラム等の基礎の1つとしてカウントされそうです。



僕の場合は、判定が微妙ですがライティングの基礎に関しては過去の実績によるものって、定義しています。



微妙というのは、自分の基礎がどこまで構築出来ているかを測定しづらいからです。



自分ではイケテルと思っていても、他人から見れば…なんて事もあるくらいですので。



しかし、価値観は千差万別で受け入れられる人と拒否られる人に分かれるので気にしていたら日が暮れると思っています。



ただ、その中で共感して頂いた方を大切にしていきたいので、見苦しい表現や文章の書き方をしないようにって意識を持ち、いつも自分なりに最低限の注意を図る事も基礎の1つだと考えています。




我流のまま突っ走る事と、オリジナルの確立を目指す事の違いは大きく、ここを勘違いしている人をよく見かけるので、常に自分も身を引き締めないと基礎を怠って前者に陥るかもしれないです。



傲慢や甘えが最大の敵ですね。



やはり外ではなく、自分自身との戦いしかありません



外に向けたらどこかの紛争や戦争の話みたいになってしまいますよね。



おそらく他人との暴力から何も生まれないんじゃないかな。



理不尽に対する訴えを起こして戦う事ことは、デモの行進等もあるので手段次第で理解出来ますが、武装して暴力に訴えかけるのは理解に苦しみます。



訴えを起こすからには自分のやりたい事を押し通せば全て正義って事なんでしょうか。



気に食わない人を殺すのも、どうなんでしょうか。



自分自身が幼い時から、そこまで自己主張を押し通してきたのでしょうか。



幼い時にダダをこねても、親や周りから叱られて、共存共栄を学んできたのでは…、つまり根気の話し合いによる和解等が解決につながる糸口になるんじゃないかなって思っています。



争いには憎しみの連鎖が続くので結局、問題の解決から遠回りする気がしています。


急がば回れで異文化や価値観の違いや宗教の違いでも1つにならなくて良いっていう感覚をコミュニケーションによって図っていく余地、発想を1人でも多くの人が持ってもらえたらと嬉しいです。



特にこんなにも宗教が多い日本国内で宗教争いが皆無って言うのは、世界に誇れる実績の1つだと思います。



日本でクリスマスを祝うなんて、きっかけはどうであれ、お互いの価値観や理念や宗教等の違いを認め合う、良さを分かち合うモデルケースとしては自慢しても良いくらいだと思っています。



仏教の国で…他にそんな例ってあるのかな。世界を見渡しても数少ない例の1つだと思います。



戦うべき相手は自分自身の様々な固定概念やら怠慢やら傲慢やら思い込みやら、おこがましさやら、依存やら甘えやら・・・煩悩ですよね。



そこから目を背けるなんて恥ずかしいと思う事が大事、つまりは日本の古き良き武士道の基本となる「恥」を知る事はとても大事かなと思えます。



無責任な大人達、そして学歴社会がまだ通用すると思い込みの激しい親達等は、自分自身を顧みる事すらしない「恥」を知らない人が多くなりました。



だからと言って、その人達のせいにしてはいけません。



自分を確立しなきゃいけないからです。



反面教師にすれば問題は一気に片付きます。



余程の害を及ぼしてくる人達ならば、そんな人間関係はうっとうしいので出来る限りで、拒絶と絶交をしていけばいいだけですし。



そうして新しいイケテル人達と繋がると自分のステージや運気まで上昇すると思います。



つまり、過去のいざこざが人生のあらゆる基礎に成りえる可能性を秘めてるって話。



可能性なので、それを実現させるのも宝の持ち腐れにするのも自分次第です。



宝の持ち腐れをして言い訳が多い人は、単なる甘えたちゃんです。



以前どこかで「人は生まれながらに平等ではなく、チャンスだけは平等」だと僕が言った事に当てはまります。



今の境遇なんて、上を見ても下を見てもキリがないんです。



そもそも何と比べてんのか分かんないくらいに意味の無い事だと思います。




我流とオリジナルも意味が混同してしまいがちですが、ちょっとした一言が抜けているが為に、大きく違う意味になってしまったのだなと認識出来ます。





自分勝手にやる事と、オリジナルが確立した事=本物の我流は違うということ




つまり、我流はどうのこうのって僕が今回の記事にしていますが「本当の」って言う言葉が抜けた為に間違った価値観が蔓延したかもしれない気付きもありました。



本物のって言う言葉が抜けただけで、自分勝手なものとなりますね。




「人は生まれながらにして平等」も、誰かが「機会」っていう言葉を抜いたのかな


それとも最初から間違っていたのかな。





例えば、ホーキング博士は発語や書字によるコミュニケーションが取れないことからコンピュータを駆使する事によって、意思伝達を行なっていき、結果として立派な仕事をしていました。



有名になった、成功者の1人だと思いますが、重い病気を患ってもチャンス(機会)は平等なのだと証明していると僕は思っています。



仕事が無いとか言ってる人って、どうなんでしょう。



一言抜けていますよね、今の自分に合った仕事が無いって言うのが正しいと思っています。



辛口ですが、「今の」って言う状況と照らし合わせると、その人の心構えや考え方が大きく起因しているケースがかなり多いです。



全てがそういったケースではないかもしれないですが、少なくてもコンピューターを使わなければ意志伝達すら出来ない博士のような方でも、立派な仕事が出来たので、やはり「考え方」と「心構え」1つで仕事は出来ます。



自分自身が変わっていく事で、勝手にオファーが来るって事ですね。



求められる人材というのはスキルや学歴よりも、スピリッツを重視する傾向があるという事ですね。



僕が社長でどんな社員を雇いたいのかって聞かれたら明確ですよ。



僕の欲しい人材はスキルや学歴よりも、「オリジナルが確立されて可能性がまだまだ見出せる、そして礼儀礼節を重んじて裏切りや嘘をつかない誠実で真面目な人」です。



愚痴やぼやきや言い訳なんて論外、そんな口を叩いたら即解雇(法的に問題)ですよ。



需要と供給が成り立つと仕事は勝手に舞い込んできたり、または自分で勝手に作りだせます。



仕事がうまく行かない理由の1つには、こうした何かの欠落がどこかに潜んでいる事も多いですね



何かのせいにする時間があれば、自分を見つめ直す旅に出ればいいのです。



旅行じゃなくてもいい自分探しは出来るし、多くの動機は何かしらの刺激を受ける事ですからね。



客観視できるような環境作りも大切。



難病を患っていても仕事が出来る人から学べる事は、ここで僕が書かなくてもほとんどの人は「本当は分かっている」と思います。



目を背けたいだけなんですね今の自分に合った仕事が見つけられないから。



恋人や配偶者を見つけられないから。



自分が変われば周りも変わる事に気付いていないから。



心は自由なので、柔軟な発想を自ら封じたり押さえつける事さえしなければ無限の可能性を秘めているって事を、本当はみんな知っていて違うところを見てしまう。



そういう状況の人は今こそ向き合うべき時なのかもですね、そして本当のオリジナルを見つけていって確立していく。



今の現状を人生の基礎に変換するだけで、過去を基礎にしたって言う笑い話に後からいくらでも言えるようになりますよね。



イメージ通りじゃない自画像を好きなように今から書き換える事は、いくらでも出来ます。



完成度はいくらでも高められます。




迷子になっている自分も後の基礎とするのか諦めて無かった事にするのか、または一旦諦めて軌道修正して全く違うジャンルで活かして成功していくのか。



道を引き返して軌道修正するのは勇気のいる事だけど、そういう選択肢も時に正しい時と正しくない時があるので、見極めが難しいですが、自分をたくさん知れば「何と何をしている時が腑に落ちる時なのか」が答えに近いかもです。



どんな時に自分は喜びを感じて充実感を得るのか、何をしたら不快感が残り何をしたら幸福感に包まれるのか。



まだ見ぬ多くの自分を知れば、やがてその道筋が見えてくると思います。



その先にある安住の地はそこにしかないので、他人が住んでいる事はありません。



全部空家です。



それが自分の生きる道となり、オリジナルを確立した本物の我流となると思います。



今日もご愛読ありがとうございます。

どうも、御嶽山のニュースと最近自宅の近くコンビニに車が突っ込んだニュースを見てから、「明日は我が身」だと過剰に思っている僕です。



タイトルにあるセオリー通りって言うのは、俗に言うネットビジネスの基本のような流れです。



読者にとって役に立つような、貢献するような文章を書く。



興味を持ってくれた人にメルマガ配信等を促す。



③?後は、えーっと何だろ…まぁいろいろありますよね。



何かでクリックしていけば、ランディングページが出てきたりメルマガ登録推奨みたいな、「またこのパターンの宣伝手法かよ!」ってやつです。


良いも悪いも言いませんが、誰もが一遍通りしていると、まるで今の地上波テレビのような状態になりますね。



テレビ番組が悪い訳ではないけど、構成パターンがどれも似たり寄ったりで現代のテレビには枠からはみ出ない関係者が増えたのか、どうも面白みに欠けるので例えてみました。



とにかく僕の奇抜なアフィリエイトって、セオリーを無視してもいいんじゃないかなって思ったんですよね。



枠に収まったらエキセントリックって言わねぇよって、本当にその一言に尽きます。



例えば地下アイドル等の市場は凄いですが、オタクと呼ばれる一部の人に受けただけで他の市場に影響を及ぼしたのです。



AKB48によって完全に確立されましたが、もちろん僕が興味のある分野でもありません。



ただ、ビジネスの世界において「一部の人だけが共通して響く要素」っていうのが市場の囲い込み戦略において、非常に大切だと思いました。



僕は読者の役に立つような記事を書くつもりもありませんし、ボランティアで記事を更新しているだけの人ではないビジネス思考の人間です。



(多少は読者へのお返しの気持ちがありますが、それは個人的な返報性の法則です。)



去年、記事を書き始めた時に書いたかもしれませんが、後々この市場が活性化して全国各地で奇抜なアフィリエイターさんが増殖していった場合、この記事を見る可能性があります。


もしくは僕が死んでしまった後か隠居してから、まるで語り継がれるような流れになってしまう可能性もあると思います。



まぁ直接的には前者を意識していますので、将来僕1人で大多数に対して全員に同じような情報を伝達出来ないので、ブログ記事に残しておく意図が主となります。



記事を残しておく事で後から何度でも読み直せるメリットもありますね。



それに、あわよくばって話ですがブログを書籍にする機会がやってくるかもしれないです。



人生何が起きるか分からないので、可能性の1つとして否定出来ないですよね。



このブログがある日突然世間から注目され始めて一気にブログランキングが上位10以内に食い込んで、何らかの問い合わせがくるかもしれません。



「これは何なんだ?」


「続きが気になる」



映画のCMで僕がまんまと引っ掛かってしまうのですが、これらを意識してCM制作している人がいるっていうのは間違いないですね。



ここに着眼して仕事を進めるってのもアイデアの1つなのかな?広告業の大きなヒントですね。



「続きはWEBで」って言うのも、最初は何のこっちゃ「なんでテレビCM流してるねん」って本末転倒かと思いきや最近になって、広告媒体の2段階構成戦略では成功事例の1つなのかなって感じる時があります。



気になった人だけ、いくらでも検索してくれる時代になったのですから、これを活用しない手はありません。



どこまで言っても広告の世界はアイデア1つ次第で変わる業界だと思います。



兎に角、僕のやり方って言うのはアフィリエイトをこれから始める人が参考になるかどうか分かりません。


その上、読者の為ではあっても「読者の役に立つ記事を書く意図」はありません。



僕はただ、ありのままの自然体で…(これもディズニーを彷彿させるような意図をしてません、たまたまです!)















そして「全ての点と点は導線で繋がり始めて、いずれ集約される」





右脳タイプの僕がぼんやりイメージしているキーワードです。



人と変わったやり方を追求・模索するアフィリエイターさんしか興味を持たれないかもしれません。


でも、やる気があまりないアフィリエイターさん1000人よりも、追求型で本気のアフィリエイターさん10人の方が影響力があるかもって、僕は個人的に予想しています。


そしてどこかで本気の方が、僕の傘下のどこかのグループに所属された場合で、僕のこのブログを見かけられた時の為に記事を更新しています。


「この人が始祖かな?」って頭によぎりながら、僕の過去記事等を見て下さるかもしれない。



…これは、激しい僕の妄想ですね(しかも長期プラン過ぎる)



短期・中期・長期のプランを立てているうちの中期以降です(具体的に明確なフューチャーマップを描いているかも)



マップを描いていれば、人生のナビゲーションの役割になってくれるんですよねぇ。



一体何の話でしょうか、分かる人には分かると思います。



そしてこれらの足跡は、ある程度までは残します。



近い将来にまたセミリタイヤしちゃうので、ブログ更新も完全に途絶える可能性がある為に、いつまでも足跡が残らないって意味です。



ありきたりなやり方の成果報酬と、奇抜なやり方の成果報酬を比べてみたら、その差は雲泥の差になるかもって妄想しています。



大きな報酬が発生するまでの時間はかかる事もありますが、いずれ後者が大きな報酬で安定するかもしれないと僕は思っています。



今日もご愛読ありがとうございます。